
あの人に聞くデビューの話 第13回 後編 [バックナンバー]
カート・コバーンにこよなく愛された少年ナイフ
Nirvanaとの交流、本格的な海外進出、デビュー時からの変わらない思い
2025年8月28日 19:00 10
音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。前回に引き続き、
取材・
まずはクラウンから全国デビュー
──日本でインディーズで活動しているまま、あれよあれよとアメリカでレコードがリリースされたり、トリビュート盤が出たり。そんな少年ナイフに、ついに全国デビューの誘いが来ます。
1991年ですね。4枚目のアルバム「712」を作ってる途中にクラウンレコードさんから連絡があったんです。社内にchico chicaというレーベルがあるからそこから出しませんかということで、それまで録っていた兵庫県のスタジオから、ここ(取材場所となった大阪の四ツ橋 LMスタジオ)に移動して、東京からエンジニアの方も来て。どういう経緯で声をかけてもらったのかわからないけど、chico chicaはクラウンの中でのインディー系みたいなレーベルで、バンドを探してはったんやと思うんです。クラウンは演歌とか芸能が強い会社だったんで、有名なラジオ番組とか、芸能新聞とかの取材も体験しました。もちろん音楽雑誌の取材もたくさん取ってきてくれましたし。
──それまでの大阪や京都中心の活動から日常が激変した感じですか?
楽しいな、面白いなという感じでした。当時まだなんらかのアルバイトか仕事はしてたと思うんで、休みのときに音楽活動をしていましたね。東京まで行って多摩川のへりでミュージックビデオの撮影をしたんですけど、花柄やらなんやら派手にペイントしたバスを用意してくれたり、プロの役者さんを呼んでくれたり。東京はすごいなと思ってびっくりしました。今でも東京に行くたびにびっくりしてますけど。
──ツアーも全国規模に広がった。
そうですね。東京とか名古屋とかいろんな場所でライブをやりました。浅草の常磐座というところで、デビューを記念してライブをやったんですけど、そのときにギターの弦が切れてしまったのがすごく印象に残ってて(笑)。なんとかなりましたけど、今は切れないようにギターの部品を替えてます。その翌年に当時のMCAビクター、今のユニバーサルから5枚目のアルバム「Let's Knife」(1992年)を出したのが正式なメジャーデビューなんですけど、そのときはさらに広く北海道から九州までツアーを回りました。
カート・コバーンに誘われNirvanaの英国ツアーに参加
──アルバム「712」から「Let's Knife」の間に当たる1991年の秋にはイギリスをツアーで3週間回ったわけですけど、それがなんとNirvanaのサポートだった。
そうそう、一緒にイギリスを回りました。まだクラウンに所属していた頃、ヴァージン・ミュージック・ジャパンという音楽出版会社にいたペイジさんというアメリカ人の方が、私たちのことを気にかけてくださって。ペイジさんが、しばらくバンドのマネジメントも担当してくれたんです。そして、そのヴァージン・ミュージック・ジャパンが私たちとMCAをつないでくれました。
──Nirvanaの前座をやることになった経緯は?
ペイジさんはアメリカ人だから英語圏からの連絡がいっぱい来るんですけど、あるときNirvanaのカート・コバーンから「少年ナイフにツアーをサポートしてほしい」という連絡が来たそうなんです。「こんなバンドがいて、一緒にイギリスでツアーをしたいと言ってるけど、どう?」って相談されました。そのときNirvanaは「Bleach」(1989年)を出していて、「Nevermind」(1991年)はまだ出てなかった。アーティスト写真を見たら、ちょっと恐い雰囲気だったんですよね。「うーん、こんな感じの人たちか」とか思いました(笑)。
──ちょっと躊躇したんですね(笑)。
でも、面白そうだから行ってみようと思って一緒にツアーを回ることにしたんです。海外ツアー自体は、89年にロスで単発ライブをやったあと、91年の春か夏ぐらいにガサタンカレコーズとの共同企画でアメリカを4都市回ったんです。ニューヨーク、ニュージャージー、ロス、サンフランシスコ。それがあってのUKツアーでした。
──読者も気になると思うんですけど、当時のNirvanaはどんな感じでしたか?
