キーパーソンは佐藤博
ハマ バンドの皆さんの適応力もすごいですよね。この間までファンキーな曲を演奏していたのに、急に「北京ダック」のデモができあがってきたときに、「あっ、この感じね」ってわかり合える。その感度が恐ろしい。
安部 でもどうなんだろう。実際、みんな同じような感度だったんですか? びっくりして「何これ!?」ってならなかったんですか?
細野 たぶん、びっくりしてたと思うよ(笑)。
安部 そういうときって、どう演奏していいかわからなくなると思うんだけど。
細野 彼らの手法はロックやファンクだから、基本的にはそういう音になるわけだよね。当時、僕とバンドメンバーの仲介役だったのが、キーボード奏者の佐藤博だったんだ。彼は大阪にいた頃、クラブに出ていてエキストラをやったり箱バンみたいなジャズバンドに入ったり、いろいろアルバイトしてたわけ。だからいろんな音楽を知ってたんだよね。いろんなことに対応できるオールマイティなプレイヤーだったんで、「北京ダック」のデモを聞かせたときにクラビネットを弾いてくれて、そのフレーズがよかったんだよ。「このフレーズがあれば、この曲はいけるな」と。
ハマ あのフレーズ、佐藤さんが「こんなんどう?」って感じで出したってことですか?
細野 そう。佐藤博の存在はすごく重要だったね。
ハマ スタジオで一緒にやるミュージシャンに任せていたというのはそういうことですよね。細野さんがフレーズを指定してたわけじゃない。
安部 あのー……お金の話になっちゃうんですけど。
ハマ 突然(笑)。
安部 ミュージシャンの皆さんをスタジオに呼ぶじゃないですか。そういうときって、“1日何時間拘束でいくら”みたいなギャラの規定はあったんですか? 1カ月やるとなると、今の僕らの感覚だと、なかなかね。
細野 ミュージシャンをインペグする場合はそうだけど、僕らはバンドスタイルだったんで。トータルでギャラが出てると思うけど、そこには全然タッチしてないからわからないな。キャラメル・ママというバンドだったから。ただ松任谷(正隆)くんはこのときはいないんだよね。
ハマ 正確には、キャラメル・ママとちょっと違う。佐藤博さんとかも含めたメンバー。
伝説の中華街ライブの舞台裏
安部 「北京ダック」の歌詞が大好きなんですけど、どんな世界観を想像してこんな歌詞が生まれたんだろう。そのとき読んでいた本の影響とか?
細野 藤子不二雄Aの短編マンガだよ。北京ダックなんとか……っていうタイトルの(「北京填鴨式」)。
安部 横浜を舞台にしたのは?
細野 よく遊びに行ってたんで。遊ぶと言っても、フラフラしてるだけ。姉に連れられて、元町とかに小学生の頃から行ってたんだよ。そこでしか売ってないトレーナーを買ったりして。FUKUZOっていうブランドだったね。中華街で火事が起こるという歌を歌っているのに、同發新館というレストランでライブをやらせてもらって、中華街の人からひと言も文句を言われなかったんだよ。「いいのかな?」と思っていたんだけど。
ハマ のちに(星野)源さんをゲストに呼んでそのライブの再現公演をやられていましたけど(参照:細野晴臣40年ぶり中華街ライブで星野源とゲロッパ!)、オリジナルのライブもすごいですよね。ちょっと脱線しちゃいますけど、あのライブはなんで映像を収録したんですか?
細野 あれは景山民夫(放送作家、小説家)の存在があってこそできたテレビ番組。
ハマ うっわ、テレビだったんだ!
細野 クラウンの要望で、クラウンから派遣されたカメラで違うフィルムでも撮ってる。今みんなが観てるのはそっちのほうで、テレビ番組の映像は残ってないんだよ。観たいんだけどね。どこかに残ってないかな。
安部 ……あれをどんだけ真似したいと思ったことか。
ハマ 本当に。あの衣装もね。
細野 あの衣装は自前だね。
安部 細野さんから、メンバーの皆さんに衣装の方向性を説明するんですか? 「こんな雰囲気だよ」みたいな。言い方アレだけど、うさん臭さ、怪しさみたいな(笑)。
ハマ 細野さんの格好がキマってるから余計ね、周りのみんなも(笑)。
細野 あの時期には、みんなもわかってきたから、この世界を。景山くんもわかっていたしね。
安部 あの緊張感のある中、演奏のギャップがすごいカッコよくて。
ハマ お客さんからも近いしね。本当に生音みたいな状況だし。
細野 長門芳郎くんという当時のマネージャーがステージ周りのセットを考えてくれた。
ハマ 細野さんが着ている、あの印象的なスーツは?
