音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第13回はロックバンド
取材・
「つい先週、ヨーロッパツアーから帰ってきたところなんです」。少年ナイフのなおこさんは、そう言った。まるで近所の買い物から帰ってきたばかりのような物腰で。バンド結成から44年。日本が世界に誇るインディーバンドの草分けにして今なおバリバリの現役ガールズバンド、少年ナイフ。「海外では日本語はウケない」みたいなテーゼを、シティポップブームのはるか以前から軽々と乗り越えてきた。初ライブからの通算の公演数は、今年ドイツで1500回を迎えたという。Sonic YouthやNirvanaに愛され、メンバーチェンジを経つつも休止することなく活動を続ける彼女たち。いつまでも絶えることのないインディースピリットで音楽を楽しみ続けるなおこさんが音楽活動の原点とデビューについての思いを、バンドの拠点としている大阪のスタジオで語ってくれた。
「かわいくて危険」な少年ナイフ
──少年ナイフというバンド名はどうやって決めたんですか?
英語検定の試験に行ったとき、問題が綴じてあって、それを開封しないといけなかったんです。私は普通のペーパーナイフを持ってきたんですけど、前の席の人が折り畳み式のナイフを持っていて、ぱっと見たら柄のところに「少年ナイフ」って書いてあったんですよ。それで、なんか面白い名前だなと思ってメンバーに話したらバンド名にしようということになって。その「少年ナイフ」という名前のナイフ、お客さんが見つけて送ってくださったんですよ。だから今、家にあります。
──なんと! 市販されていた商品だったんですね。
そうみたいです。そのナイフの銘柄から取りました。「少年」ってかわいいけど、「ナイフ」は危険なイメージで、「かわいくて危険」というのが、私たちがやりたい音楽にぴったりかなと思ったんです。
──バンドをやりたいというのはずっと思っていたことなんですか?
そうですね。中学時代にThe Beatlesを聴き始めて、高校ぐらいから自分でもバンドをやりたいと思うようになったんです。だけど誰と一緒にやったらいいのかわからなくて。短大に入って、本格的にやりたいなと思うようになって軽音部に入ってみたりしたけど、そのときは学園祭に出たくらいでした。少年ナイフの結成は、同じクラスに中谷(みちえ)さんがおられて、面白そうな人だし、「一緒にバンドやろうよ。私がギターをやるから中谷さんはベースをやってください」って誘ったんです。当時ロックが好きな同年代の友達が少なかったから、ドラマーは、私の妹のあつこに「ドラムやってみいへん?」って声をかけました。あつこは高校でエレキ部に入っていたんです。2年先輩に町田町蔵(現・町田康)さんがおられた高校なんですけど。
──ある意味、パンクとしては由緒正しい高校ですね。
妹は高校生、私は短大生。ギター、ベース、ドラムの3人でバンドが始まりました。The Beatlesが好きだったから本当は4人でやりたかったんですけど誘える人が周りにいなかったので。私とみちえさんが、それぞれ曲を持ち寄ってバンドを始めました。
──なおこさんがずっとつけ続けている少年ナイフの活動を記録したノートによると、結成日は、1981年の12月29日だそうですが。
その日に初めて大阪の難波にあったスタジオで練習したんです。なので、それを結成日にしようと。
──当時の大阪のロックシーンはどんな感じだったんですか?
少年ナイフを始めた頃は、バンドの知り合いがいなかったんです。みちえさんの友達の弟の友達っていう高校生の男の子2人がDie Öwan(ディ・オーバン)というバンドをやっていて、彼らはめちゃくちゃ進んでる人たちだったんです。私より3つ4つ歳下だったのかな。その2人を紹介してもらったら、彼らが「少年ナイフ、面白いから録音しよう!」と盛り上がって。それで「みんなたのしく少年ナイフ」というカセット作品を初めて作るときに手伝ってくれたんです。多重録音のやり方とかも教えてくれました。彼らが手伝ってくれたそのカセット作品が最近CDとレコードになったので、サンプル盤を送らなきゃと思っているんですけど。最近、X(旧Twitter)にDie Öwanの音源をちょくちょくアップされてる人がいて、もしかしたらメンバーかな?って。本人かどうかは、ちょっとわからないんですけど、ひさびさに会ってみたいなとも思っています。
自宅でせっせとダビングした初音源
──初ライブというと、いつになります?