ブレイクする直前のタイミングでしたね。ちっちゃいところで1000人規模、ロンドンのキルバーンにあるナショナルボールルームは2500人キャパでした。チケットは全会場売り切れですごい人気でしたけど、彼らはまだインディーっぽい感覚を普通に持ってる感じでした。でも、カートはインタビューがいっぱい入ってるから、めちゃくちゃ忙しそうでしたね。会場に着いて、サウンドチェックをして、インタビューやって、ライブやって、またその足で、どこかの街からロンドンまで戻ってテレビ番組に出演して、また次の日に別の会場に戻ってとか、そんな感じ。でも、少年ナイフのことが好きと言ってくれていて、私たちのライブをいつも舞台の袖で観てくれていました。そして、私たちのあとに自分たちが出て、ものすごい演奏をしてはった。あと、どこかの街でシークレットライブをするときに「少年ナイフの『Twist Barbie』を演奏したい」って言われたから、カートにギターのコードを教えてあげたこともありました。晩ごはんを一緒に食べに行ったりもしましたね。ベースのクリス(・ノヴォセリック)がクリームソースのスパゲティを食べていて、「おいしそうですね」って言ったら、「ちょっと食べる?」っておすそ分けしてくれたり(笑)。
──かわいい光景(笑)。
ごくフツーのバンド同士のツアーって感じでした。私らの楽屋には暖房がなかったけど、彼らの楽屋にはあったから「こっち入ってきて温まったらええやん」って声をかけてくれたり、3人とも優しかった。ただ、ケータリングにジャムとピーナッツバターを一緒に塗ったサンドウィッチが用意されていて、「これ食べへん? おいしいよ」って勧められたんだけど、日本人の私らからしたら、「ジャムとピーナッツバターを一緒に塗るの!?」って、すっごいびっくりしましたね。「アメリカの人はこんなん食べるのか~」って思いました(笑)。
──確かにそこは食文化の違いが(笑)。
そのあとNirvanaが日本でライブをやったとき(1992年2月)は、彼らのホテルまで迎えに行って、ごはん食べるところを探してあげて、一緒に大阪のビアホールみたいなところに行きました。あそこだったら、いろんな食べ物があるから。その次の日に、大阪でライブをするときにドラマーのデイヴ(・グロール)がMCで「今日は少年ナイフが梅田でライブをやってるから、このあと俺たちも観に行くんだ」って言ったんですよ。
──そりゃ大変。
あの日は2月14日のバレンタインデーでした。私たちは梅田のamHALLで農協主催のライブに出してもらっていて。私たちの出番が遅めの時間で、Nirvanaはちょっと早めの時間に大阪国際交流センターという会場でライブをやっていて、途中まで彼らのライブを観て、自分たちのライブをやるために戻ったので、そのMCは聞いてないんです。だけど、デイヴのMCを聞いたお客さんがぞろぞろこっちに移動してきて、商店街に溜まっちゃったんです。近所のおばちゃんに「こんなにたくさん人が集まって何してんの!」ってライブハウスの人が怒られたらしいです(笑)。
──Nirvana目当てのお客さんが商店街に大量に押し寄せた。
Nirvanaのメンバーは結局私たちの演奏が終わったあとぐらいに到着して、楽屋で一緒に写真を撮影して、しゃべったりしました。そのときの写真もいい記念になってます。93年には、NirvanaのUSツアーにもサポートで呼んでもらいました。そのときは、でっかいアイススケート場とかスタジアムを会場にした大規模なツアーで、7回ぐらいサポートで演奏しました。少年ナイフがオープニングで、次がThe Breeders、トリがNirvanaというツアーでしたね。前半か後半か、どっちかは私たちの代わりにBOREDOMSがオープニングアクトで。ツアーのスタッフだけでも30~40人いて、ケータリングのトラックに、みんなが順番に給食を取りに行くような感じでしたね(笑)。Nirvanaの楽屋は、私たちの楽屋からすごく遠いところにあって、ほとんど会えなかったんですけど。
