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「さんピンCAMP」とその時代 第1回 前編

日本初の大型ヒップホップイベント「さんピンCAMP」はいかにして生まれたのか?

関係者が語る「さんピンCAMP」の裏側|本根誠×荏開津広×光嶋崇 鼎談

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MASS対CORE

──映像を順に追っていくと、「MASS対CORE」のライブ映像が収録されています。

光嶋 タワーレコード渋谷店のインストアイベントですよね。あれはレコ発かなんかでしたっけ?

本根 ECDのアルバム「Homesick」(1995年3月1日リリース)のレコ発かな。

光嶋 そこで「MASS対CORE」をECDとYOU THE ROCK★が披露してたら(注:TWIGYの自伝「十六小節」によると、TWIGYも舞台袖にいたという)、YOUちゃんが客席にダイブして、盛り上がりすぎてパフォーマンス中に音が切られちゃうという。あれはタワー側が切ったの?

本根 そうそう。そもそもイベント前からスタッフとアーティストが睨み合う感じでした。その空気の中でYOU THE ROCK★がパカーンってダイブしちゃって、音が切られた(笑)。今にして思うと渋谷のど真ん中にあんな大きなCDショップを作ったばかりで、あのインストアイベントをやらせてくれたのは感謝ですね。

荏開津 「Homesick」のインストアでタカちゃんがカメラを回してるってことは、その頃には「さんピンCAMP」の製作も決まってたってことだよね?

光嶋 決まってました。「MASS対CORE」は、YOU THE ROCK★、TWIGY、ECDがラッパーで、プロデュースが高木完さんでしょ? この座組はヤバくないですか? 完ちゃんがプロデュースして、あのトラックを作ったというのはどういう流れだったんですか?

本根 ECDのオーダーだったと思いますね。それまでのヒップホップのレコーディングって、スタジオでわちゃわちゃトラックを作って、「トラックできました!」「じゃあ歌入れです」みたいな感じだったんですよ。

──アイデアはすでにあったとしても、トラック制作の実作業はスタジオでやっていたということですね。

本根 でも高木完さんは、スタジオに来た段階でトラックのプリプロダクションを終えていて、「トラックはこれです。じゃあ歌入れやりましょう」っていう感じでした。そこで「普通のやり方をちゃんとできる人がやっと来た」と思った(笑)。

荏開津 でもそれは、それだけライミングやラップの進化が速かったということもあると思いますよ。機材を買って、使い方をマスターするのに間に合わないぐらい、ラップのほうがすごい勢いで進化していたわけで。

──進化するラップに合わせるには、スタジオでラップと並行してトラックを作る必要があった。

荏開津 だってキングギドラ「空からの力」、BUDDHA BRAND「Funky Methodist / ILLSON」、MICROPHONE PAGER「DON'T TURN OFF YOUR LIGHT」、RHYMESTER「EGOTOPIA」、そしてさんピン派ではないけれどスチャダラパー「5th WHEEL 2 the COACH」……繰り返し言ってますが、日本語でのラップの試みはそれ以前にあったにせよ、Kダブシャインの押韻方法の始まりとさんピン世代があって初めて日本語のラップの完成を見たのではないですか。そのギドラは言うまでもなく、ブッダの英語と日本語のちゃんぽん、ペイジャーのサウンドプロダクションとアティチュード、ライムスの日常のヒップホップイズムの探究などなど、日本語でのラップを完成させたのはあの時代のラッパーだと思います。「亜熱帯雨林」や「暗夜行路」というイベントがフライヤーのみでお客さんでパンパンになっていて、もう亡くなってしまったマンガ家・中尊寺ゆつこさんはクラブカルチャーが大好きで彼女に「ヒップホップのイベントに行きたい」と言われて、雷(※YOU THE ROCK★が主催していたイベント「Black Monday」の出演者によって結成されたヒップホップユニット)のイベントに一緒に行ったのを思い出します。当時は、局地的ではあるけど、そうやってようやく日本語で自在に表現できるようになったヒップホップに対する注目度と熱気がどんどん高まっていた。お客さんも、渋谷に新しくできたヒップホップ系の服屋さん──その多くはアーティスト自身が始めていたりするんだけど、そういう服屋で買ったファッションを身につけて、レコードをガーッて買ってるような子たちでした。でも、そういう光景はメディアにもほとんど出てないし、まだ当時の音楽業界のおじさんたちは気が付いてない。彼らはヒップホップにハマったことがないから。