カセットを作ったあとに、せっかくだからライブをしようということになって、それもDie Öwanの人が仕切ってくれたんじゃないかな。初ライブは82年の3月14日、大阪の道頓堀にある大きなスタジオでやりました。そのとき一緒に出てたのが、京都大学の軽音楽部の人たち。それ以降、京都のバンドの人たちが対バンに誘ってくれるようになりました。だから、私たちが最初にバンドシーンとつながったのは大阪ではなく、京都の人たちがメインだったんです。
──大阪が拠点だけど、ライブの誘いは京都から来るようになったんですね。
当時は大阪よりも京都のほうに、しっかりしたバンドシーンがあったんです。ライブハウスの磔磔、拾得、あと京大西部講堂という素敵な場所もあって。当時の京都にはビートクレイジーというバンド関係の企画グループがあって、ザ・コンチネンタル・キッズ周辺の人たちに誘ってもらって一緒にライブをやってました。そのあと、NANAというバンドの久富(隆司)くん(のちのローザ・ルクセンブルグ、BO GUMBOSのどんと)がしょっちゅうライブに呼んでくれるようになって、彼らともよくライブでご一緒しました。大阪の会場でも、しばらくしてからライブをやるようになりましたね。最初に出たのは天王寺にあったマントヒヒ(ジャズ喫茶・ロック喫茶 MANTOHIHI)というライブハウス。あとはスタジオあひる、エッグプラントによく出させてもらっていました。その頃になると関西のパンクの人たちと活発に交流するようになって。
──結成時に話を戻すと、なおこさんと中谷さんがオリジナル曲を持ち寄っていたとのことですが、最初にバンドの方向を話し合ったりしたんですか?
もともと私はThe Beatlesが好きだったけど、70年代後半のパンクとか、ニューウェイブにも影響を受けていて。RamonesとかBuzzcocksとか、パンクの中でもポップなメロディがあるバンドがすごく好きだったんです。中谷さんは当時、Chicagoが好きだったんですけど、私がカセットにオススメの曲をダビングして渡してましたね。みちえさんは、ぶっ飛んだ面白い曲をいっぱい作ってきて天才だと思いました。彼女は本を読むのがすごく好きだから、歌詞も独特なんですよね。きわどい怖い歌詞をたくさん書いてきました(笑)。
──「わたしは現実主義者よ!」とかですね。でも、なおこさん作で、初期の人気曲「Burning Farm」や「バナナリーフ」はすでにこの頃からやっていたんですね。
私は日常生活で感じた面白いことを歌詞にして、自分が好きなバンドに影響を受けたメロディを付けて曲にしていました。ただ、「みんなたのしく少年ナイフ」の中には、Delta 5のカバーとか、あと著作権の問題でCDには入れられなかったけど、カセットにはフランスの「ミロール」というシャンソンの名曲をイギリスのMo-Dettesというバンドがカバーした曲をさらに私たちがカバーしたバージョンも入っていました。Delta 5とかMo-Dettesとか、あのへんの時代のバンドにかなり影響を受けていて。ライブではRamonesもちょっとカバーしてました。
──「みんなたのしく少年ナイフ」は幻の作品と言われてましたが、当時どれくらい作ったんですか?
