“1日サーファー”細野晴臣
ハマ 僕らは神格化されたブライアンしか知らないけど、細野さんはご自身の人生とともに彼の音楽に触れてきたわけですね。
細野 1960年代は、メンバーが浜辺で女の子とイチャイチャしてる写真がアルバムジャケットに使われていたりもしていて、当時は彼らもアイドル的なところがあった。それを見て僕も「いいな」って憧れてたんだ(笑)。細いホワイトジーンズを履いているのにすごく影響されて、買いに行ったよ。アメ横に米軍の放出品を扱っているお店があってね。そこで買ったんだけど、「股引きみたいだ」って家族にからかわれた(笑)。
安部 細野さんもThe Beach Boysとかを聴きながら友達と浜辺で走ったりしてたんですか?
細野 憧れて、茅ヶ崎までサーフィンをしに行ったことがある。友達のお兄さんがサーフクラブを運営していて、1回やらせてもらったの。でも僕は“1日サーファー”。全然波に乗れなくて、すぐにあきらめた(笑)。サーフィンは、サーフィンミュージックと別に関係ないと思ったね。
──ブライアンもサーファーではなかったと聞きますからね。
安部 そうなんですか!? The Beach Boysという名前からそういうイメージが付いてるけど、違うんですね。
細野 海が嫌いだったんだよね。弟のデニス・ウィルソンはサーファーだったけど、彼は海で溺れ死んじゃった。まあ、とにかく初期のThe Beach Boysの音楽には裏がないというか。サーフィンだとかファッションだとか、遊びの文化の中から生まれたものだった。サーフィンブームの終わりくらいの時期……僕は中学生だったんだけど、FENを聴いてたら突然ブライアンが出てきて、リスナーに何かを呼びかけているんだよ。「何を話しているんだろう?」って聞いてみたら「ドラッグは止めよう」って(笑)。
安部&ハマ えー!
細野 「僕みたいになっちゃうよ」って。当時、彼は薬物中毒だったんだね。明らかに呂律が回ってないんだよ。まあ人のことは言えないけど、キャリアの後半は歌もちょっと変なんだ。ヨレヨレで音程も怪しい。でも、そういうことも含めて、すごく感慨深いんだよね。アメリカ音楽の歴史の1ページというか、そういうことを感じるんだ。“ドラッグカルチャーの音楽への影響”みたいな。
ハマ 強烈な体験ですね……。
安部 ね……。
細野 うん。生々しかったね。
細野晴臣が感じるブライアン・ウィルソンへのシンパシー
──最初の安部さん、ハマさん両方の発言に「Pet Sounds」が出てきましたね。1966年発売のThe Beach Boysのアルバムで、代表作の1つです。ぜひ触れておきたいのですが。
細野 「God Only Knows」とか、大好きだね。
ハマ 初めて聴いたとき、うちのバンドメンバーの中で自信を持って「いいね」って言ったやつが1人もいなかったんですよ。「うん……よくわからないけど、この曲は好き」みたいな(笑)。でもデビューして数年経った頃、ボーカルが突然スタジオで「俺、昨日『Pet Sounds』が全部わかった!」って言い出したんですよ(笑)。あと、ジャケットも有名じゃないですか。アートピース的な意味でも語り継がれているし、不思議な作品ではありますよね。細野さんは初めて「Pet Sounds」を聴いたとき、「これはどういう音楽だろう?」という不思議な気持ちはあったんですか?