キングギドラ。「さんピンCAMP」より。

キングギドラ。「さんピンCAMP」より。 [拡大]

光嶋 LAMP EYEの「証言」も大きいですよね。

──「証言」は明確にハードコアヒップホップを体現した曲だったし、ミュージックビデオが作られたのも大きかったと思います。僕もスペシャで放送されたのを観たのが「証言」とのファーストコンタクトだった気がします。

本根 「証言」のMV制作にはECDも絡んでいるんですよ。ある日、石田さんから「LAMP EYEにすっごくいい曲ができたんですよ。でもDJ YASくんから『アナログを作る予算がない』って相談されたから、この間エイベックスからもらった印税を全部、彼に貸しました」って言われて。

荏開津 偉いよ。

本根 その流れがあったから、「さんピンCAMP」に声をかけたら、雷のメンバーがワーッと集まってくれて、みんなで「証言」をやってくれたというのもあると思うんですよね。

光嶋 なるほどねー。

本根 個人的にも、LAMP EYEはヒップホップに対する感覚が違うと思いましたよ。当時、六本木にドゥルッピードゥルワーズってクラブがあって。

荏開津 DJ KRUSHさんがDJやってた店ね。

本根 そう。そこにタダ券をもらったかなんかで遊びに行ったら、お客さんがいわゆるユーロビートじゃない、ニュージャックスウィングに乗って、ボビー・ブラウンみたいなダンスをしてるんですよね。それを見て「これまでのディスコとは流れが変わってきたな」と感じていたら、後日YASくんから「LAMP EYEのメンバーはみんなそこの出身なんですよ」と聞いて。

荏開津 それこそ、RINOさんやGAMAさんもダンサーですからね。

本根 「そういう人たちが自分でリリックを書いて、ラップをしたらこうなるんだ。それってすげえ正しいことじゃん」と思ったんですよね。石田さんもLAMP EYEに魅力を感じたからアナログ作りをサポートしたんだと思う。

BUDDHA BRANDをスターに

──「MASS対CORE」のライブシークエンスに続き、BUDDHA BRANDの帰国シーンが挿入されます。

光嶋 BUDDHA BRANDはどのように企画に絡んでいったんですか?

本根 ちょっと余談みたいになるけど、当時のエイベックスは稼ぎのメインがパラパラで、夕方まで会社の会議室はパラパラの振付場みたいになってたんですよ。エイベックスの社員がギャルを呼んできて、その子たちにパラパラの新曲と新しい振付を夕方まで教えて、そのまま街に繰り出してクラブで踊ってもらうという広告戦略があった(笑)。

光嶋 すごいな(笑)。

「さんピンCAMP」よりBUDDHA BRANDの帰国シーン。

「さんピンCAMP」よりBUDDHA BRANDの帰国シーン。 [拡大]

本根 僕とECDはそれが終わるまで待って、夜に会議室でいろいろ相談するのが日常だったんだけど、そこで彼が持ってきたデモに、BUDDHA BRANDの「Funky Methodist」があったんですよね。その音源を聴いてすげえなと思っていたら、ECDが「DEV LARGEってやつがトラックを作っているようなんですけど、NIPPSというやつは大滝秀治にそっくりなんです!」「じゃあ絶対やりましょう!」って(笑)。

光嶋 ハハハ。僕は23、24歳のとき、時期でいうと93~94年ぐらいにCISCOというレコード店で働いていたんですが、DEV LARGEはニューヨークで買い付けをしてくれていたんです。あとキミドリのクボタタケシくんも一緒に働いていました。

