ヨルシカが3月4日に約3年ぶりのフルアルバム「二人称」を配信リリースした。
本作は、2月26日に講談社から刊行されたn-buna原案・執筆の“書簡型小説”「二人称」を音楽で表現したアルバム。この小説は封筒32通、原稿用紙、便箋合わせて約170枚で構成されており、読者は“詩を書く少年”と“文学を教える先生”の2人の文通のやりとりを、実際に封筒を開封しながら体験することができる。
前作「幻燈」を音楽と絵の2つの側面から描いた“聴ける画集”として発表するなど、音楽そのものだけでなくアウトプットの手法や届け方にも強いこだわりを持つヨルシカ。今回はなぜ“書簡型小説”と配信アルバムというフォーマットを選んだのだろうか? 音楽ナタリーでは、作品の世界観や魅力を掘り下げるべくn-bunaに話を聞いた。また特集後半には、体調不良のため取材参加が叶わなかったsuisへのメールインタビューを掲載。「二人称」に込めた思いや歌唱におけるこだわり、音楽家・n-bunaに対する改めての印象、3月に始まるライブツアー「一人称」への意気込みをつづってもらった。
取材・文 / 森朋之
なぜ“書簡型小説”なのか?
──「幻燈」以来、約3年ぶりのフルアルバム「二人称」がリリースされました。書簡型小説とデジタルアルバムによる作品ですが、この構想を得たのはいつ頃でしょう?
「幻燈」を作り終わって、リリースされる前には「次は封筒形式の小説を出したい」と考えてました。書簡小説、文通形態の小説はたくさんあるし、僕も多く読んできましたが、「どうして実際の封筒の形にしないんだろう?」とよく考えていて、最終的には自分で作るしかないなと。それとは別に、今回の小説「二人称」の構造として、封筒じゃないと成立しないんですよ。“詩を書く少年”と“文学を教える先生”の手紙のやりとりを、読者つまり第三者が覗いているという構造で、それが物語全体にも影響していますから。
──小説「二人称」の形態は本ではなく、32通の封筒と約170枚の手紙で構成されています。読者が実際に封筒を開け、手紙を読むという体験型の小説。出版界でも異例の形式ですよね。
コストの面でも現実的ではないというか、出版界に所属していないアウトサイダーだからできたことなのかもしれないですね。読者には少年と先生の間でやりとりされる手紙を実際に手にしてもらって、文字情報だけじゃないディテール込みで体験してもらうという。読者の行動を誘導しないといけない部分もあったので考えさせられました。
──すべてデジタルで完結しがちな現状に対するアンチテーゼでもある?
もちろんそれもあります。そもそも本の形って、何百年も変わってないじゃないですか。活版印刷の時代から、紙に文字を乗せて、それを読むという在り方が続いている。それは小説というメディアの素晴らしさでもありますが、そこから逸脱した瞬間に生まれるものもあるんじゃないかなと。例えば“捜査資料が本の中で見れるミステリー小説”とか、“小説ページが切り抜かれている小説”なんかも世界にはあったりするでしょう? 今回の封筒形式もそういう小説を拡張した形の1つなのかもしれないですね。
n-bunaが考える理想のアルバムの在り方
──小説「二人称」では少年が詩を書き、それを先生が添削することで物語が進んでいく。一方でアルバム「二人称」では、少年が書いた詩が楽曲の歌詞になっています。制作はどのように進めていったんですか?
まず全体のプロットを決めて、「この場面でこういう詩を書く」という少年の行動主体の順番ですね。タイアップの楽曲も入っていますが、それもプロットの流れありきで制作しました。今は楽曲をタイアップに合わせて制作して、その数が溜まったからアルバムにするのがメジャー流通の主流のやり方じゃないですか。確かにそのやり方はサブスクの時代に合ってるし、音楽の需要が増えているからこその流れだと思うんですが、個人的にはあまり美しくないと感じています。アルバムを作りたいなら、最初にアルバムの世界観があって、そのための構成要素として曲を作るのが本来の姿だと思います。アルバムという文化が好きだし、そこに対しては真摯であるべきだと思っています。
──小説「二人称」のストーリーとタイアップ楽曲の整合性はどうやってとってるんですか?
