藤井隆

あの人に聞くデビューの話 第14回 前編 [バックナンバー]

藤井隆、紆余曲折の歌手デビューを振り返る

「ナンダカンダ」から25年、音楽好きゆえに抱えていた当時の葛藤とは?

10

284

この記事に関するナタリー公式アカウントの投稿が、SNS上でシェア / いいねされた数の合計です。

  • 62 198
  • 24 シェア

音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第14回は、音楽活動も積極的に行っているコメディアン、藤井隆をゲストに迎える。前編となる今回は、歌手デビューに至るまでの紆余曲折を振り返ってもらった。

取材・/ 松永良平 撮影 / 臼杵成晃

漫才コンビ、麒麟川島明が今年リリースした歌手デビューアルバム「アメノヒ」は、驚くほど音楽性が高い作品だった。藤井隆が主宰するレーベル、SLENDERIE RECORDからの発売。設立11年目を迎えたスレンダリーで、藤井さんは歌手としてのみならず、音楽プロデューサーとしての評価もどんどん高めている。2000年3月8日に藤井さんがシングル「ナンダカンダ」で歌手デビューしてから25年。現在、これほどまでに充実した音楽的未来を送る彼の姿を想像できた人はいただろうか。そもそも子供の頃から音楽好きではあったものの、お笑いタレントになった自分が人前で歌うなんてまったく想像していなかったという藤井さん。どういう経緯で歌手として華々しくデビューするに至ったのだろう? そして今、デビュー当時の自分を振り返って、どんな言葉をかけるんだろう? 率直すぎるほどの思いを語ってくれた。

中学時代から一貫してダンスミュージックが好き

──藤井さんが「ナンダカンダ」で歌手デビューしてから今年で25年なんですね。

そうなんですよ。

──子供の頃から音楽がお好きだったそうですが、物心ついた頃に出会った音楽で印象的だったものは?

父や母、親戚の人から「レコードを触るときは傷を付けないようにちゃんと練習してね」と言われていたのを覚えています。「聴き終わったらちゃんと拭いてね」とか。3歳か4歳のときのそういう記憶があるんです。それでレコードを丁寧に扱う練習をしたんですよ。小学校に上がる前には、きちんとレコードを扱えるようになってました。えーと、質問はそういうことじゃなく、思い出の歌の話ですよね? 「花と小父さん」という歌がすごく好きでした。

──伊東きよ子さんの曲? 藤井さんが生まれるずっと前、1967年のヒットです。

そうです! 伊東きよ子さん、きれいな方ですよね。ジャケットもいまだによく覚えています。「私を摘んで お家につれてって」という歌詞で、お花がしゃべってるというのがすごくショックというか、怖かったのかな。メルヘンな感じでは全然なかった。その曲が聴きたくて、レコードを取り扱う練習をしたのを覚えています。

──ご自宅にレコードプレイヤーがある環境だったんですね。

プレイヤーはありました。あとレコードもいっぱいではないんですけど、ありましたね。聴くのはすごく好きでした。

──レコードに合わせて歌ったり?

歌ってたと思います。でも「花と小父さん」ですからね(笑)。

藤井隆

藤井隆 [拡大]

──人前で歌ったりするような子供ではなかったんですか。

全然違います。もうちょっと大きくなると友達はバンドを始めたりしてたんですけど、そういうのにもまったく興味なかったです。

──本当に意外です。でも音楽は聴き続けていたんですよね?

はい。よく話してるエピソードなんですけど、僕には7つ離れた兄貴がいて、あとは京都に住んでいる親戚に10歳離れたお姉ちゃんと9つ離れたお兄ちゃんもいまして。年の離れた彼らが、いつもいろいろ教えてくれてました。親戚のお兄ちゃんがカセットに録ってくれた大貫妙子さんとEPOさんとユーミンを聴くのが楽しくて。お姉ちゃんは舞台や映画に連れていってくれて、そのおかげで、生まれて初めて観た舞台が夢の遊眠社だったんです。そういう意味でも、すごく恵まれてるんですよね。小学校のときは親戚のお兄ちゃんが勧めてくれる日本の曲を聴いて、中学になってからは実の兄貴が勧める洋楽を聴く感じでした。

