「最高の遊び場」をコンセプトに2023年に誕生した大阪にある大型ライブハウス・GORILLA HALL OSAKA。このライブハウスを舞台にした映画「ゴリラホール」が、2月20日より栃木・小山シネマロブレ、2月27日より東京・kino cinéma新宿、大阪・kino cinéma心斎橋ほかで本上映される。
「ゴリラホール」でメガホンを取ったのは、Xmas Eileenのボーカリストにして、映像作家として目覚ましい活躍を見せるKoji Uehara監督。また劇中歌をKj(Dragon Ash、The Ravens)が手がけ、映画内にENTHをはじめさまざまな音楽関係者が登場するなど、音楽好き、ロックバンド好きにとって見逃せない要素が詰まった1作だ。この特集では、NAOKI(10-FEET)、NOBUYA(ROTTENGRAFFTY)、N∀OKI(ROTTENGRAFFTY)、逹瑯(MUCC)、TSUYOSHI(The BONEZ、Pay money To my Pain、Dragon Ash)ら多くのアーティストが賞賛を寄せる本作の魅力を、音楽面、映画面の双方から解説する。
文 / ナカニシキュウ
音楽映画「ゴリラホール」で描かれるもの
映画「ゴリラホール」は音楽映画であることにまるで依存しない、堅牢な骨格を備える作品だ。たまたま主人公がバンドマンで、たまたま音楽を選んだ人生の喜びや困難が鮮烈かつ生々しく描かれ、たまたま音楽ファンをニヤリとさせる描写が満載で、たまたま圧巻のライブシーンがクライマックスを担っているに過ぎない。人が何かを選択する(しない)ことの重み、得るものと失うもののままならなさ、心の整理がつこうとつくまいと問答無用で進んでいく状況や時間──といった、“生きることそのもの”が美化も誇張も寓話化もされずにただただ丁寧に描かれていく。
例えば、優れたSF映画は例外なく“題材がSFであること”を必要としない。凡人の想像を超える壮大な世界観設定や舞台美術、斬新なVFX表現などが目玉要素として目を引いたとしても、それはあくまで表面的なものに過ぎず、最も肝心な部分はもっと奥のほうにあるからだ。仮にSF要素をすべて排除したとしても物語として成立してしまうくらいの骨格の強靭さを備えてこそ名作SFたり得るのであり、言ってしまえばSF要素は“オマケ”でなければならない。SFであることに甘えていては、永久に優れたSF作品にはならないのである。
そしてもちろん、それがオマケだからといって描写に手を抜くようでは話にならない。「神は細部に宿る」との格言もあるように、そのオマケをどれだけ愛情と情熱と誇りを持って描き切れるかが名作と凡作を分かつことはいうまでもないだろう。逆に、骨格がどんなに強固に磨きあげられていたとしても、それだけでは“ちゃんとした映画止まり”の域を超えることは難しい。骨格がちゃんとしていて、なおかつ魅力的なオマケが備わって、初めてSF映画としての勝負が始まるのである。
それとまったく同じ理屈が、本作「ゴリラホール」にも当てはまる。よってこの映画は、何かやりたいことのある(あった)すべての人にとって他人事ではない。「音楽ファンやバンド経験者にオススメ」などとケチくさいことは言わず、何かに情熱を燃やしたことのある、あるいは今燃やしている、はたまたこれから燃やす予定のあるすべての人にオススメされるべき作品である。
こだわり抜かれた「ゴリラホール」の音楽
映画の舞台は、大阪に実在するライブハウス・GORILLA HALL OSAKA。「遊べるライブハウス」をコンセプトに掲げて2023年に開業した、比較的新しい会場だ。最大キャパシティは1300人という規模感で、ステージをコの字型に囲む2階フロアの臨場感あふれる設計やチルアウトスペースが設置されたレイアウトなど、ライブのみならず空間そのものを楽しむ思想がその特徴的な構造に込められている。2025年にはゴリラ型のソファを138万円で購入するも現物が届かず、後日改めて入手に成功した一連のトラブルが話題を呼ぶなど(参照:本物のゴリラソファがゴリラホールに到着、ゴリラテーブルを連れて)、人間味あふれる運営がミュージシャンやファンに親しまれているのも大きな特徴のひとつだ。なお、店名はHEY-SMITHの猪狩秀平(Vo, G)によって命名された。
そんなGORILLA HALL OSAKAの周辺で生きる人々を鮮やかに描き出したのは、本作が初の商業作品となるKoji Uehara監督。40歳を越えてから映画監督としてのキャリアをスタートさせた彼は、「虹が落ちる前に」や「Orange girl friend」といった作品で数々の映画祭で賞を獲得するなど、国内外で高い評価を受けている。また、彼はロックバンド・Xmas Eileenのボーカリストとして2016年にメジャーデビューを果たした経歴を持ち、無数のライブ現場を当事者として見続けてきた人物でもある。そんな彼ならではの、バンドというものに対する幻想的でも冷笑的でもないフラットかつ誠実な視点が本作を支配している。さらに劇中バンド・GIRL TALKING ABOUT LOVEが演奏するほぼすべての楽曲で、Uehara監督が自ら作詞を手がけた。
