細野ゼミ 補講8コマ目 [バックナンバー]
細野晴臣が再び歌い始めた20年前を振り返る(前編)
細野晴臣を歌に向かわせた狭山でのライブ、キラキラの伊藤大地がもたらした影響
2025年12月17日 20:00 11
補講8コマ目のテーマは「細野晴臣のビクター / SPEEDSTAR RECORDS期」。今年10月、SPEEDSTAR RECORDSから発表したアルバム7作品のアナログ盤が再発されたことを記念した企画となる。ゼミ生として参加するのは、細野を敬愛してやまない安部勇磨(
取材・
細野晴臣が再び歌い始めた理由
──今回は細野さんのビクター・SPEEDSTAR RECORDS期の作品に的を絞ったお話を、前編と後編に分けてお届けできればと思います。本稿で“ビクター期”と定義する作品はHARRY HOSONO & THE WORLD SHYNESS名義の「FLYING SAUCER 1947」(2007年)、「HoSoNoVa」(2011年)、「Heavenly Music」(2013年)、「Vu Jà Dé」(2017年)、「HOCHONO HOUSE」(2019年)までのオリジナルアルバム5作品です。「HOCHONO HOUSE」はつい最近の作品だと思っていましたが、もう5年以上前になるんですね。
ハマ・オカモト 早いですね。ライブ盤(2021年発売の「あめりか / Hosono Haruomi Live in US 2019」)などは出ているけれど。この連載の初期に「HOCHONO HOUSE」の話をしてますよね。安部勇磨の発言がきっかけだったという話を。
安部勇磨 何回も読み返してニヤニヤしてる(笑)。
ハマ 勇磨の功績だからね。
──「FLYING SAUCER 1947」の前のアルバムになると、「ナーガ」(1995年)までさかのぼります。12年も空いていて。
ハマ&安部 ええええ!
細野晴臣 そんなに前なんだ。何やってたんだろう?
──2005年に映画「メゾン・ド・ヒミコ」のサントラ盤を手がけられたりしていましたね。というわけで、まずは12年ぶりのオリジナルアルバムとして大いに話題になった「FLYING SAUCER 1947」について伺っていきましょう。制作時、細野さんはどんな気分だったのでしょうか。
細野 2005年に「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」(※埼玉県狭山市狭山稲荷山公園で行われたイベント)に出たのがきっかけになったんだ。それまではアルバムを出すなんて考えていなかったんだよ。第二の故郷とも言える狭山の人たちが主催したイベントだったから、「こりゃ出ないといけないな」「狭山で作った『HOSONO HOUSE』の曲をやらなきゃな」と思ってね。で、いっぱいリハーサルしたんだ。ひさしぶりに歌を歌ったから、声が枯れて出なくなっちゃったのを覚えているよ。
──このとき、細野さんは東京シャイネスというバンドを率いて出演されました。その東京シャイネスを発展させたのが、「FLYING SAUCER 1947」のワールド・シャイネスで。
細野晴臣「FLYING SAUCER 1947」
ハマ 東京シャイネスのメンバーは?
細野 鈴木惣一朗と浜口茂外也、
ハマ 当時はライブをやってなかったですよね?
細野 やってない。しかも、それまではずっとアンビエントをやっていて、インストばかり作っていたでしょ? 歌うことも全然考えていなかった。でも、とにかく狭山で「HOSONO HOUSE」の曲をやらなきゃいけないという義務感が強かった。だから、1回だけだと思っていたの。
安部 歌ってみたら、楽しいと思えたんですか?
細野 いや、ちょっとつらかったよね。声が出ないから。
ハマ 「ハイドパーク~」を終えて、歌うことはしんどかったけど、その後も歌い続けてみようと思ったんですね。
細野 確か、フェスのギャランティが少なかったんじゃないかな(笑)。実際のところは知らないけれど、僕は勝手にそう思ってて。それで「バンドメンバーにもっといい思いをさせなきゃ」ということで、もう1回ライブをやろうと思ったんだ。九段会館でやったね。それでおしまいにしようと思ったら、また手を挙げてくれる人がいて、今度は福岡の大学のホールでもやって。するとまたライブに声がかかるようになった。それがいまだに続いてる(笑)。
ハマ そのうちに、「『HOSONO HOUSE』の曲だけやるのもな」って気持ちになっていったんですか?