本根 ああ、クボタくんもCISCOの店員でしたもんね。

光嶋 そうそう、僕が誘ったんです。当時はMUROさん、ECD、荏開津さん、藤原ヒロシくん、NIGO……みんなCISCOに来てましたね。

本根 で、「人間発電所 (ORIGINAL '95 VINYL VERSION)」のアナログを1枚切った頃には、cutting edgeのディレクターや周りの友達にも「BUDDHA BRANDは人気になる」という感覚があった。そしたらある日、石田さんが「タカちゃんとの映画なんですけど、ハイライトシーンのトリをブッダにします」「cutting edge的にもブッダをスターにしたほうがいいじゃないですか」って言ってきて。それはもうECDの中で決定事項だった。

ECDとDEV LARGE。Rinky Dink Studioにて。 ©BUDDHA BRAND

ECDとDEV LARGE。Rinky Dink Studioにて。 ©BUDDHA BRAND [拡大]

荏開津 それをどうかと思う反面、ブッダの「Funky Methodist」、そして「人間発電所」という2曲を続けてクラブヒットさせたリアリティというか、説得力は今で言う「パない」感じだったとは振り返って思います。チャートではなく、クラブに行くと絶対プレイされる。しかも一晩に何回もかかったりするぐらい、東京の特にフリーソウルとかの渋谷系の流れのパーティでかかっていたし、英語 / 日本語のちゃんぽんのリリックの英語パートがただの単語挿入だけでなく、当たり前ですが、きちんと英語のセンテンスやフレーズになっているわけで、ニューヨークで活動していたという側面のリアリティも曲として感じさせたわけです。

本根 石田さんは、レーベルが自分にかけてもらってるお金を自分の作品ではペイバックすることはできないけど、ブッダをスターにすればプロジェクト全体が潤うと思ったんじゃないかな。俺はECDが大好きだから賛成したけど、当時はすごい反感を買ったと思う。

荏開津 それはある程度あるはずです。自分もどうかと思っただけでなく石田さんには「大丈夫ですか?」程度は言ったと思います。ブッダの帰国のシーンを空港まで撮りに行こうと言われたときは正直驚きました。石田さんの張り切ったアイデアなのに、CQさんとかが当日撮影がややダルいとぼやいていたのも面白くて覚えてます(笑)。彼らの扱いが大きいのは撮影の途中で出てきた。92、93年のヒップホップシーンは小規模ながら、90年デビューのスチャダラを追いかけるように少しずつクラブでのパーティが始まっていた。94年の奇跡的なラップ曲のチャートインを横目に、彼らは苦汁を舐めながら現場の規模を大きくしていってたわけです。その流れで日比谷野音で合同イベント、「WILD STYLE」の再現をやるならどういうふうになるんだろう?と、みんな期待する。

──普通に考えたら主催のECDさんがトリになりますよね。

荏開津 「WILD STYLE」にならえば、出演したラッパーたちが「Good Time」の2枚使いでセッションするような、誰かを中心に置かない形にもできたわけで。最近改めて気がついたけれど、物理的に撮影ができなかっただけで、石田さんの頭にはブッダが当時滞在していたニューヨークから日本のヒップホップのために帰国するという物語がもっと明確にあったんじゃないかなと思います。

──そこであえてトリをブッダに置くというのは、やはり特別扱いですよね。映像の中でも「俺たちがビッグバード、次の週の小鳥(※Little Bird Nation:スチャダラパーを中心としたヒップホップクルー。通称LB)とはちょっと違うリアルなメンツ」とDEV LARGEさんがフリースタイルしていますが、あれはラジオ番組「HIP HOP NIGHT FLIGHT」への出演シーンですか?