──まるで身内で英才教育(笑)。1世代ぐらい上の人が聴いている音楽を聴いていたんですね。

そうですね。なので小学生の頃は、同級生で音楽の話が合う人がそんなにいなかったんです。でも、中学生になると、ようやくマイケル・ジャクソンやマドンナの話を友達とできるようになって。僕、ジョディ・ワトリーが大好きだったんです。カイリー・ミノーグやポーラ・アブドゥルとか、ダンスミュージックが好きでした。そこは当時からブレてないなと自分でも思うんですけど。そのうちバンドブームが来て、友達はみんなBOØWYとかを聴くようになりました。BOØWYのライブには友達が3、4人とかで連れ立って行ってましたけど、高校生の頃にジョディ・ワトリーが来日したとき、「ジョディ・ワトリー行く人!」と言っても誰からも手が挙がらなくて(笑)。それで1人で観に行きました。カイリーとポーラは兄貴と一緒に行ったのかな? でもジョディは1人で行ったんですよね。

──ジョディ・ワトリーへの愛を1人で貫いた。いい話ですね。

あと当時は音楽番組が毎日放送されていたんです。僕が特別に好きというわけじゃなくて、周りの友達もみんな音楽が好きでした。

「歌いますけど、その代わり、仮面を付けていいですか?」

──そんなに音楽的環境に恵まれてたのに、楽器を演奏したり歌ったりしたくならなかったんですか?

えー? なんでかな? 楽器を演奏しようとは特に思わなかったですし……そもそも、みんなそんなに歌いたがるものなんですか?

──それこそ当時はバンドブームだったから、中学、高校だと学園祭とかで友達はアマチュアバンドを組んだりしてたでしょう。

そういうパターンですよね。でも全然、歌いたくなかったです。理由は特にないんですけど。あ、でも、こういうことはありました。ちょっと長くなっちゃうからコンパクトに話しますけど、中学生のときの音楽の宿題で「卒業式で歌うオリジナルソングを作りましょう」という課題が出たんですよ。まずみんなそれぞれ曲を作り、提出された曲の中から10曲くらいを選んで、それに詞を付けていくんです。中学2年から3年に向かう春休みと夏休みを使って、時間をかけてやったのかな。でも、僕は面倒くさかったから、兄貴の友達に「こういう宿題があるので、曲を作ってください」と頼んだら、その人がStacey Qみたいな曲を打ち込みで作ってくれて(笑)。

──いきなり面白い(笑)。

ほかの友達はピアノを弾いたり、ギターをポロンポロンってやったりしてるのに、僕だけ変な打ち込みの曲(笑)。すぐに「兄貴の友達に作ってもらいました」って白状して謝ったんですよ。怒られるのかなと思ったら先生が面白がってくださって。もちろん10曲には選ばれなかったんですけど、先生がその曲をすごく気に入って、卒業式が終わったあとのイベントで、僕が歌うことになったんです。

──すごい展開ですね。

もちろん最初は「絶対に嫌です!」って断りました。だけど、僕と仲がよくて目立つことが好きな友達2人をコーラスに付けるからどうか?と提案されて。あまりにも先生が熱心だからついに観念して、「歌いますけど、その代わり、仮面を付けていいですか?」って言いました(笑)。

──変装ですか!

それで、変な仮面を付けて歌いました。でも、やらなきゃいけないからやっただけで、別に自分から歌いたいというのはなかったですね。

──でもそれって、いわば藤井さんの「人前での歌デビュー」ですよね。

確かに。でも名前は出してなかったんじゃないですかね? とにかく「嫌です」と言ってたから。

藤井隆

藤井隆 [拡大]

KOJI1200は芸人の歌のグラフの真ん中

──ここから一気に時間は飛びますが、そんな藤井さんが巡り巡って、やがて歌手デビューすることになります。吉本興業と音楽の組み合わせといえば、僕がすぐ思い出すのはKOJI1200(今田耕司)の「ナウ ロマンティック」(1996年)なんです。TOWA TEIさんがプロデュースしたあの曲はすごくカッコよくて、藤井さんのやがて来る歌手デビューへの隠れたリンクになっているのかもと思ったりしてます。

