一時期は活動をセーブしていた岡本真夜が、デビュー30周年を迎えた昨年TBS系の音楽特番「音楽の日」へ出演したことをきっかけに改めて脚光を浴びている。10年ぶりの出演となった「音楽の日」で彼女が公表したのは、2010年頃に発症したというメニエール病と長年にわたる声の不調。思うように歌えない日々が続く中でもあがき続ける姿だった。1人のボイストレーナーとの出会いを機に、徐々に“自分の歌声”を取り戻していったという岡本。活動に明るい兆しが見える中でリリースされるのが、ミニアルバム「singer-songwriter」だ。1人のシンガーとして、ソングライターとして、30年にわたって多くの人たちを元気付けてきた彼女は、今どんな未来を描いているのか──。
取材・文 / 秦野邦彦撮影 / 大村祐里子
「TOMORROW」はヒットしたけど……
──デビュー30周年の集大成となるミニアルバム「singer-songwriter」が完成しました。まずは30周年を迎えた思いを聞かせてください。
もともと、まずは30年残れるシンガーソングライターになることが目標だったので、初めて夢が叶ったと思えた瞬間だなと自分では感じています。そこまで何回もやめようと思ったり、いろんな壁はもちろんあったんですけど、そのたびに周りの人、スタッフや友人が助けてくれたので、本当に皆さんに感謝です。
──岡本さんがデビューされた1995年は、阪神・淡路大震災や大きな事件もあり世相的には暗い時期でしたが、そうした中、デビュー曲「TOMORROW」は光を灯すような形でヒットしました。
正直、デビュー当時は、あまり実感を持てないまま他人事のように感じていたんです。5月にデビューして年末の「紅白歌合戦」まで半年くらいの間、メディアに顔を出していなかったので、歌だけがテレビや街中で流れて周りがすごく騒いでいるな、くらいの感じでした。
──メディアに出なかったのはご自身の希望ですか?
そうです。戦略とかは一切なく(笑)。単純に私が人前が苦手で、自分が作った作品さえリリースできたらそれで十分うれしかったので、メディアに出ない約束でデビューしたんです。ところが楽曲の反響が思いのほか大きくなってしまい、事務所やメーカーの人にいろんな音楽番組に「出てほしい」と言われて困った結果、当時21歳で右も左もわからないまま説得されて初めて表舞台に出たのが大晦日の紅白。本当に大変でした。
──「TOMORROW」は、もともと真夜さんが友達を励まそうとして作った楽曲だそうですね。
はい。世に出ている「TOMORROW」は元気なアップテンポの曲ですけど、もともと私はバラードが好きで、バラードでデビューしたかったんです。なので「TOMORROW」も最初はミディアムバラードの曲でした。「テンポを上げてほしい」とスタッフからリクエストがあってあの形になったんですが、それをドラマのプロデューサーさんに気に入っていただいて。当時は今よりアップテンポの曲を作るのも歌うのも苦手でした。「TOMORROW」が広まって元気な印象が付いてしまったことで、「ああ、バラードはいつ歌えるんだろう……」という葛藤が「Alone」(1996年リリースの3rdシングル)を出すまでありました。だから「TOMORROW」がヒットしてうれしい気持ちは正直あまりなくて(笑)。バラードを出したいという思いのほうが強かったです。
──バラードはもちろんですが、1997年に広末涼子さんに提供された「大スキ!」もありますし、アップテンポも得意というイメージがありました。
昔も今もストックの中にアップテンポの曲って1割あるかないかなんです。でも、受け入れられるのはそういう曲が多いので、岡本真夜の印象として定着しちゃった。もともと、いろんなタイプの楽曲を書ける作家になりたいという思いがあって。デビューして5年目、10年目くらいはビッグバンドとか、エンヤさんのようなコーラスとか、やりたいことがいろいろあったんです。今だから正直に言うと、「TOMORROW」のイメージがかなり強く、タイアップにエントリーするための楽曲としてレコード会社さんも常にアップの曲を求めてくるので、仕方がないのかなという思いと、こういうのもやりたいけど今はできないかな……という温度差のある状況でした。その頃に作った曲は、ずっとストックとして眠っていたりします。基本ゆったりしている人間なので、バラードがしっくりくるんですよね。タフで元気は元気なんですけど、パワーがあるわけじゃないし、テンポが遅い。すごく楽しいときもうれしいときも、「わーっ!」となるタイプじゃなく、「ああ、うれしい」ってしみじみしているタイプですね。それが自分の中ではMAXの表現(笑)。
