藤井隆

あの人に聞くデビューの話 第14回 後編 [バックナンバー]

藤井隆が本気で音楽活動に踏み切った瞬間とは

敬愛する作詞家・松本隆との邂逅、自身のレーベルを設立し“デビューさせる側”に

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音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。前回に引き続き、藤井隆をゲストに迎えてお届けする。2000年3月にシングル「ナンダカンダ」で歌手デビューを飾った藤井は、3枚目のシングル「絶望グッドバイ」で敬愛する松本隆に作詞オファー。翌年には松本のプロデュースによる1stアルバム「ロミオ道行」を発表、初のワンマンライブも成功に収め、以降、本格的に音楽活動に邁進することとなる。2014年には自身のレーベルSLENDERIE RECORDを設立。インタビュー後半では、ハイクオリティな作品を世に送り出してきた彼に“デビューさせる側”としてのこだわりも語ってもらった。

取材・/ 松永良平 撮影 / 臼杵成晃

なんで自分が応援歌を歌ってるんだろう?

──前半では、デビュー曲「ナンダカンダ」(2000年3月8日リリース)をレコーディングするまでの葛藤についてお聞きしました。「ナンダカンダ」という曲に対しては、どういう印象を持たれてました?

「なんで僕が応援歌を歌うんだろう」と不思議に思いました。テレビで「応援してください!」「また来週もご覧ください!」とお願いばかりしてる自分が人の背中を押すようなメッセージを込めた歌を歌って聴いていただけるのか心配になりました。ですが、スタッフの皆さんは準備を進めてくださるし、応援してくださるのでレコーディングは「やるしかない!」と腹を括って歌いました。

──まったく浮かれた感じもなく。

実は、最初の打ち合わせで僕、「ラップはできないです」って言ってるんですよ(笑)。本当に失礼ですよね。浅倉大介さんが作曲、GAKU-MCさんが作詞という最強の布陣をレコード会社が用意してくださったのに。当時は自分のことしか考えてなかった。せっかく周りが「こういうふうにしたら新しく見えるんじゃないか?」とか、「こういうチャレンジをしたら本人のためになるんじゃないか?」とか、いろんなことを考えてくださってるのに、保守的な自分の考えだけで「あれはできないです、これもできないです」って……まあ、そんなにいっぱいは言ってないんですけど。お伝えしたのは、「バラードは歌いません」「立ったまま歌うのは照れくさいので、どうせなら踊らせてください」「ラップはできません」という3つです。最初からちゃんと自分の意見を言ってるのが、我ながら生意気だなと思いますね(笑)。

──結果的にその3つを通したってことですね。

通しました。こうやってお話を聞いていただいてお気付きかもしれませんけど、僕、言うても聞かないんですよ(笑)。たいていのことは「はいはい」と話を聞けます。だけど「絶対に嫌です」ということがあったら、それに関しては意見を聞かない。気高いなと自分でも思うんですけど。

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──当時は、スタッフの皆さんも、いいものを作るために尽力された。

レコード会社のスタッフの皆さんは、本当に優しかったし、カッコよかったです。僕の担当だったディレクターの長谷川さんも必死でやってくださったし、あのシングルが世に出たのは、アンティノスレコードの社長の坂西(伊作)さん含めて、いろんな人たちのおかげだと思います。当時、テレビの仕事が夜10時ぐらいに終わって、レコード会社に行って、そこから音楽関係の仕事なんです。そういうときも現場にフルーツとかを用意してくれて「おつかれさま! さあ、まずは食べて食べて!」って、僕のテンションを絶対に落とさないようにケアしてくださって。僕はボロボロのポーターのバッグを使ってたんですけど、誕生日に新しいポーターのバッグをプレゼントしてくださったこともありました。絶対に僕のテンションを落とさないように、お兄さん、お姉さん方が支えてくれていましたね。僕に付いていてくれた吉本のマネージャーも「音楽の仕事も必死でやります!」と言ってくれたし、周りの方々がこんなに一生懸命やってくれてるんだから、自分も一生懸命やらなきゃダメだなと思いました。デビューの話となると、何よりも、当時のスタッフさんたちのことを思い出します。