僕自身のCDデビューは自分の意見というよりはもう最初から決まっていてやるしかないって感じでした。先輩方が歌っていらっしゃったので特別なことではないのですが、例えば、間寛平師匠の「ひらけ!チューリップ」(1975年)もそうですし、西川きよし師匠の「子供が三人おりますねん」(1979年)とか、ザ・ぼんちさんの「恋のぼんちシート」(1981年)とか……。ぼんちさんは大きなコンサートもやられていましたし。あとは明石家さんま師匠ですよね。桑田佳祐さんが詞曲を提供した「アミダばばあの唄」(1983年)とかをリリースされているし、ダウンタウンさんのGEISHA GIRLSもあります。

──そう言われれば、吉本興業は芸人の歌の宝庫ですね。

新喜劇で歌っている方もいっぱいいます。コメディNo.1の坂田利夫師匠の「アホの坂田」(1972年)のような面白い名曲もありますし、トミーズ雅さんの「キスしてキスして」(1996年)は中崎英也先生が作られためちゃくちゃ名曲でどなたの考えたプロジェクトだったんですかね? オール巨人師匠のように歌に積極的に取り組まれている方もいらっしゃいます。そして、その中でもKOJI2000は、どう言ったらいいんやろ……自分の中では芸人の歌として、グラフの真ん中にあるような存在なんです。僕の歌とのつながりはまったくないですよ。全然違うもの。だけど、そのグラフは意識します。

──グラフの真ん中?

例えば、GEISHA GIRLSは、ちょっとグラフの幅が飛びすぎてて、方眼図のグラフの中におらへん。じゃあ誰がグラフの真ん中なの?って話になってくるんですよね。その中で、KOJI2000は僕の中では、すごく真ん中にある。いろんな芸人の歌の流れがある中で、「ナウ ロマンティック」は面白い要素もあるし、とてもカッコいいし、映像面でもこれでもかというぐらい作り込まれていて。おしゃれな人が集まって、めちゃくちゃおしゃれなことをやっているっていう。でも歌詞の中には「いまだは Now Romantic」っていう楽しい要素もあるし、なおかつ音楽的に刺さる感じもある。本当にグッドバランスで、あのタイミングで今田さんが歌わないといけなかったというタイミングも含めて、すごくベストなものがあるなと思います。

藤井隆

藤井隆 [拡大]

まったく聞かされていなかった歌手デビュー

──2000年に、ついに「藤井隆として歌を歌いませんか?」というオファーが来るわけですよね。それは藤井さんにとっては、どういうタイミングだったんですか?

当時、僕の仕事を全部決めてくれたスタッフがいまして、今も世話になってるのですが、その人が「東京に来なさい」と言ってくれました。ある日、その人に呼ばれてホテルに行ったら、アンティノスレコードの坂西伊作社長がそこにいらした。その時点で、僕はなんの打ち合せか、まったく聞かされていなかったんですよ。

──歌の打ち合せ、というのは寝耳に水?

聞いてなかったです。ホテルに行ったら、いきなり「CDを出すことになりました」と言われたんです。あまりに突然だったので、「音楽を聴くのは大好きですけど、自分が歌うのは違うんじゃないでしょうか?」という話をその場でしました。そしたら、場が本当にしらけちゃって。

──それくらい藤井さんの引いた感じが本気だったんでしょうね。

たぶん皆さん、僕が「え? いいんですか? やったー!」みたいな感じになると思っていたんでしょうね。坂西社長も、歌を出すことを知ったうえで僕が打ち合わせに来てると思っていたと思うんです。僕に声をかけてくれたスタッフは「いえいえ、こいつ歌うまいんですよ」って言うんですけど、その人、僕の歌なんかちゃんと聴いたことないんですよ(笑)。