光嶋 そうですね。

ラジオ番組「HIP HOP NIGHT FLIGHT」出演時のBUDDHA BRAND。「さんピンCAMP」より。

ラジオ番組「HIP HOP NIGHT FLIGHT」出演時のBUDDHA BRAND。「さんピンCAMP」より。 [拡大]

荏開津 「HIP HOP NIGHT FLIGHT」は、中尊寺さんがヒップホップにハマって、「私がTOKYO FMのお偉いさんに掛け合ってヒップホップの番組を作る!」って、自らスポンサードするような形で始まった番組なの。

──あのDEV LARGEさんのフリースタイルと「証言」のYOUさんのヴァース、「さんピンCAMP」の翌週に同じく日比谷野音で「大LB夏まつり」が行われたことなど、さまざまな要素が重なったことで「さんピン勢とLB勢は抗争状態にある」といった、今から考えればあり得ない憶測も広がっていました。

荏開津 「大LB夏まつり」はどういうふうに決まったの? これはタカちゃんのほうが知ってると思うけど。

光嶋 たまたま近い日程で入っていただけだと思いますよ。

──SHINCOさんとタケイグッドマンさんに伺った話だと、スチャダラパー「偶然のアルバム」のレコ発イベントだったはずが、アルバムが完成しなくて急遽「大LB夏まつり」になったと。だから日程が近かったのは完全に偶然だったようです。

本根 「さんピンCAMP」もエイベックスのコンサート部門の担当者が会場抽選に応募して、偶然当たったのが7月7日だったんです。

──野音はいろんなプロモーターや制作会社が抽選に応募して、それぞれが当たった日程をイベントに分配していく方式が基本だから、ぶつけようと思っても難しいんですよね。

荏開津  だけどすごくない? それだけ偶然が重なるのも。

光嶋 「MASS対CORE」みたいな図式が盛り上がったピークに、「さんピンCAMP」と「大LB夏まつり」がぶつかったという。

──だからその巡り合わせも奇跡的だったと思います。

BUDDHA BRAND ©BUDDHA BRAND

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<中編に続く>

本根誠

1961年大田区生まれ。WAVE、ヴァージンメガストアなどCDショップ勤務を経て、1994年、エイベックスに入社。cutting edgeにてディレクターとしてECD、東京スカパラダイスオーケストラ、BUDDHA BRAND、SHAKKAZOMBIE、キミドリ、Fantastic Plastic Machineなど、さまざまなアーティストを手がける。「さんピンCAMP」では、主催者であるECDを担当ディレクターとしてサポートした。独立~東洋化成を経て現在、再びエイベックス勤務。

本根誠 Sell Our Music _ good friends, hard times Vol.9 - FNMNL

荏開津広

東京生まれ。執筆家 / DJ / 立教大学兼任講師。東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、MIX、YELLOWなどでDJを、以後主にストリートカルチャーの領域で国内外にて活動。2010年以後はキュレーションワークも手がける。「さんピンCAMP」では、スーパーバイザーとしてコンセプトや構成に携わった。

荏開津広_Egaitsu Hiroshi(@egaonehandclapp) | X
荏開津広_Egaitsu_Hiroshi(@egaitsu_hiroshi) | Instagram

光嶋崇

岡山県出身。アートディレクター / 大学講師。桑沢デザイン研究所卒業後、スペースシャワーTV、レコードショップCISCO勤務を経て、ドキュメンタリー映画「さんピンCAMP」を監督。のちにデザイン事務所設立。スチャダラパー、MURO、クボタタケシ、かせきさいだぁ、BMSG POSSEなどのデザインを手がける。

designjapon.com
光嶋 崇(@takashikoshima) | X
光嶋 崇(@takashikoshima) | Instagram

※文中のアーティスト表記は、原則的に「さんピンCAMP」開催当時に沿っています。

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HASH-ROYAL【ラーメンアカデミア】 @hashroyal

あ、熱い!
さんぴんCAMPのVHS、擦り切れるほど観たな~。

あと、8cm盤と言わず短冊CDって言い回す辺りもエモい😍

日本初の大型ヒップホップイベント「さんピンCAMP」はいかにして生まれたのか? | 「さんピンCAMP」とその時代 第1回 前編 https://t.co/6evseJ0oGJ

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