ちょっとマニアックに作っちゃった「アワー・コネクション」
──最初の歌謡曲仕事が
細野 それ以降しばらく歌謡系の仕事は全然やっていなかったんだけど、
ハマ あのティン・パン・アレーがバッキングしてるアルバムですか?
細野 そう。あれは、なんてタイトルだったかな?
ハマ 「アワー・コネクション」(1977年)ですね! 最近再発されたんですよ。すっごい人気の盤だったんだけど。
細野 けど、その仕事も単発で、継続することはなかった。ちょっとマニアックに作っちゃったから(笑)。
聖子ちゃんは歌がうまいから……
ハマ でもあれはすごい化学反応ですよね。ちなみに時系列的にいうと荒井由実さんのお仕事は?
細野 その前だよ、ユーミンは。
ハマ ユーミンさんに関しては、細野さんの中で、いわゆる歌謡仕事とは一線を画していたんですか?
細野 じゃなかったね。わりと自分たちのテリトリーの中から出てきた人だったから。
ハマ そうですよね。でも、たぶん今多くの人はユーミンさんを歌謡曲の人だと思っていますよね。そういう認識になっていたのって、やっぱり80年代くらいですか?
細野 そうだね。
ハマ 「松本隆のせいだけど」(笑)。細野さんにしか言えないですね(笑)。確かに、その後、
細野 そうそう。
ハマ 「天国のキッス」「ガラスの林檎」「ピンクのモーツァルト」など、細野さんも松本さんと組んで聖子さんの曲を作曲されていますけど、そういうときって、「松本隆さんが歌詞を書きます」とか事前に伝えられるものなんですか?
細野 いや、仕事自体が松本隆から直接来るんだよ。
ハマ なるほど! そういうことなんだ。「細野さん、曲作って」ということなんですね。
細野 そう。
安部 お二人別々にオファーが来るんじゃなくて、そういう流れがあったんですね。
細野 松本隆はその時点で本格的に歌謡曲の仕事をしていたからね。筒美京平さんとコンビを組んで急成長してた。それで80年代に入って松田聖子さんの仕事をして、それも非常にいい成績だったでしょ。それであるとき松本から「松田聖子のアルバムに1、2曲作ってほしい」って依頼があったんだよ。たぶんお試しだったんだろうね(笑)。
ハマ へえ! 細野さんは、レコーディングのとき歌録りに立ち会ったりしてたんですか?
細野 あんまり深入りはしないけど、松田聖子さんの歌入れには1、2度、顔を出してる。
ハマ 作曲家としてどういう気持ちだったんですか? ご自身が作った曲が、みんなが知っている曲になっていくっていう。
細野 松田聖子さんの場合、1、2度練習してからレコーディングしてOKが出ちゃう。それほど歌がうまいんだよね。特に僕から話すこともないっていうか(笑)。
一同 はあ……。
その時点で持っているものを全部出さないとダメ
安部 ちなみに細野さんの中で「聖子ちゃんにこんな曲を書いてみたい」というような気持ちはあったんですか? それとも、聖子さんサイドの要望に応えるみたいな感じだったんですか?
細野 作曲を頼まれた時点で、松田聖子さんが歌うって決まってるから、過去にどんな曲があるのか、やっぱ聴くじゃない? それで大体わかるわけだ。そこに合わせて曲を作っていくから、こっちに引き寄せる必要もないというか。
安部 例えば曲を提供したとき、「この曲めっちゃいいじゃん! 自分でやりたくなっちゃったから出したくない」とかなったりしないんですか? 「聖子ちゃんにあげたくない」みたいな(笑)。
細野 なんて言ったらいいかな……とにかく、その場でできることを全部出しちゃわないと曲ができないわけ。
ハマ そんなに余裕がないんですね。
安部 そのときのベストを尽くすしかないっていう。
細野 うん。だから前に自分が作った曲を出すこともあるし。その時点で持っているものを全部出さないとダメだから、なんにも残んない(笑)。
──すごく気力のいる作業ですよね。
細野 でもそれがすごく練習になったところもある。
ハマ 楽曲提供する際の、スイッチの入れ方というか。
細野 そう。僕の場合、切羽つまんないとダメだね(笑)。
安部 はははは(笑)。
細野 松田聖子さんに提供した曲が気に入られたのかどうかはわからないけど、その後シングル曲の依頼が松本から来るようになって。そうこうしているうちに作曲の仕事が増えていった。
ハマ それはもう評判も広がるでしょうからね。
安部 細野さんは
細野 森進一さんもやったね。あれは前例として、大瀧詠一くんが書いた「冬のリヴィエラ」がヒットしていたんだ。じゃあ今度は細野だっていうので(笑)。
歌謡曲と言えば筒美京平
──先ほどもお名前が挙がりましたが、筒美京平さんは細野さんにとってどのような存在だったんですか?