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「ナンダカンダ」のヒットで紅白出場

──しかも「ナンダカンダ」はヒットして、その年末には歌手として「NHK紅白歌合戦」出演という結果も付いてきました。

出演できてありがたかったです。決まったときにレコード会社の皆さんと携わってくれた会社の人たちがとにかく喜んでくれてとてもうれしかったです。ミュージックビデオは坂西さんが監督してくださいました。支えてくださったダンサーの皆さんと朝から何回も必死に踊りました。あのときにしかできないムードや瞬間があって素敵なビデオを作っていただけたと感謝してます。自分ですけど、自分じゃない感じがしました。同時にリリースを発表するCMも作ってくださったんですが、完成した映像をチェックしてと言われて観たときに「ビッグヒットシングル! 『ナンダカンダ』!」とナレーションが入ってるバージョンがあって、「まだヒットしてないです!」って言いました。

──謙虚すぎる(笑)。

縁起物といいますか、ヒットするよう祈願の思いも込めて「ビッグヒットシングルバージョン」を作ってくださったでしょうに、いちいち。謙虚といいますか、面倒臭いし、ノリが悪いと今なら思います。テレビの本番中はテンション高く楽しくやってるのに事務所に来たら全然違うからスタッフさんも戸惑ったと思います。結局、今もですが、当時は精一杯でした。

藤井隆「ナンダカンダ」ミュージックビデオ

──でも、なあなあでは済ませないところが藤井さんらしいなと感じます。

歌手デビューするのが決まったのが10月だか11月だかで、1月にレコーディングして、3月にリリースですから、プロジェクトの立ち上げからデビューまで約半年かかっていて。その期間があまりにも長くて、怖かったんですよ。完成した音源を渡されてタクシーの中で聴いたときのことを覚えてるんですけど、「この歌が世に出て、これから自分はどうなっていくんだろう?」という不安しかなかった。そんな気持ちのまま3月のリリースに向けて、2月後半からテレビ番組で歌うことになっていたんです。それも緊張しましたね。間違えちゃいけないし。しかも、番組によって曲のサイズが違うんです。「あ、今日はここで終わんねや」とか、そういう縛りで毎回がんじがらめ。生放送もありましたし。とにかくデビューする日まで大変でした。

──デビュー当日は、どう迎えられたんですか?

デビュー日だったと思うんですけど、池袋サンシャイン60の噴水広場でイベントをやっていただきました。新曲発表会の聖地みたいな場所だし、あそこでデビューイベントをやる大変さって、とんでもないと思うんです。そんな立派な舞台まで用意していただいたら、もうやるしかないという気持ちになって。当日は、たくさんのお客様が来てくださって、ライブ後に握手会をやりました。そのときに初めてお客さんと対面したんです。テレビの収録とは違って、自分のことを応援してくださっている方々が目の前にいる。僕の歌を直接受け取ってくださった感じが伝わってきて、すごくうれしかったんです。歌手デビューが決まってから5、6カ月、ずーっと不安だったんですけど、お客さんの前で歌ったことで、なんかフワーッてなりましたね。

──ようやくハイになれましたか。

先ほど「ヒットした」とおっしゃっていただきましたけど、「ナンダカンダ」って、いきなり売れたわけではなくて、最初はオリコンの右ページ(ベスト100の下位)からスタートしたんですね。プロモーションをいっぱいさせていただいて、毎週ちょっとずつ順位が上がっていった。それを自分のことのように喜んでくれるスタッフの方がいて、自分でも「これは喜んでいいんだ」と思ったし、がんばれました。オリコンの左ページ(ランキング上位)に載れたときは本当にうれしかったです。「紅白」に出たときも岸本加世子さんが「紅白おめでとう!」って言ってお赤飯をくださいました。他人様がお祝いしてくださるような番組に出るって、やっぱりすごいことなんだなと思って、急に怖くなりましたけどね。

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意を決して松本隆に作詞オファー

──その後、デビュー曲と同じ布陣で2ndシングル「アイモカワラズ」(2000年11月)、そして作詞を松本隆さん、作曲を筒美京平さんが手がけた3rdシングル「絶望グッドバイ」(2001年12月)と順調にシングルをリリースして、やがて1stアルバム「ロミオ道行」(2002年2月)につながります。なんとアルバムは松本隆さんが全曲の作詞とプロデュースを手がけられています。