──ははは。

吉本新喜劇絡みで山田花子さんがCDを出すときにねじ込んでいただいてバックコーラスをしていたから、もしかして、それを聴いてくれていたのかもしれませんけど。いずれにせよ、その場で「できないです……」と言いました。だから最初の打ち合わせは決して楽しい雰囲気ではなかったです。でも、すでにデビュー日も決まってるし、やるしかないと口説かれて、本当に困ったなと思いました。タレントとしてのタイミングを考えると、今、歌を出すよっていう話が来るのはわかるんですけど、でもどういう曲なのかは聞かされていなかった。客観的に考えてみたら、さっきお話したような「ひらけ!チューリップ」じゃないけど、「タカシちゃん音頭」のような、僕のタレント性に寄せた楽しいようなものになるのかな?とか、いろいろその場で考えたんですけど、どちらにせよ「恥ずかしい」とかそんな手前の浅はかな感覚で困ってました。

藤井隆

藤井隆 [拡大]

「歌いたい!」という気持ちがないと歌っちゃいけない気がしていた

──そういう逡巡があったんですね。でも、その後、針がギュギュっとやる方向に動いたわけですよね。

すでにデビュー日も決まっていたので、歌うことについては自分の中である程度、覚悟を決めましたが、どこか現実逃避して毎日仕事をしてました。歌手デビューしたのは2000年の3月8日なんですけど、その前に1999年12月31日開幕のミュージカルに初めて挑戦していたんです。10月の中旬頃から稽古が始まって毎日、踊ったり歌ったりしてました。稽古場で全然ちゃんとできなくてダメ出しをいただく日が続いて。稽古場の正面の壁一面が鏡で、ダンスの振付を覚えたりするんですが、いつまでも照れ臭くて全然ちゃんとできなくて演出家や振付の先生を困らせていました。歌もカラオケで歌うのとは違ってバンドさんの生演奏に合わせて歌うのが初めてで、爆音の中で歌い方のコツもつかめず自分の声を聴き失なったまま歌ってて、ずっと下手でした。振付を覚えるコツをつかめず何回やっても間違えてしまったり、踊りながら歌うことも初めてで振付が途中から思い出せなくなると歌詞も出てこなくなって、歌えなくなって、踊りながら歌うのがこんなに難しいんだと落ち込みました。

──歌って踊ることの難しさに直面していたんですね。

演出家さんやスタッフの皆さん、何より共演者の皆さんに恵まれて、迷惑をおかけしましたが、初日を迎えることができて、お客様にも育てていただいて毎日本番をがんばれました。できてない点もいっぱいあったと思うんですが、もうやるしかないって感じで毎日ぶつかってたんですが、困った青年たちが、がむしゃらにぶつかっていくというような物語だったので、どこか自分を重ねて観ていただけたというか、最後に出演者の1人として拍手をたくさんいただいてるときに「これからもがんばろう」と思わせていただけました。そんな期間にレコーディングや振付のレッスンがあって、本来は恥ずかしかった人様の前で歌うことや踊ることに少し麻痺させてもらえたのでラッキーでした。

──それもまた巡り合わせですね。

当時、テレビの現場で、できたことに対して褒めてくださったり、「いいよ! いいよ!」とノセていただきながらスタッフさんに認めていただいてる実感もあって毎日楽しくやりがいを感じていたんですが、テレビの仕事を終えてミュージカルの稽古場に行くと、芝居も歌もダンスも自分ができていないことをこれでもかと思い知らされるので嫌になるんですけど、本番が来るので食らい付くしかなくて、大変だったのを覚えています。だけど、「ミュージカルやるぞ、オーディション行ってこい」って言った人が、歌手デビューだと教えずに僕をレコード会社の方々に会わせた人なんですよ。その人が「やってこい」って言うことは毎回すごく難しくて、困ったなと思っていたんです。

──でも、その方は先を読んでいらしたんでしょうね。

あとで聞いたんですけど、歌手デビューに際しては、歌だけじゃなくて、歌って踊ることも決まっていたそうなんです。それで振付師の先生が、僕がどういう踊りならば踊れるのか、ミュージカルの本番を観に来てくださって、ちゃんと見極めてくださっていたんです。スタッフの皆さんに本当に大事にしていただいたと思います。