唯一の例外が、劇中でキーとなる楽曲「アンダンテ」だ。本作で音楽を担当したKjが作詞作曲した、オルタナティブロック風味のストレートでパンキッシュなアッパーチューンとなっている。ストーリー上では主人公・朝子がギターの弾き語りで作る楽曲という立ち位置であることから、その生み出され方に違和感のない、フォーキーなコード進行と歌メロによるホモフォニー構造が徹底された。しかも劇中で朝子たちの行く末を大きく左右するほどの影響力を持つ1曲として描かれるため、“誰が聴いても一発で惚れる曲”の説得力も同時に持ち得なければならない。要は「名曲を作れ」と言われて作るようなものであり、その無茶なお題に満額回答を示してみせたKjの力量には感服するほかない。
その「アンダンテ」を歌う主人公・朝子を演じたのは、名古屋出身のシンガーソングライター・AIK。一般オーディションで選ばれた彼女は、この映画が俳優デビュー作となる。普段は“シンガーソングパンクロッカー”を名乗り、アコースティックではなくエレクトリックギターでパンクロックの弾き語りを行っているのだそう。作中のステージ演奏シーンにおける自然ににじみ出るような説得力は、その出自によるものと考えれば合点がいく。一般的な音楽モチーフの劇映画における作り込まれたライブシーンと異なり、ライブドキュメンタリー映像のように錯覚する観客も少なくないはずだ。“歌もギターも一応できる役者さん”では、おそらくあの画は成立しない。また彼女はライブシーン以外でも、技巧を一切感じさせない自然体のみずみずしい芝居で非凡さを見せつけている。
その朝子が率いるガールズバンド・GIRL TALKING ABOUT LOVEのメンバーも、AIKと同様に一般オーディションで選出された。元ザ・コインロッカーズのRuu、ASOBISYSTEM所属の松下恭子、大阪のスリーピースバンドから役者へ転向したモリヲが、朝子の才能に自らの運命を託すバンド仲間を熱演。そこへ、古田新太や伊藤歩、黒谷友香、山口智充といった“間違いない”面々が脇を固め、物語世界に深みと奥行きを加えているほか、冠徹弥(THE冠)ら音楽ファンにはうれしいキャスト陣も独特の存在感を発揮している。
誰もが共感しうる主人公・朝子
物語は、GORILLA HALL OSAKAでアルバイトとして働きながらバンド活動をしている朝子を中心に展開する。彼女は市内の裕福な家庭で育った“普通の女の子”として描かれており、地方から夢を追って都会へ出てきた人物ではない。家族との間に微妙な距離感はありながらも不仲というわけではなく、実家住まいゆえに生活も安定している。ブレイク間近と目されるバンドでフロントマンを務める壱夜というボーイフレンドがおり、彼との関係性が崩れることを恐れて自身のバンド活動を拡大させることに積極的になれずにいる──という立ち位置だ。
フィクション作品の主人公としては、あまりにもラベリングしづらい人物像といえる。彼女は「バンドで成功することを夢見る主人公」ではないし、「夢をあきらめさせようとする大人に抗う主人公」でもない。かといって「バンドは趣味と割り切って楽しむ主人公」でもないのである。恵まれた環境にどこか「これでいいのだろうか」という据わりの悪さを感じながらも、明確に何かを変える決断もできず、とりあえず日々を楽しく過ごしている。
現代日本において、彼女と同じような違和感を抱えている若者は少なくないのではなかろうか。実際にバンドや音楽をやっているかどうかにかかわらず、何かやりたいことを抱える多くの人が「朝子は自分だ」と感じられることだろう。「社会に存在を否定され、どん底の人生から這いあがる」ような“物語的に都合のいい葛藤”を抱える主人公では、もはや現実とはほど遠いファンタジーの存在になってしまうということだ。ラベリングしづらい人物像を丁寧に丁寧に描き出すからこそ、本作では時としてドキュメンタリー映画かと錯覚するような生々しい映像体験がもたらされる。つまり冒頭で述べたような、“生きることそのもの”の映像として結実しているのである。
バンドマンも納得の細部に宿るリアリティ
もう少し細かいところにも触れておくと、監督がミュージシャンだからこそと思われるバンド描写の細やかさは特筆に値する。得てしてバンド界隈というものは神格化あるいは矮小化されやすく、当事者からすると「そんなわけあるかよ」と思わずにはいられない非現実的な描写がなされがちな傾向がある。
一番わかりやすいのは演奏シーンで、例えばギタリストが1人しかいないのに当たり前のようにギターが2本以上鳴っていたり、ボーカリストしか歌っていないのにコーラスが重なってきたり、同期トラックを使う描写がないにもかかわらず打ち込みトラックの音が聴こえてきたりするのはよくあるケースだ。もちろんそのことが物語に直接影響するわけではないので「たいした問題ではない」と判断されるのかもしれないが、観る側に「あ、今ここで起こっていることは“嘘”なのね」と明確に認識させることにあまりメリットがあるとも思えない。むしろ没入感を削ぐ、つまり“醒める”という意味で深刻なデメリットをもたらすことだけは確かであろう。
そうしたわかりやすい部分だけではなく、ほかにもリハーサルスタジオやライブハウスといった場のちょっとした描写や、業界関係者の描き方、登場人物たちの発する些細なセリフのディテールなどにも“現場を知っているかどうか”は如実に表れる。もちろん作品の目指すものによっては逆に非現実的であることが望ましい場合もあるので、必ずしも「リアリティがある=正しい」わけではないが、このような作品においては間違いなく致命的なポイントだ。冒頭でも引用した「神は細部に宿る」という格言を借りるなら、本作には神が宿りに宿っているのである。
バンドマンが観る際に「そんなはずねーだろ」を微塵も感じさせないバンド物語というのは、案外とても珍しい。その点だけを取っても、本作はほかに類を見ない画期的な1作と言えるだろう。