40本です。自宅でせっせとダビングしたんですよ。本当はたくさん作りたかったんだけど、自分でダビングしてたから40本が限界でした(笑)。ジャケットにみんなでキスマークを付けたりして(笑)、完全な自主制作でしたね。
──そりゃ幻のはず! そして、初めてのレコードは1stアルバム「Burning Farm」。リリースは1983年で、7inchよりひと回り大きい8inch盤でした。
しばらくライブ活動を続けていたら京都のゼロ・レコードの平川(晋)さんが、うちのレーベルから出さないかと声をかけてくださったんです。それで初めてのレコードをリリースしたんです。1000枚作ってすぐに売り切れたから、またすぐに1000枚プレスして、そしたらまた売り切れて。
──いきなり「うちで出さないか」と言ってきた平川さんもすごいですね。
どういうところが面白いとか具体的なやりとりはなかったけど、平川さんは私たちの曲をすごく気に入ってくださって、その後、ゼロ・レコードからはアルバムを3枚リリースしました。
──「Burning Farm」に続いて同じく8inchの「山のアッちゃん。」(1984年)、そして初の12inchサイズでの「PRETTY LITTLE BAKA GUY」(1986年)の3枚ですね。この3枚がインディーズ盤としてヒットして、それまで京都、大阪界隈の知る人ぞ知るバンド、少年ナイフだったのが、より多くの人たちに知られるきっかけになったんですよね。
そうですね。東京の人からもライブに呼んでもらえるようになりましたし。法政大学の学祭とか。
──動員とかお客さんの反応とか、バンドを取り巻く環境が変わっていくのは、目に見えてわかりました?
はい。やっぱりゼロ・レコードから作品を出したのは大きかったです。
──そのときは、将来バンドで食べていこうという気持ちでしたか?
いえ、そういう気持ちはなかったです。この連載で、以前に怒髪天の増子(直純)さんも「バンドで稼ごうとは思っていなかった」とおっしゃってましたけど、私も同じような気持ちでした。有名になりたいという気持ちが全然なくて、バンドはあくまでも表現活動の1つとして捉えていました。少年ナイフの曲をお客さんが面白いと思ってくれることが自分の喜びだと思っていたんです。人を楽しませることが一番幸せだから、バンド活動をお金と切り離して考えていて、普段はアルバイトをしてました。
わらしべ長者的に展開していった海外リリース
──僕が最初に買った少年ナイフのアルバムは「PRETTY LITTLE BAKA GUY」のアメリカ輸入盤でした。そもそも海外リリースの声がかかったのは、どういうタイミングで、どういうきっかけだったんですか?
最初は85年ですね。アメリカのシアトル郊外にあるKレコーズっていうインディーレーベルをやっていたカルヴィン・ジョンソンから声をかけてもらいました。聞いた話によると、カルヴィンが大学の卒業旅行で東京に来たときに、片っ端からレコードを買っていって、その中から少年ナイフをすごく気に入ってくれたみたいです。それである日、カルヴィンから手紙が届いたんです。そこから文通がスタートして、やがて「僕のレーベルから出さないか?」という話になり。平川さんがカルヴィンに「Burning Farm」のマスターテープを送ったら、それがそのままカセットでリリースされたんです。だから、海外デビューの最初はKレコーズです。
──文通からのスタートでしたか。
そうなんです。翌年に、そのカセットを聴いたフロリダのサブバーシブレコーズから、また手紙が来て。今度は「レコード出さへんか?」って言われたんです。そこで30cmのレコードを出したのが、「PRETTY LITTLE BAKA GUY」です。そしたら、今度はそれを聴いたロサンゼルスのガサタンカレコーズから、「レコードやらCDやら、いろいろ出せへんか?」って言われて、いろいろ出して。で、ガサタンカレコーズの人に「ライブに来いへんか?」って言われたから、1989年の8月に初めてアメリカにライブをしにロスまで行ったんです。
──わらしべ長者みたいな話の転がり方ですね。
とはいえ、ずっと手紙だけでやりとりしているから、向こうの顔もわからなかったんです。「●月●日の何便に搭乗してもらったら空港で待ってるから」みたいなことは言われてましたけど。当時はFAXも普通の家にはない時代だったから不安でした。全部、手紙のやりとりなんですよ。
大歓迎された初の海外公演
──そのときはツアーではなく1公演だけ?
はい。ロスで1回だけライブをやりました。アメリカに着いたら、ガサタンカレコーズのビル・バーテルという人が空港の出口で待っててくれました。でも、私らその人にめっちゃ連れ回されたんですよ(笑)。写真を撮ったり、ビデオを撮ったり。メイクの人も付いて、すごい格好して写真を撮られたり。要するにビルがプロモーションをいっぱい入れてくれたんです。「こんなん初めてやな」と思いました(笑)。ハリウッドのほうに、プロモーションビデオみたいなものを観光客とか誰でもすぐに撮れる青バックのスタジオがあったんですよ。そこで私たちも撮影しました。アメリカでは面白い体験をしましたね。
──肝心のライブはどんな感じでした?