細野 中古の麻のスーツみたいな。よく覚えてないんだけど。
安部 あの時代、皆さん恰好がいいんだよね!
ハマ そもそもあの時代に作られた洋服のカッコよさのポテンシャルもある。あのとき、細野さんがちょっとフレームの角数が多い眼鏡をかけてらして。それを観て、僕、そういう形の眼鏡をかけ始めたんですよ。それまで黒縁だったのに。あの映像を何度も一時停止して。「これ、何角形なんだろう」って。
安部 僕も「
細野 最近になって、そういうことを言われることが増えた。「靴がなんとかだ」とかね。SNSでそういうコメントを見て、みんなそういうところを見てるんだということを知ったよ。だからうかうかしてらんないよ。
ハマ やっぱりファンとしては、中華街ライブの映像があるっていうのはすごいことだと思いますよ。
細野 でもね。恥ずかしいんだよね。炭酸飲料を飲みすぎて歯がボロボロなんだよ。
ハマ それ、親が子供に止めさせるための理由じゃないですか(笑)。
細野 家の真向かいに親戚が住んでいたんだけど、大使館か何かに勤めていて、洋物をいっぱい持ってるわけ。
ハマ 洋物(笑)。
細野 日本でまだ売ってなかった時代だったんだけど、親戚の家に行くとそれを飲まされるんだよ。初めは「薬みたい」って思ったんだけど、だんだんクセになってきて。だから中華街ライブのときは歯が抜けたりしている。「歯が抜けたまま歌ってる人って、今まで2人しか見たことない」ってピーター・バラカンに言われたよ。もう1人はイギリスのThe Special AKAの人(ジェリー・ダマーズ)(笑)。今思うと恥ずかしい。やっと今、普通の人間になったよ(笑)。
安部 この連載、こういう話が聞けるのが大好き(笑)。それがむしろ音楽の面白さというか、危うさにつながってる感じがしていいなって。
ハマ このエピソードも、場合によっては松田優作が役作りで奥歯を抜いたみたいなことと同じように語られるというか(笑)。真似する人がいたっておかしくない。
細野 真似しないように(笑)。
<後編に続く>
プロフィール
細野晴臣
1947年生まれ、東京出身の音楽家。エイプリル・フールのベーシストとしてデビューし、1970年に大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成する。1973年よりソロ活動を開始。同時に林立夫、松任谷正隆らとティン・パン・アレーを始動させ、荒井由実などさまざまなアーティストのプロデュースも行う。1978年に高橋幸宏、坂本龍一とYellow Magic Orchestra(YMO)を結成した一方、松田聖子、山下久美子らへの楽曲提供も数多く、プロデューサー / レーベル主宰者としても活躍する。YMO“散開”後は、ワールドミュージック、アンビエントミュージックを探求しつつ、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。2018年には是枝裕和監督の映画「万引き家族」の劇伴を手がけ、同作で「第42回日本アカデミー賞」最優秀音楽賞を受賞した。2019年3月に1stソロアルバム「HOSONO HOUSE」を自ら再構築したアルバム「HOCHONO HOUSE」を発表。この年、音楽活動50周年を迎えた。2023年5月に1stソロアルバム「HOSONO HOUSE」が発売50周年を迎え、アナログ盤が再発された。2024年より活動55周年プロジェクトを展開中。2025年6月に2ndソロアルバム「トロピカル・ダンディー」のアナログ盤が再発された。
安部勇磨
1990年東京生まれ。2014年に結成された
ハマ・オカモト
1991年東京生まれ。ロックバンド
バックナンバー
tonia @tonia_ysmgo
「トロピカル・ダンディー」50周年記念企画(前編)
細野ゼミ 番外編(前編) https://t.co/LFnZtjl9HP