
アーティストの音楽履歴書 第54回 [バックナンバー]
安部勇磨(never young beach)のルーツをたどる
細野晴臣の音楽に出会った青年は考え続けた「日本の東京で生まれ育った自分を無理なく表現するには?」
2025年3月13日 18:30 3
アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回は
取材・
甲本ヒロトさんの歌詞に「この魔法を解き明かしてみたい!」
僕には兄が2人いるんですけど、どちらも音楽が好きで、子供の頃は、兄たちが家で流してる曲を「なんか楽しそうだな」って、なんとなく聴いてるような感じでした。初めて買ったCDは、確か「ポケモン言えるかな?」の短冊CD。当時流行っていたブラックビスケッツの「Timing」も買ってもらった記憶があります。学校の勉強は苦手だったんですが、音楽の授業はなんでか好きで、人前で歌うのもあんまり恥ずかしくなかったんです。友達は恥ずかしがって小さい声で歌ってたりするけど、僕はむしろ楽しくて、大きな声で歌ってました。体ひとつで表現できる気持ちよさを感じていたというか。今思えば、小学校の音楽の授業が歌うことの楽しさに目覚めたきっかけかもしれません。
中学生になった頃から本格的に洋楽を聴くようになりました。当時はガレージリバイバルが盛り上がっていて、次男の影響でThe LibertinesやThe Strokesとか、あのあたりのバンドを夢中になって聴いてましたね。ギターを弾き始めたのは高校に入ってから。誰かのカバーとかはやらず、オリジナル曲を作ったりしてました。今もそうなんですけど、僕、練習するのがすごく苦手で。作るのは大好きなんですけど、練習っぽくなった瞬間、楽しくなくなっちゃう。だから誰かが作った曲をなぞることができなかったんです。原曲と勝負しても絶対に勝てないですから。自分でオリジナル曲を作っちゃえば、比較される対象もないし、楽しくやれるかなと思って。それでギターの教則本で簡単なコードを覚えて、どんどん曲を作っていきました。
日本語の歌詞で最初にいいなと思ったのは
日本の東京で生まれ育った僕という人間を無理なく表現できる音楽
本格的にバンドを組んだのは高校を卒業してから。次男がバンドを組んで下北沢のGARAGEというライブハウスによく出てたから、いろんなバンドを観に行くうちにカッコいいなと思うようになって。それで自分でもバンドを始めました。当時やってたバンドは、もろにガレージリバイバルっぽい感じでした。自分なりにがんばってはいたけど、全然うまくいかなくて、いつも焦ってましたね。GARAGEでバイトしてた時期もあって、照明を手伝ったり、ドリンクを作ったりしてました。あの頃のGARAGEには、
当時は細いデニムにコンバースのスニーカーみたいなファッションで尖った感じのバンドをやってたんですけど、「これって自分に似合ってないんじゃないか?」って徐々に思うようになったんです。海外のバンドは、現地の生活や文化がある中で、音にせよファッションにせよ、自然とああいう感じになっていったわけで、それを自分が表面だけ真似るのは違うんじゃないか?って。20歳の頃、友達にロックスターみたいなファッションのやつがいたんです。ロン毛で革ジャン、みたいな。でも僕は性格がヒネくれてるから、「こいつ実家暮らしだから、こんな格好しててもお母さんにごはん作ってもらってるんだよな」とか思っちゃうんですよ(笑)。そういうことを考え始めると、自分がやってる音楽にも違和感を覚えるようになっちゃって。そんな中で出会ったのが、
泰安洋行
決定的になったのは
聴いてもらうために固めたコンセプト
ネバヤンは最初、宅録ユニットみたいな感じで始めました。自分がやりたいことをクオリティが低くてもいいから形にしようと思って、ひたすら曲を作ってましたね。ギターを売って手に入れた中古のパソコンでデモ音源を作って、それをCD‐Rに焼いて。お金がないから、スーパーマーケットに捨ててある段ボールでジャケットを手作りして、ZINEを付けて下北沢のJET SETとかに置いてもらってました。そうこうしてるうちに、ライブが決まったんですよ。でも、その時点でメンバーがいないし、打ち込みでライブをやるとか想像つかなくて。それで急遽、Twitterを使ってバンドメンバーを募集しました。一番手っ取り早いかなと思って。目標が決まったらとにかく動いちゃうんです。悩んでるんだったらバンドを組んじゃったほうが早いだろうって。ひと言でいえば、せっかちなんですけど、昔から思い立ったら即行動という感じでしたね。
ネバヤンは1回目のライブから楽しかったです。渋谷のRuby Roomという小さなお店だったんですけど、お客さんが盛り上がってくれて。周りの人たちも、みんな「いいね!」と言ってくれて、そういうことが初めてだったから自信につながりました。ネバヤンは自分なりにコンセプトを固めて始めたんですよ。当時、はっぴいえんどに影響されたインディーロック系のバンドがたくさんいたから、その中でどうしたら差別化できるんだろう?って。どれだけいい曲を書いても、聴いてもらえなかったら意味がないんで。そこでまず考えたのがトリプルギターという編成でした。トリプルギターで演奏したら、アレンジに幅が出るかなって。自分たちなりにいろいろ考えて活動を続けていくうちに、お客さんが増えていきました。2015年にリリースした1stアルバム「YASHINOKI HOUSE」も、いろんなメディアに取り上げてもらって、自分がやってることを受け入れてもらえてとてもうれしかったです。