細野 そうだね。ライブをやっていると声が出るようになって、それから昔の曲をカバーしたりして。そのうちだんだん楽しくなってきたんだね。
伊藤大地はキラキラしていた
ハマ ビクター期の作品には細野さんのルーツミュージックのカバーがたくさん収録されていますけど、それに至るまでに「ハイドパーク~」からの流れがあったんですね。
細野 ガラッと変わったのが、日比谷野音のライブに出たとき(※2007年7月28日、日比谷野外大音楽堂にて開催されたトリビュートライブ「細野晴臣と地球の仲間たち“空飛ぶ円盤飛来60周年・夏の音楽祭”」)。
──細野さんの還暦を記念したイベント。
細野 そうそう。あのとき、当時
ハマ すごくいい話ですね!
安部 そこで新しい音楽の形を見つけたって感じなんですね。
ハマ 大地さんがバンドに入るまでは、どういう流れだったんですか?
細野 それが、経緯がわからないんだよ(笑)。
ハマ ええ?(笑) 今振り返ると、のちに大地さんと同じSAKEROCKの
細野 今にして思えばそうなんだけど、当時は行き当たりばったりだったから。星野くんにも「ハイドパーク~」で初めて会ったんだよ。SAKEROCKのギタリストとしてね。彼はまだ20代だった。
ハマ でも、すごくいい話。そんなこと言われたら、大地さんも本当にミュージシャン冥利に尽きますよね。細野さんとしては、どのあたりに大地さんの気合いを感じられたんですか? 曲を理解する姿勢とか、そういうところですか?
細野 理屈抜きで、音が跳びはねている感じがしたんだよ。リズムの感じがすごくいいんで、こっちも新しい気持ちになるんだ。つまりノっちゃうわけだね。「若いな~」と思った。
ハマ 大地さんって僕らからすると冷静な印象がありますけど。
安部 クールな先輩って感じだよね。細野さんは、大地さんが何者かわからない状態で一緒にスタジオに入ったんですか?
細野 いや、さすがにスタジオで「はじめまして」ではなかったと思うけど(笑)。でも、深くは知らなかった。
──当時は大地さんもとてもお若いですから、緊張していたでしょうね。
細野 緊張と言うよりも、目がキラキラしてたね。“ギラギラ”じゃなくて、“キラキラ”ね(笑)。そこがよかった。
ハマ 死後くんに目がキラキラしてる大地さんのイラストを描いてほしい。
──その後、漣さん、伊賀さん、大地さんは細野さんのバンドメンバーとして固定されていきます。
細野 そうだね。「FLYING SAUCER 1947」は狭山組が多かったけれど、その後のビクターで作った作品はそのメンバーが中心だね。
──バンド名のようなものはないにせよ、細野さんのキャリアで最も長く一緒にやったバンドになりましたね。
ハマ ポール・マッカートニーのWingsみたい。The Beatlesよりも長い。
細野 そうそう。
ハマ 最近は違うメンバー(
細野 そうなったね。それも成り行きだけど。
ハマ なんか不思議。大地さんに会うと「細野さん、元気?」って言われるんですよ。
細野 大地くんは元気なんだよね?
ハマ はい。相変わらず電車にいっぱい乗ってるみたいです。
細野 へえ、いいね。彼はぶどうマニアでもあるんだよ。「その品種は皮ごと食べなきゃダメです」と言われる(笑)。
一同 (爆笑)。
「10年後が楽しみだね」に込められた真意
高野 寛 🍥 @takano_hiroshi
僕の記憶が正しければ、伊藤大地くんが細野さんと初めて一緒に演奏した日を目撃してたはず。青山CAYで細野さんが定期的に開催していたイベント。大地くんは太陽バンドで久保田麻琴さんの目に止まって、麻琴さんが細野さんに紹介した...とその時聞いた気がする。
https://t.co/RDIeQN5An8