──大ブレイク直前の一番いい時期にイギリスツアーでの出会いがあって本当によかったですね。なおこさんの話を聞いてると、カートやデイヴが関西弁でしゃべってるような気がしてくる(笑)。
ははは。
──カートが機材を運んでくれたり、メンバーがライブのセッティングを手伝ってくれたりしたという噂もありますが。
カートが私たちの機材を運んでくれたのかは記憶にないんですが、ロンドンのキルバーンナショナルボールルームでやるときにドラムのチューニングをするネジが固くて困っていたら、デイヴが出てきて調節してくれたり。すごく親切にしてもらいました。
通算1500回目のライブはドイツで
──前編でも聞きましたが、なおこさんが初ライブからずっと書き続けているライブノートには、そんな日々の記録も残っているわけですよね。
はい。ライブの日付や曲順、衣装とか。
──そもそも、どうしてライブノートをつけようと思ったんですか?
バンド活動が好きだから、記念でノートをつけたいなと思って。
──The Beatlesが「●年●日に何をしていた」みたいな記録として残そうと?
私はライブに関することだけ書いている感じですね。あとはレコーディングの記録とか。
──この日は弦が切れてしまった、とか。
そこまでは書いてないです(笑)。
──つい先週まで行ってらしたヨーロッパツアーで、通算1500回目のライブの場所がドイツだったと聞きました。それがわかるのも、ずっとノートをつけていたからこそですね。
500回目のライブはアメリカのサンディエゴでした。1000回目はどこでやったか今思い出せないんですけど、1500回目はまさかのドイツでした。
──本当にすごいと思います。今もバンドを続けられている理由はなんだと思います?
やめるとか全然考えたことがなくて、ただ楽しいから、お客さんが喜んでくれるから続いてる感じですね。
──海外ライブの映像でもお客さんがみんなニコニコしていますよね。それは最初に関西で活動をスタートした頃と変わらないですかね?
そうですね。一緒だと思います。ツアーでも「MCで1回は笑わせたろ」みたいな気持ちがあります。冗談っぽい面白いことをその土地その土地で言うようにしていて。お客さんがガハハって笑うと、こっちも楽しいです。
──「みんなたのしく少年ナイフ」みたいな、ごく初期の音源とひさしぶりに接するときは、どういう気持ちになるんですか?
改めて聴いて、「これはぶっ飛んでる!」って思いました(笑)。カート・コバーンが少年ナイフのことをインタビューとかで「ワン&オンリー」ってよく言ってくれていたんですけど、特に初期の曲はぶっ飛んでたましたね(笑)。
──これはワン&オンリーだと自分でも思う?(笑)
そうですね(笑)。みちえさんの歌詞もそうだし、コードとかもめちゃくちゃに弾いてるところがあって面白い。リズムが揺れてるのもわかるし。客観的に聴いても「こんなん、ほかにないわ」と思いました。
──今の自分とつながっているという気持ちもありつつ?
はい。やっぱり今も「みんなたのしく」というのがベースなので。少年ナイフのライブに来てもらって、みんなで一緒に楽しもう、みたいな気持ちはずっと一緒です。
──そう考えると、最初のカセットのタイトルに、よくぞ「みんなたのしく少年ナイフ」と付けたなと思います。
最初から、バンドはみんなを楽しくするためにやりたいと思っていたからそういうタイトルにしたんですけど、今もその気持ちは変わっていないです。
少年ナイフ「みんなたのしく少年ナイフ」
ツアー=「Tシャツの移動販売」?