never young beach -あまり行かない喫茶店で(official video)
憧れの細野さんの音楽から伝わってくるもの
2017年には憧れの細野さんとも会うことができました。福岡の野外フェス「CIRCLE」に出たとき、打ち上げのお店でメンバーとごはんを食べてたら、僕らのテーブルまで細野さんが来てくださったんですよ。空いてる席にストンと座って、「君たちネバヤンでしょ? はっぴいえんどが好きなんだよね?」って。向こうのテーブルにいらっしゃるのが見えていたから、どのタイミングで挨拶に行こうか迷ってたんですけど、まさか細野さんのほうから話しかけてくださるとは。緊張して何を話したか、あまり覚えてないんだけど、伝説のポケモンに出会えたような感じでしたね。「本当に存在するんだ!」って。
細野さんとはそれ以来、ラジオ番組に呼んでくださったり、音楽ナタリーの連載「細野ゼミ」でご一緒させていただいたり、お話させてもらう機会が増えました。細野さんの音楽からはモノ作りに対する気合いみたいなものが伝わってくるんです。でも実際の細野さんは、いつお会いしてもすごく穏やかなんですよね。「どうやってこんな曲を作ったんですか?」って聞くと、いつも「忘れちゃったよ」って言うんです(笑)。細野さんの「僕は一寸・夏編」の「嵐の中歩くのが好き」という歌詞のところを聴くたびに、いつも勇気付けられてます。
言葉や文化を超える音楽
2014年の結成以降、メンバーが抜けたり試行錯誤したりしながらもネバヤンの活動を続けてきたんだけど、2020年に入るとコロナによって動けなくなってしまいました。暗い時期でしたね。もやもやしてました。コロナの影響で世の中が分断されてしまって、誰が正しくて誰が間違ってるとか、毎日いろんな意見が飛び交って。そういう状況に身を置いてるうちに、歌詞がある音楽を聴くのがツラくなっちゃったんです。歌詞にはどうしても作り手の意思や思想が反映されてしまうんで。だからコロナの時期は、ずっとアンビエントや環境音楽を聴いてました。よく聴いてたのは
ソロを始めたのもコロナ禍の影響です。バンドが止まってちょっと1人になったときに、ネバヤンでは出せない自我みたいなものもソロだったら全開にできるんじゃないかと思って。それで気になっていたミュージシャンに声をかけてソロアルバムの制作をスタートしました。本当に今でも信じられないんですけど、デヴェンドラ・バンハートさんがギターを弾いてくれたり、細野さんにミックスしていただいたり。そしてアメリカのレーベルTemporal Driftからアルバムをリリースしてもらえることになって。すごくうれしかったです。そこから少し時間はかかったんですがアメリカツアーも決まりました。
これまで2回アメリカツアーをやったんですけど、まだまだぎこちないというか、ライブに慣れてないなと感じてます。こないだ一緒にライブをやったジンジャー・ルートさんとか、演奏も素晴らしいですが、エンタテインメントとしてもお客さんを楽しませているんです。アメリカで共演したThee Heart Tonesという20歳くらいのバンドもとんでもなく素晴らしいライブをしていて、世界は広いなと思いました。どちらかといえば悔しいことが多いんですけど、そんな中でも最高な瞬間が何度かあって。Brainstoryと共演したとき、彼らのお客さんが僕のライブでも盛り上がってくれたんですよ。演奏を終えたらスターみたいな扱いで。背中をパンパンとか叩かれて、「日本でもこんなことされたことないよ!」とかうれしくなっちゃって。文化を超えたとか簡単に言えるわけではないですけど、言葉の壁を越えて彼らのコミュニティに受け入れてもらえたような気がして、すごくうれしかったんです。以前、デヴェンドラさんとネバヤンで対バンしたときも、「君たちの曲を聴くと、歌詞の意味はわからないけど情景が浮かぶし、言葉以上に伝わってくる何かがある」と言ってもらったことがあって。僕は常に心のどこかで孤独を感じながら生きてるんですけど、そうやって言葉や文化を超えて、音楽を通じて人と人が通じ合える瞬間って本当にかけがえのないものだと思うんです。
なんとなくの“ネバヤン像”をいい感じで壊して
海外ツアーをやることで、自分が日本人であることを改めて認識することもできました。日本にはカッコいい音楽が、まだまだたくさんあるから、それを自分なりのやり方で伝承していきたいんですよね。今、僕の中でブームなのは「ルパン三世」のサントラを手がけてる
ネバヤンに関しては、今後に向けた展開をメンバーで話し合っているところです。10周年を迎えたから、これまでとは全然違う感じでやってもいいんじゃないかって。マイナーコードの暗い曲ばかりやってみるとか(笑)。続けていくうちに、自分はもちろん、お客さんの中にも、なんとなくの“ネバヤン像”みたいなものができあがってる気がして、それをいい感じで壊して次に進めたらいいなと思いますね。
安部勇磨(never young beach)を作った10曲
安部勇磨(アベユウマ)
1990年東京生まれ。2014年に結成されたnever young beachのボーカル&ギター。バンドとして2015年5月に1stアルバム「YASHINOKI HOUSE」を発表し、7月には「FUJI ROCK FESTIVAL '15」に初出演。日本のみならずアジアを中心とした海外での活動の場を広げている。2021年にソロ活動を開始し、アルバム「Fantasia」を自主レーベル・Thaian Recordsよりリリース。2024年に初の北米ツアーを行った。
バックナンバー
そくほー @lizeth_mel1459
@natalie_mu 興味深い内容ですね。