──ある意味、ミュージカルの本番が歌手デビューの準備期間になっていた。

舞台の本番期間中だったと思うんですけど、デビュー曲のデモテープをもらいました。それを聴いて歌を覚えて、本番が終って、そのまま渋谷のパルコ劇場からタクシーでスタジオに連れていかれて、作曲を手がけてくださった浅倉大介さんや歌詞を提供してくださったGAKU-MCさん、そしてスタッフの皆さんがいらして、舞台終わりをねぎらってくださって、「まずは」と食事を勧めてくださいました(笑)。歌い終わって自分の歌を録った、という実感はもちろんありましたが、発売されるところまでまだイメージできなくてふわふわしていました。歌手は歌いたい人がなれる職業であると思いますし、自分は歌う機会をいただいたタレントとしか思えず“デビュー”する実感はなかったです。翌日に自分が歌った仮のボーカルミックスを聴かせていただいたんですが、覚悟や自覚がないのにCDデビューすることに不安や迷いがありました。

──その逡巡はすごくリアルで生々しいですね。

歌だけじゃなくて、ほかの仕事も20代の頃はずっとわからないままやらせてもらってました。自信を持って「これが自分です!」と言える仕事もやらせていただいてましたが、自分では「わからないです」と思いながらも「やってみよう」と言われてやってみたら、「よかったよ」と言ってもらえる。本当にその繰り返しなんです。芸と呼ばれるものを自分だけで作り上げて磨いていくのではなくて、スタッフさんから提示していただいた企画やキャラクターに乗っかったり、楽しんだりはできるんですが、自分の思いや覚悟を前面に押し出して何かを表現することが本当に手強くて、自分のやる気や覚悟が必要だと思う歌の活動は難しいなぁと感じていました。

<後編に続く>

藤井隆

藤井隆 [拡大]

藤井隆(フジイタカシ)

2000年に「ナンダカンダ」で歌手デビュー。松本隆、筒美京平、本間昭光、Tommy february6、堀込高樹らとのコラボ作品を発表し、音楽的評価を高める。2014年9月に自身のレーベル「SLENDERIE RECORD」を設立し、2015年6月にアルバム「Coffee Bar Cowboy」をリリースした。2017年9月には自身が最も影響を受けた“90年代の音楽”をテーマにしたアルバム「light showers」を発表。自身の作品以外にも、早見優、レイザーラモンRG、椿鬼奴、鈴木京香、伊礼彼方の音楽作品をプロデュースし、SLENDERIE RECORDからリリースしている。2020年10月にリリースしたレーベルのオムニバスアルバム「SLENDERIE ideal」が、音楽雑誌「ミュージックマガジン」の年間J-POPアルバムチャートで5位に選出される。2022年5月にプロデューサーとして参加した後藤輝基(フットボールアワー)のカバーアルバム「マカロワ」をリリース。同年9月に5年ぶりとなった自身のオリジナルアルバム「Music Restaurant Royal Host」を発表した。2024年5月に後藤のカバーアルバム第2弾「ホイップ」をリリース。2025年5月には新たなプロデュース作品となる川島明(麒麟)のオリジナル1stアルバム「アメノヒ」を発表した。

藤井隆公式サイト
SLENDERIE RECORD(スレンダリーレコード)
藤井隆(@left_fujii) | X
藤井隆(@slenderie_record_fujii_takashi) | Instagram

松永良平

1968年、熊本県生まれ。リズム&ペンシル。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。

バックナンバー

この記事の画像(全6件)

読者の反応

NOTHING @nothingblue_1

@natalie_mu Ok

コメントを読む(10件)

藤井隆のほかの記事

あなたにおすすめの記事

このページは株式会社ナターシャの音楽ナタリー編集部が作成・配信しています。 藤井隆 / 麒麟 / 川島明 / 浅倉大介 / GAKU-MC の最新情報はリンク先をご覧ください。

音楽ナタリーでは国内アーティストを中心とした最新音楽ニュースを毎日配信!メジャーからインディーズまでリリース情報、ライブレポート、番組情報、コラムなど幅広い情報をお届けします。