細野 歌謡曲の世界と言ったら、やっぱり筒美京平さんですよ。はっぴいえんどの初期の頃とかは、日本の音楽を全然聴かなくなっていたんだけど、筒美さんの曲だけは耳に飛び込んでくるんだよね。西田佐知子さんの「くれないホテル」という曲がすごくいいなって思って、シングル盤を買っちゃったんだよね。メンバーもびっくりしてて。
ハマ 「え、細野さんが『くれないホテル』を買ったの?」みたいな(笑)。
細野 すごく洋楽っぽかったんだよね、その曲は。ちょっと前に流行っていたエンゲルベルト・フンパーディンクの「The Last Waltz」という曲のエッセンスが色濃く感じられて。
ハマ 当時それがわかって聴いている人と、わかって聴かない人もいて、細野さんは「やっぱこれだな!」って、わかってたってことですもんね。
細野 アレンジにその曲の要素がすごくうまく取り入れられていて。でも、はっぴいえんどの頃って歌謡曲とはそういう接点しかなかったなあ。洋楽のエッセンスを感じるかどうか。だから僕にとっては“歌謡曲=筒美京平”だったんだよね。
<後編に続く>
細野晴臣
1947年生まれ、東京出身の音楽家。エイプリル・フールのベーシストとしてデビューし、1970年に大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成する。1973年よりソロ活動を開始。同時に林立夫、松任谷正隆らとティン・パン・アレーを始動させ、荒井由実などさまざまなアーティストのプロデュースも行う。1978年に高橋幸宏、坂本龍一とYellow Magic Orchestra(YMO)を結成した一方、松田聖子、山下久美子らへの楽曲提供も数多く、プロデューサー / レーベル主宰者としても活躍する。YMO“散開”後は、ワールドミュージック、アンビエントミュージックを探求しつつ、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。2018年には是枝裕和監督の映画「万引き家族」の劇伴を手がけ、同作で「第42回日本アカデミー賞」最優秀音楽賞を受賞した。2019年3月に1stソロアルバム「HOSONO HOUSE」を自ら再構築したアルバム「HOCHONO HOUSE」を発表。この年、音楽活動50周年を迎えた。2020年11月3日の「レコードの日」には過去6タイトルのアナログ盤がリリースされた。
・hosonoharuomi.jp | 細野晴臣公式サイト
・細野晴臣 | ビクターエンタテインメント
・細野晴臣_info (@hosonoharuomi_)|Twitter
・Hosono,Haruomi(@hosonoharuomi_info) ・Instagram写真と動画
安部勇磨
1990年東京生まれ。2014年に結成された
・never young beach オフィシャルサイト
・Thaian Records
・never young beach (@neveryoungbeach)|Twitter
・Yuma Abe(@_yuma_abe) ・Instagram写真と動画
ハマ・オカモト
1991年東京生まれ。ロックバンド
・OKAMOTO'S OFFICIAL WEBSITE
・ハマ・オカモト (@hama_okamoto)|Twitter
・ハマ・オカモト(@hama_okamoto) ・Instagram写真と動画
バックナンバー
細野晴臣 Haruomi Hosono _information @hosonoharuomi_
細野晴臣と歌謡曲 | 細野ゼミ 5コマ目(前編) https://t.co/srlycfdQUH