CDデビューをしてステージや歌番組などそれまで経験したことのない貴重な経験をさせていただいてありがたかったですし、スタッフの皆さんはいいものを作ろうと真剣に向き合ってくださって、自分も皆さんと一緒にいるときは真剣に必死に参加してるんですが僕と歌の活動の相性の悪さを感じていました。勝手に悩んでいてそこにうまく折り合いがつけられなくて、どうしたものかなと思っていたときに3枚目のシングルの話になったんです。そこで初めて自分の思いをレコード会社に伝えました。1枚目、2枚目は用意していただいたものに乗っからせていただいたんですけど、もうここまで来たら自分の意見を言ってみようと思い、「松本隆先生に歌詞をお願いしたいです」と伝えました。

──なんと! 藤井さん発信だったんですね。

でも、絶対に断られると思ってました。松本さんに断られて、「じゃあ僕、もう歌はいいです」となって、そこで歌手活動は終わるんじゃないかなと。でも、松本さんが引き受けてくださったんです。あのときは、自分の中でギアが入った音が聞こえましたね。本当に「ガチャ」っていう音。もう本気でやらなきゃいけないんだと思いました。

──「絶望グッドバイ」は、そんな決意の1曲だったんですね。

もともと松本隆さんは大好きな作詞家の先生で。松本さんの詞をもらえるならば、これは本当にがんばらなきゃいけないなと思いました。アンティノスの皆さんも本気で動いてくださって。それまでは照れくささもあって、自分が都合悪くなったら「やらされてるんです」とか、そういう言い方で逃げていたんですけど、松本先生に歌詞を書いていただけることになって覚悟を決めました。「ロミオ道行」でも、アルバム1枚まるまる松本先生に歌詞を書いていただけるとは思ってなかったですし、まさか、その先に自分のワンマンコンサートがあるとは想像もしていませんでした。坂西さんから「コンサートをやるよ」と言われたときも「コンサートはさすがに無理です!」って抵抗したんです。でも、アルバムのレコーディングがすべて終わってスタジオでミックスを待っているときに、松本さんが「藤井くん、アルバムを作ったら、コンサートをやるものだよ。買ってくださった方に会いに行って曲を届けるんだよ」っておっしゃられたんです。それを聞いて「はい、わかりました!」って、すぐに意見が変わりました(笑)。

藤井隆「ロミオ道行」

──そして、2002年5月11日に中野サンプラザホールで「藤井 隆ファーストコンサート」開催。つい1年半前までミュージカルの舞台に対して苦悩していたことを考えたら、すごい前進ですよね。

「よし、やってみよう」と思ったんです。バンド編成で、ダンサーの皆さんも付いて。でも、このコンサートのときもミュージカルのときと同じで、リハーサルではずっと照れくさくて、鏡の前でうまくできない自分を責めるような日々が続いていたんです。「もう嫌だ」と思ったときに坂西さんが「吉本新喜劇では前フリが大事と言われて育っていると思うけど、コンサートではお客さんが家でCDを聴いて前フリをして来てくださいます。だから信じて、真剣にやりなさい」ってハッパをかけてくださった。吉本の先輩たちから教わってきた今までの前フリのやり方とまた違う世界があることを、坂西さんは教えてくださったんです。

──歌手デビューから1stコンサートまで、やり終えていかがでした?

コンサートをやり遂げて、タレント業だけでは味わえなかった、いい経験をさせていただいたと感じました。その一方で、「これで満足、もう十分です」という気持ちもあって。シングルがちょっとヒットしたと言っても、当時はミリオンヒットがバンバン生まれていた時代です。ヒットしてないのにタレントが歌を歌う理由はないから、すごくこれから難しくなっていくんだろうなという予感を感じながらやっていました。

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“デビューさせる側”としてのこだわり

──その誠実さが、結局藤井さんに音楽活動を続けさせているんだと思います。その後も藤井さんのリリースはどんどん自由度が増して音楽面でもすごく充実していったし、2014年には自身の音楽レーベル、SLENDERIE RECORDも設立されました。つまり、今や誰かをデビューさせる側になったわけです。今年リリースされた川島明さんのアルバム「アメノヒ」も素晴らしかったです。