──結成から44年が経つわけですが、今もコンスタントに活動を続けられていて、改めてすごいことですよね。少し前にサザンオールスターズのライブを観に行ったんですけど、桑田佳祐さんが「47年目と言うけど、自分たちの上にTHE ALFEEがいる」とMCで話していて。そのとき僕は「アルフィー、サザン、その下は、もしかして少年ナイフ?」と思ったんです。
いやいや、比べ物にならないです(笑)。
──でも1回の休止もなくバンド活動を続けているって、すごくないですか?
そういえば、Yesが55周年ということで去年、来日公演を観に行ったんです。メンバーは昔とほとんど違うんですけど楽しかった。買ったTシャツには「Yes 55周年」と書いてあったんです。そのTシャツを着てヨーロッパツアーに行ったら、「YesのTシャツ着てるね!」とか声をかけられて、小さな話題にはなりました(笑)。
──少年ナイフがデビュー50周年を迎えたらすごいドキュメンタリーができますよ。
いろいろ振り返ってみると、92年に「Let's Knife」をイギリスではクリエイション傘下のオーガストというレーベルから、アメリカではヴァージンレコードから出せたのも私たちにとって衝撃のデビューでした。あの当時はアメリカでのプロモーションの中心がラジオだったから、ラジオのオープニングでかかる「Hi! We are Shonen-Knife」みたいなラジオ番組向けのID(自己紹介)を番組ごとに何百本も録音するんですよ。インタビューも、1人でさばききれなくて、私とみちえさんが2手に分かれて15分ずつ対応したり。あと雑誌の写真撮影で、エアロビクスみたいな格好をして、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジのそばで撮ったりとか。アメリカのレコード会社のデビューが一番すごいと思いました。
──少年ナイフのエアロビ写真!(笑)
楽しかったです。みちえさんは「数奇な体験やわ」って、いつも言うてました(笑)。普通の人には味わえないような別世界にいるような体験をさせてもらったなと思います。
──「数奇な体験」ってすごくいい言葉! なおこさんをはじめ、少年ナイフのメンバーになる人たちはバンド活動と普段の感覚が自然とつながってるのも面白いと思いますね。
お金がバーンって入ったりして、ロックスターの世界に入りっぱなしになっちゃう人もいますよね。でも私たちはそういう感じになることはなかったです。あと、ずっと大阪にいるというのも大きいかも。今もバンドでアメリカやヨーロッパとか海外ツアーをしてるということを普通の友達に話しても理解してもらえないですし(笑)。こないだ私が海外で9週間に43回ライブをやったということも、あんまりわかってくれない(笑)。今、テニススクールに通ってるんですけど、スクールの友達でも、ごく近しい人だけにしかバンドをやってることを言ってなくて。
──え? そうなんですか?
ほかの人には、「Tシャツの移動販売をする仕事」って言ってます(笑)。
──すごい擬態(笑)。でも、確かにツアーはある意味「Tシャツの移動販売」でもありますよね。
そういう話をしたら同じクラスの人が、「私も同じような仕事をしていて、この間、名古屋に行ったの」って話をしてきたんです。私も「お互い大変やね。場所ごとに売れる色とか全然違うよね」とか返して(笑)。そんな感じで楽しくやってます。
なおこ(ナオコ)
1981年、大阪にて結成されたロックバンド、少年ナイフのボーカル&ギター担当。少年ナイフは1983年に1stアルバム「Burning Farm」をゼロレコードからリリース。同アルバムは1985年にアメリカのインディーズレーベル、Kレコーズより発売される。オリジナルなサウンドが海外でも話題を呼び、1992年には日本、アメリカ、イギリスでメジャーデビューを果たす。以後、アルバムリリースとワールドツアーをコンスタントに続ける。現在のメンバーは、なおこ、あつこ(B, Vo)、りさ(Dr, Vo)。1982年に自主制作したカセットテープ「みんなたのしく少年ナイフ」がLP&CDとして7月に発売された。
- 松永良平
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1968年、熊本県生まれ。リズム&ペンシル。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。
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