ライブは、ダウンタウンにあったセカンドカミングという会場でやりました。たぶんギターは現地で借りたんじゃないかな。自分で持っていった記憶がないから。少年ナイフのあとに出たのが、Tater Totzっていう、いろんな人たちが参加したオールスターバンドです。そのバンドはRed Krossのジェフ(・マクドナルド)くんとか、Sonic Youthのサーストン(・ムーア)がメンバーで。
──要するに、みんなすでに少年ナイフの大ファンで、歓迎してくれたってことですよね?
アメリカに行くちょっと前に、少年ナイフのトリビュートアルバム(「Every Band Has A Shonen Knife Who Loves Them」1989年)が現地でリリースされていたんです。そのアルバムに参加してる人たちが集まって一緒にライブに出てくれました。
──あのトリビュート盤はどういう感じで連絡が来たんですか?
「いろんなアーティストが参加する少年ナイフのトリビュートアルバムを出したい」って。でも当時はトリビュート盤の意味すら知らなかったんですよ(笑)。最初は1枚のLPになるはずだったのが、参加したいっていうバンドが多すぎて2枚になったとか聞いて。すごいなあと思いました。
──全32組が参加したんですよね。すごい。
ライブでも、みんなワーワーってジャンプしてくれたりしてましたね。その頃の少年ナイフは、日本だったらそこまでお客さんの数が多くないのに、何百人もお客さんが来て喜んでくれていたから、こっちもうれしくなって飛び跳ねて演奏しました。いろいろインタビューも受けて。当時はそこまで英語が話せなかったし、質問の内容とかあまり理解できなかったけど、一生懸命、受け答えしました。
──今みたいにインターネットがなかったけど、海外で少年ナイフが受けているらしいぞというニュースが、ぽつぽつ出始めた記憶があります。
海外で私たちの曲が聴かれてるかもという情報が最初に届いたのは、Kレコーズからカセットを出したあとでした。イギリスのBBCでやっているジョン・ピールの番組で少年ナイフの曲が流れたんですよ。それを教えてくれたのが、Die Öwanのメンバーだった人です。
──ここでもDie Öwanが!
その人はBBCを聴くためにシンガポール経由で短波ラジオを聴いておられて。それで「少年ナイフの曲がかかってた!」って、興奮して私に電話してきてくれたんです。
──シンガポール経由でBBCのラジオを聴くというは、まさにインターネット以前の情報の伝わり方ですね。しかも電話で報告が来た(笑)。
そうですよね(笑)。ロスでのライブも、相手の顔もわからないのに、親もよくそんな遠いところに行かせてくれたなと思います。
──親御さんにはなんと言ったんですか?
「バンドでライブしたいからアメリカに行く」って言いました。どうやって許してもらったのか覚えてないですけど、心配かけてしまって悪いことしたなと思います(笑)。
<後編に続く>
なおこ(ナオコ)
1981年、大阪にて結成されたロックバンド、少年ナイフのボーカル&ギター担当。少年ナイフは1983年に1stアルバム「Burning Farm」をゼロレコードからリリース。同アルバムは1985年にアメリカのインディーズレーベル、Kレコーズより発売される。オリジナルなサウンドが海外でも話題を呼び、1992年には日本、アメリカ、イギリスでメジャーデビューを果たす。以後、アルバムリリースとワールドツアーをコンスタントに続ける。現在のメンバーは、なおこ、あつこ(B, Vo)、りさ(Dr, Vo)。1982年に自主制作したカセットテープ「みんなたのしく少年ナイフ」がLP&CDとして7月に発売された。
- 松永良平
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1968年、熊本県生まれ。リズム&ペンシル。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。
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わー!遂にインタビュー記事解禁っ!楽しいインタビューでした。読んでみてね❣️😉🎸🎤👏🏻 https://t.co/Lc5jaj09Ie