川島明「アメノヒ」

僕がデビューした当時の予算感を再現することは、SLENDERIE RECORDでは全然無理なんです。でも、当時のスタッフが僕に与えてくださったノウハウと愛情は、工夫すれば変わらずにできるんじゃないかと思っています。相手の機嫌を損ねずに、気持ちをノせてゆく。それはもう絶対です。あと制作期間中は、かつての僕の担当の方々が寝ずにやってくださっていたのと一緒で、僕も寝ずに作業しています。後藤輝基くん、川島明くん、椿鬼奴さん、レイザーラモンRGさん、鈴木京香さん、どの仕事も寝る時間を削ってやりました。

──25年前の藤井さんと同じように、中には歌うことに抵抗を持っている方がいらっしゃるかもしれないじゃないですか。そこは自分が体験してきたノウハウがあるから、相手も心を開きやすい?

いえいえ、心を開くなんてとんでもない。でも、僕にロックオンされたらタチが悪いやろなって思います(笑)。本人に「なーなー、ちょっと歌ってよ」って僕が直に相談したら、向こうが断りにくいかもしれない。それはよくないなと思ってるので、最初にマネージャーさんに話すという順序は死守しますね。マネージャーさんからご本人に「やったほうがいいですよ」と言って後押ししてくださるときもあるんですよ。僕はマネージャーさんとかプロモーターさんと手を組んで輝くタイプなんだなってすごく思います(笑)。モノ作りの理想形というか、こういう曲を作りたいとか、こういうジャケットを撮りたいとか、そういうのは人それぞれいろんなやり方があるので、別に僕が語るほどのことではないんです。だけど、とにかく裏の根回しは大事(笑)。

──その根回しがあったからこそ、SLENDERIE RECORDからのデビューが実現した人もいるんでしょうね。

自分が所属している芸能事務所にレコード会社があったから僕は音楽を続けさせてもらえてると思っていますので会社に感謝してます。

──最後にお聞きします。今、人をデビューさせる側に立った藤井さんが、25年前の自分を振り返ってかける言葉は?

自分にですか? 「すごく皆さんに大事にされてるよ」と言いたいですね。「これからはずっと楽しいですよ」ってことも伝えたいです。デビューする3月8日まではすごく悩んだし緊張もしたけど、「デビューしたあとは、結局楽しんでますよ」って、当時の自分には言ってあげたいかな。

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藤井隆(フジイタカシ)

2000年に「ナンダカンダ」で歌手デビュー。松本隆、筒美京平、本間昭光、Tommy february6、堀込高樹らとのコラボ作品を発表し、音楽的評価を高める。2014年9月に自身のレーベル「SLENDERIE RECORD」を設立し、2015年6月にアルバム「Coffee Bar Cowboy」をリリースした。2017年9月には自身が最も影響を受けた“90年代の音楽”をテーマにしたアルバム「light showers」を発表。自身の作品以外にも、早見優、レイザーラモンRG、椿鬼奴、鈴木京香、伊礼彼方の音楽作品をプロデュースし、SLENDERIE RECORDからリリースしている。2020年10月にリリースしたレーベルのオムニバスアルバム「SLENDERIE ideal」が、音楽雑誌「ミュージックマガジン」の年間J-POPアルバムチャートで5位に選出される。2022年5月にプロデューサーとして参加した後藤輝基(フットボールアワー)のカバーアルバム「マカロワ」をリリース。同年9月に5年ぶりとなった自身のオリジナルアルバム「Music Restaurant Royal Host」を発表した。2024年5月に後藤のカバーアルバム第2弾「ホイップ」をリリース。2025年5月には新たなプロデュース作品となる川島明(麒麟)のオリジナル1stアルバム「アメノヒ」を発表した。

藤井隆公式サイト
SLENDERIE RECORD(スレンダリーレコード)
藤井隆(@left_fujii) | X
藤井隆(@slenderie_record_fujii_takashi) | Instagram

松永良平

1968年、熊本県生まれ。リズム&ペンシル。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。

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