ゼミ生として参加するのは、細野を敬愛してやまない安部勇磨(
取材・
不動の存在としてのThe Beach Boys、The Beatles
──2025年は、ポップミュージック界の巨星の訃報が相次いでいます。6月には、本ゼミでもたびたび名前が上がっていたブライアン・ウィルソンとスライ・ストーンがどちらも82歳で亡くなりました。そこで今回はブライアン・ウィルソン、次回はスライ・ストーンをテーマに話を伺います。ゼミ生のお二人がブライアン・ウィルソンを知るきっかけになった作品などはありますか?
安部勇磨 「Pet Sounds」です。幼いときに……。
ハマ・オカモト 「幼いときに」?
安部 10代の終わりの頃ね(笑)。最初に聴いたときは、なんか怖かったです。“楽しそうだけど、怖い”。「なんだろう、この響きは?」っていう、魔術的で怖かったイメージがあるの。The Beatlesも最初はそんなイメージだったんですけど。
ハマ 僕はThe Beach Boysの「I Get Around」を好きになったのがきっかけでしたね。中学生のときに初めて聴きました。ブライアンのトリビュートイベント(2005年の「Musicares Presents A Tribute To Brian Wilson」)で、Red Hot Chili Peppersがカバーしていたんです。あの印象的なコーラスも再現していました。それから数年後に「The Beach Boysと言えば!」みたいな感じで「Pet Sounds」を知って、さぞやサーフィンミュージックみたいな感じなんだろうなと思って聴いたら……「これはどう咀嚼したらいいんだろう?」って。当時15、6歳だったんで、わかるようになるまでちょっと時間がかかりましたね。細野さんが最初にThe Beach Boysを聴いたのは?
細野晴臣 中学生のとき。初めて聴いたのは「Surfin' U.S.A.」だね。FENのトップ20を聴いてたら耳に飛び込んできた。
安部 やっぱり、「面白い録り方をしてるな」とか思ったりしたんですか?
細野 キックの音が大きい、とか。あと、異質なものだと思った。それまでの“プロの作家が曲を作ってアイドルが歌う”ってパターンじゃないというか。「Surfin' U.S.A.」は……1963年か。最近「なんだこれは?」と思わされるような音楽ってないけど、当時のThe Beach Boysはそうだったんだよ。初期の頃はサーフィンとホットロッドの流行の中でも特別な存在だったね。
「Surfin' U.S.A.」
──それぞれ思い入れのある作品は違うと思いますが、皆さんにとってブライアン・ウィルソンはどういったアーティストですか?
安部 僕から話していいですか? というのも、事前に学習しておこうと思ったんですが、実はテーマを勘違いしてしまってブライアン・イーノを聴いてきちゃったんです……。
ハマ 勇磨、疲れすぎだよ(笑)。
細野 全然違うよ(笑)。
安部 だから今回は勉強モードです! すみません! ただ、ぼんやりとした印象だけはあるんですよ。“革新的なレコーディング技術で作品を作った人”みたいな。
ハマ 確かにThe Beatlesとともに、レコーディングのときに「こんなんやったらどうなるんだろう?」みたいなことを試し始めた最初の人たちという認識がある。The BeatlesもThe Beach Boysも、お互いに手の内を探り合っていたというエピソードもあるし。アイドル的な感じから徐々にアーティスト的になっていったThe Beatlesに比べて、The Beach Boysは急激に実験的なサウンドを追求し始めたから、ファンもついていけなかったのかも。
細野 The Beatlesが音楽的に変化していった時期に、The Beach Boysも同じように進化していった。お互いに作品を聴き合っていたんだよね。ポール・マッカートニーがブライアンのところに行って、レコーディングについて話を聞いたこともあったらしい。デビュー時は交流がなかったけど、どんどん刺激し合う存在になっていった。しかも、ブライアンはレコーディングにしか興味がなかったんだよ。途中からライブをやらなくなっちゃった。
ハマ 今みたいに録音技術の選択肢も広くない時代じゃないですか。そういう時期だからこそ、純粋に互いのことが気になっていたんでしょうね。結局The BeatlesもThe Beach Boysも、レコーディング技術の話になっていきますもんね。そういうところが語られるバンドって、実はあんまりいない。だからその2組はパイオニアであり、不動の地位にいるんだろうな。
大瀧詠一の前で「Surfin' U.S.A.」を歌ったら
細野 とにかくブライアン・ウィルソンは伝説のアーティストなんだ。1967年にThe Beach Boysがリリースするはずだった「Smile」という作品が大問題になったんだよ。ブライアンがメンタルを病んで1人でスタジオにこもって、サウンドを模索して……彼は当時、自分が作るサウンドを“ポケットシンフォニー”と呼んでいたんだ。つまり小編成ながらスタジオで創造するシンフォニーにこだわった。それでプロのミュージシャンを集めて、長い時間をかけて、スタジオで思いついたことを全部実行していったわけだけど、莫大な時間とお金がかかってね。しかも結局、未完成で発売されなかった。それが1つの伝説になったんだよ。そういうこともあって、彼の作る音楽は日本にいる僕たちミュージシャンにとって“アメリカの音楽史のすごい位置にある秘密の音楽”なんだ。だからこの時期、日本ではそれほどポピュラーではなかった。コピーするバンドも少ない。山下達郎ぐらいじゃない? もし僕が高い声だったらコピーしてただろうな。昔、はっぴいえんどの頃、大瀧詠一の前で「Surfin' U.S.A.」を歌ったことがあるんだよ、低い声で。それで大笑いされたことがある。
ハマ 真面目にコピーしたんですよね?
細野 笑わせようとは思っていなかったよ(笑)。
ハマ 大瀧さんなんてまさに、The Beach Boysを研究されていたんじゃないですか?
細野 彼は好きなことは深く研究するからね。
ハマ ……愚問でした(笑)。
細野 コーラスの組み方とかね。The Beach Boysは、誰もやっていなかった時代に初めてああいう複雑なコーラスを取り入れたわけだけど、元はThe Four Freshmenなんだよ。すごく繊細かつ技巧的なコーラスアレンジメントをしているグループで、ブライアンは彼らにすごく影響を受けていたみたい。ブライアンは僕より上の世代で、1940~50年代の音楽にすごく思い入れがあるから。ジョージ・ガーシュウィンが好きだったりしてね。とにかく、僕らの周りでThe Beach Boysに影響されてない人はいないんじゃないかな。僕の世代は日本の音楽の主流とはズレてるけどね、ズレてる人にとっては大事な存在なんだ。ブライアン自身、アメリカの音楽界の中心からだんだんズレていったんだけど。とにかく初めてラジオで聴いてから、何十年も追いかけてる。ブライアンの死で1つの区切りがついたね。
“1日サーファー”細野晴臣
tonia @tonia_ysmgo
ブライアン・ウィルソン追悼企画
細野晴臣、ブライアン・ウィルソンを語る
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