歌うのが楽しくなってきたんです
──岡本さんのその温度感がお好きな方も多いはずです。ここからは、2010年に発症したメニエール病のことも聞かせてください。昨年7月に放送されたテレビ番組「音楽の日」では約半年間にわたる密着を経て、発声の困難を乗り越えて「TOMORROW」を歌われました。
三半規管の病気で、ストレスが原因でした。ある日、朝起きたら急にめまいで歩けなくて。病院に行ったら「メニエールです」と言われました。レコーディングをしていた時期でしたが、低い音が聴こえづらくなったので1回中断したんです。お薬で早めに改善し、医師から「治りましたね」と言われましたが、この時の自分はメニエールが再発する病気ということを知りませんでした。ただ、いつからか、ピッチが外れたり声が出しづらくなったりすることが増えて。メニエールは治ったと思い込んでいたので、病院では耳の検査ではなく声帯を検査してばかりで。異常なしと診断されて原因がわからないまま。その状態のまま十何年と進んできてしまって……。歌いたいように歌えない状況が続いて、いろいろ疲れてしまい。デビュー30周年に向けてがんばりたい自分もいるけど、思うように歌えない。だから、30周年が終わったら1回ピリオドを打とうと決めていました。そんな中、今の制作チームのプロデューサーの溝口大悟さんという方と、ひょんなことで28年ぶりに再会できて。溝口さんは30年前にレコード会社とチームになって、私のデビュー曲の候補が入ったカセットテープを持ってタイアップに奔走してくださった方なんです。当時私は21歳、溝口さんは24歳でしたが、今も変わらず日音さんにいらっしゃって。話の流れから「30周年はどうされるんですか?」とおっしゃってくださいました。その頃の私はレコード会社との契約が満期で終了して、どこから何を出すかとか決めてなかったので、日音さんと一緒にできたらという話になり、今回のミニアルバムが作られました。
──まるで用意されたようにレールが敷かれて。
本当に不思議だなと思って。そのひょんなことというのも、あまりいい話題ではなかったんですけど(笑)。
(マネージャー) とある件でトラブルが起きてしまい、日音さんとやりとりをすることになり、そのときお電話をいただいたのが溝口さんだったんです。真夜さんに「溝口さんってご存知ですか?」と聞いたら「デビュー前、白カセを持って動いてくれてた人!」って(笑)。それで「3人でお会いしましょうか?」という会話から、30周年の企画が始まりました。2023年の夏のことですね。
日音さんとまたご一緒できることが決まったとき、「私、今思うように歌えてないんですけど、一度ライブを観に来てください」と、2024年5月の29周年ライブに溝口さんをお誘いしたんです。それで終演後にお話ししたら「確かに当時より声を出しづらいところとかピッチの悪い部分があるし、声質も変わっている。でも、節々にちゃんと岡本真夜がいる。知り合いのボイトレの先生が当時の声に戻せるかもしれないから行ってみませんか」とおっしゃってくださって、これはもう最後の賭けだと思って通うことにしました。ボイトレの先生は全先生という方なんですが、先生は私に会う前に溝口さんと打ち合わせをして、過去の映像やCD音源、口の開け方まで全部チェックしてくださっていたんです。
──それは心強いです。
それまで別のボイトレの先生2人に習って、軽い発声障害と言われていたところ、全先生は「僕は発声障害じゃないと思います」と最初に言ってくださった。それに私、涙してしまったんです。おそらくメニエールやストレスでデビュー当時の体の使い方のバランスが崩れてしまったのが理由なので、「崩れたネジを1個1個調整して治していけばきっともとの声は出ますよ」と。最初のレッスンのときに、舌の付け根の使い方や体の角度、顎の角度など、先生に言われた通りにやったら、一瞬ですけど昔と同じ声が出たんです。それで私びっくりしてしまって。あ、戻れるかもしれないと。先生も「希望しかないです」とおっしゃってくださったので、それを信じてがんばろうと思いました。そこから「音楽の日」まで半年間レッスンに通って、本番までにどこまで治るかわからない状況で怖かったですけど、やるしかないと……。ああ、話しながら泣けてきちゃった。レッスンの結果、当日までに自分の予想よりちょっと上に持っていけたかなという実感はありました。もちろんまだ完全復活ではないので、今もずっとレッスンに通っていて、今年中にはもうちょっとよくなるといいなと願っていますし、日に日に1mmずつですが改善していっているのがわかるんです。本当に歌うのが楽しくなってきて夢のようです。
これめっちゃ岡本真夜!