細野 1つもなかったね。安部くんがさっき「怖かった」と言っていたけれど、あの作品の世界、僕には怖くないんだ。「この深みはなんだろう?」と感じた。初めて聴いたときからずっと取りつかれている感じ。それ以前のThe Beach Boysはサーフバンドという印象だった。暗さがないんだ、少しも。でも、その世界が、暗くなっていく。それはなぜなのかと考えるようになった。そういう意味でも、僕は一生The Beach Boysの変化に影響され続けているのかもしれないね。ただしブライアンの曲自体は、途中で大きく変化したわけではないんだ。基本的には自分の中にある音楽観に沿ってる。メロディや和音の特徴は基本的に変わってない。一番の特徴は、コードのルート音をベースに使わないところ。そこから不思議な響きが生まれるんだ。だからレコーディング以前に、曲の作り方がユニークなわけだよね。
「Pet Sounds」
安部 サウンドに関係なく、楽曲そのものが面白いわけですね。
ハマ 客観的な感覚で作っていたんでしょうね。ベーシストなのにレコーディングでは本人があまり弾いていなかったとか。キャロル・ケイという女性ベーシストが演奏してたんだって。ベースだけじゃなく、ある時期以降のレコーディングではほとんどの楽器をスタジオミュージシャンが演奏していたらしいよ。
細野 キャロル・ケイはモータウンの楽曲でもけっこうベースを弾いてるね。ドラムはハル・ブレインが参加してた。
──細野さんがブライアンにシンパシーを感じるとしたら、どういったところになりますか?
細野 曲作りのひらめきが素晴らしいところが一番かな。あとは、メロディラインと声がマッチしてる感じとか。まあ、曲が好きなんですよ。ずっと心に残ってる曲が何曲かあるよね。作曲家では、ジョージ・ガーシュウィンやアーヴィング・バーリンと並んで僕の中では不動。そんなアメリカの名作曲家の系譜の最後にブライアンがいる。だから彼がどんどんダメな感じになって、ソロで新作を出すたびにガッカリしてた時期もあったんだ。で、あるとき、彼はカリフォルニアからシカゴのほうに引っ越したんだよ。そこで記者会見を開くというから、僕もシカゴまで行ったんだ。
安部 えええ! それは仕事で、ですか?
細野 インタビューするために。一番の目的は、僕のラジオ「Daisy World」のジングル用に声をもらうためだったの。ブライアンに「Daisy World」って言ってもらったよ(笑)。ほかに何を話したかは覚えてないけど、「目の前にいる僕が尊敬する人物は、ダメな感じになっちゃってるな……」って思った。薬の後遺症でかなりダメージを食らってた感じだったんだ。少し寂しい気分になったね。
ハマ ちょっと気になっていたんですよ、「細野さんは
細野 その翌日に、シカゴの公民館でライブをやるっていうから行ったの。テレビ番組の収録か何かだったんだけど(1998年にアメリカで放送された「Brian Wilson's Imagination」)。そのときはThe Wondermintsという若いバンドがバックを務めていたね。演奏もバッチリだった。彼らの演奏に乗せて、ブライアンががんばって歌ってた。それを切なくなるような気持ちで見てたんだけど、完璧なサウンドだったな。
ハマ 最後の最後にすごい話を聞いちゃいましたね(笑)。
安部 うん、お会いしてたんですね……。
プロフィール
細野晴臣
1947年生まれ、東京出身の音楽家。エイプリル・フールのベーシストとしてデビューし、1970年に大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成する。1973年よりソロ活動を開始。同時に林立夫、松任谷正隆らとティン・パン・アレーを始動させ、荒井由実などさまざまなアーティストのプロデュースも行う。1978年に高橋幸宏、坂本龍一とYellow Magic Orchestra(YMO)を結成した一方、松田聖子、山下久美子らへの楽曲提供も数多く、プロデューサー / レーベル主宰者としても活躍する。YMO“散開”後は、ワールドミュージック、アンビエントミュージックを探求しつつ、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。2018年には是枝裕和監督の映画「万引き家族」の劇伴を手がけ、同作で「第42回日本アカデミー賞」最優秀音楽賞を受賞した。2019年3月に1stソロアルバム「HOSONO HOUSE」を自ら再構築したアルバム「HOCHONO HOUSE」を発表。この年、音楽活動50周年を迎えた。2023年5月に1stソロアルバム「HOSONO HOUSE」が発売50周年を迎え、アナログ盤が再発された。2024年より活動55周年プロジェクトを展開中。2025年6月に2ndソロアルバム「トロピカル・ダンディー」のアナログ盤が再発された。
安部勇磨
1990年東京生まれ。2014年に結成された
ハマ・オカモト
1991年東京生まれ。ロックバンド
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ブライアン・ウィルソン追悼企画
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