まずはタイアップする作品との共通点を探すところからですね。独立した2つの作品の中に偶然、重なっている瞬間があるというのが一番美しいと思ってるので。そこを理解してくれる方々と仕事できているのはすごくありがたいです。例えば「晴る」(アニメ「葬送のフリーレン」オープニングテーマ)もそう。小説においては、少年がテレビに映っている紛争のニュースを観て、そこで得た情報を詩に落とし込んでいくんですが、それが「葬送のフリーレン」の登場人物の心情と紐づく瞬間があるんです。それがまるで必然のように映るというのが、一番いいタイアップの形なんですよね。
──なるほど。
「アポリア」(アニメ「チ。-地球の運動について-」エンディングテーマ)は、気球をモチーフにした詩がもとになっていて。際限なく上昇する気球は、尽きることがない知への欲求の比喩表現です。それはもちろん少年の“これを題材にして詩を書きたい”という思いによるものですが、「チ。」の主人公たちの“知りたい”という欲望と共通しています。歌詞はそういうつながりを探しながら試行錯誤しました。サウンドもすごく大きな役割を担っていると思います。「アポリア」は7/8拍子と8/8拍子を繰り返す変拍子のリズムを取り入れました。「チ。」のテーマにおいて、それが一番輝くはずだという確信があったからです。「晴る」がギターのカッティングで始まるのもそう。曲を作っている時点では「葬送のフリーレン」のアニメの映像がどうなるかわからなかったんですけど、物語の始まりとして、クリーンなギターのフレーズが合うだろうなと。歌詞や世界観は自由にさせてもらっているから、音の部分でしっかり責任を果たしたいという意識があります。
ポップスとアートの境界
──タイアップ曲を担当することで、音楽的な広がりもありそうですね。ポップスとしての機能とn-bunaさん自身の作家性のバランスについてはどう考えてますか?
それもよく考えるんですけど、リスナーの好みや大衆、世間に対してどれだけアプローチできるかという行為は1つの芸術だと思ってるんです。シンプルな音階の繰り返しだったり、限られた配列の音がこれだけ人の心を打つのはすごいじゃないですか。ポップスのアート性や美しさを僕自身が信じているし、そこに対する齟齬は全然ないです。ポップであることと、いわゆる“アート”って実は近いんじゃないかとも思っていて。芸術って難しく捉えられがちですけど、アートの語源はラテン語の“アルス”(技術、技能などの熟練した手仕事を意味する言葉)で、要は手の技術。我々の体と紐付いている身近な存在だったはずなのに、いつの間にか壁ができてしまった。すごく不思議だなと思うし、高尚か低俗かみたいなことは考えず、気軽に楽しめばいいじゃないかなと。
──小説も純文学と大衆小説に大きく分かれていて、純文学は小難しいというイメージがありますね。
たぶん、今の自分たちの生活実感から離れた瞬間に1枚壁ができるんだと思います。例えば夏目漱石の小説を読むと、今の話し言葉とはだいぶ違うじゃないですか。行燈も使わないし、現代の生活環境とは大きく異なる。それを面白いと思うか、壁があると感じるかが境目なんでしょうね。
──ヨルシカの音楽がきっかけになって、文学に触れる人も多いと思います。島崎藤村や石川啄木も、普通に暮らしていたらなかなか接点がない気がするので。
そういう入り口になりたいですね。最近だと「茜」で島崎藤村の詩集「若菜集」から歌詞を引用していますし、萩原朔太郎の「月に吠える」をモチーフにした曲(「月に吠える」)もあります。モチーフの原作を読んでほしいという気持ちがあるんですよね。僕は子供の頃からたくさんの文学を読むことで救われてきましたので、その美しさを今の若い人たちにも知ってほしい。そういう壁を感じさせないのもポップスのよさだと思うんです。メロディやサウンドによって、この時代に生きている人たちにも届く、身近なものになるというか。ポップスは本来、その時代のメインストリームに向けられてますからね。例えば100年後の人たちが2026年について知りたいと思ったとして、この時代の歌を調べるのはすごく有効だと思うんです。今の僕たちの生活が描かれているので。
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