──その気持ちになれたことが何よりです。「歌うのが楽しい」という思いは、新作の「singer-songwriter」というタイトルにも込められていますね。思いの詰まった収録曲について、制作順にお話を聞かせてください。
最初に作ったのは30周年記念第1弾のデジタルシングル「Lastly」ですね。これは18歳のときに作った曲で、デビュー曲の候補の中の1つでした。「TOMORROW」のヒットを受けて、世の中的にもレコード会社や事務所的にも「アップテンポの曲で、元気な応援歌を」という流れになって、出せるタイミングがないまま自分の中でずっとしまっていたんです。当時から私はこの曲をすごく気に入っていたんですが、共感してくれるスタッフも正直いなくて。なので、溝口さんと再会したとき、「あの曲、まだ眠っているんです」と言ったら、すごいびっくりされました。溝口さん、30年前に聴いたデモテープの音源を鮮明に覚えていて、「この曲出しましょうよ!」と言ってくださったんです。ああ、この曲をちゃんと理解してくれる人にやっと会えたと思って、日音チームとの第1弾楽曲として出させていただきました。当時のデモからアレンジを作り直して、歌詞は18歳のときに書いたものだから少し古い表現もあったので、内容は変えずサビ以外は全部書き換えました。
──そうなんですね。
古い表現だけ変えてもバランスが悪くなるので。ただ、自分は約30年にわたって最初の歌詞でデモを聴き続けていたので、書き直すのに1カ月以上かかって大変でした。ちゃんと仕上がってよかったです。今も昔も、曲に込めた熱い思いは変わらないですし、何よりこの曲にOKを出してくれたプロデューサーに感謝しています。やっとこの曲が世に出たと思って。実は「TOMORROW」がデビュー曲に決まる前に、この曲でCMのタイアップが決まりかけていたんです。ただ、最終でダメになってしまって。それも運命ですよね。もしかしたらこれがデビュー曲だった可能性もあるんですが、そうだったら私の人生は変わっていたんだろうなとか、いろいろ考えちゃいます。
──そんなエピソードがあったんですね。
そうなんです。その次に作ったのが、「雪に願いを~cherish my love~」ですね。私、自分でストック曲は全部保存しているんですけど、溝口さんにもマネージャーにも小出しにしていて(笑)。で、第2弾はどの曲にするかを決める会議のとき、好きではあったけどシングルとして出していいかわからなかったこの曲をとりあえず聴かせてみようと思って「これ、2005年に作っていた曲なんですけど」って出したら、マネージャーと溝口さんが「えっ? これ、めっちゃ岡本真夜じゃないですか!」と反応してくれて。
──はい、めっちゃ岡本真夜です!(笑)
この曲は2005年の横浜のクリスマスライブで一度だけ未発表曲として歌ったことがあるんです。デモテープはちゃんと作っていたんですが、今回、山口俊樹さんという方にアレンジし直していただいて素晴らしい仕上りになりました。冬ソングは私も好きなので、これも世に出せてよかったです。
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実は作詞が苦手な岡本真夜



