
「さんピンCAMP」とその時代 第1回 前編
日本初の大型ヒップホップイベント「さんピンCAMP」はいかにして生まれたのか?
関係者が語る「さんピンCAMP」の裏側|本根誠×荏開津広×光嶋崇 鼎談
2025年9月18日 20:00 8
今からさかのぼること29年。1996年7月7日、東京・日比谷野外大音楽堂にて日本初の大型ヒップホップイベント「さんピンCAMP」が開催された。旗振り役である
初回となる今回は、エイベックスの担当ディレクターとしてECDをサポートし、プロジェクトの実現に尽力した本根誠氏、スーパーバイザーとして出演者の人選やイベントの構成に携わった荏開津広氏、映像監督として当日の模様を記録した光嶋崇氏にお集まりいただき、「さんピンCAMP」の制作背景を当時のヒップホップシーンの状況などを交え、じっくりと振り返ってもらった。
取材:高木“JET”晋一郎+猪又孝
当初のイメージは日本版「WILD STYLE」
──まず「さんピンCAMP」というプロジェクトが始まった経緯から教えてください。
本根誠 僕が社員だったエイベックス内のレーベル・cutting edgeには、アーティストとしてECDが所属していたんですね。その彼が持ってきたアイデアの1つが、「今夜はブギー・バック」のアンサーソング「DO THE BOOGIE BACK」だったんです。それを短冊CDでリリースしたら4万枚も売れて。
光嶋崇 4万枚? すごい!
本根 でも当時の4万枚は「そうなんだ」くらいの感じ。10万枚を越えないと普通のアーティストじゃないと言われた時代だから(笑)。とはいえ、立ち上げたばかりのレーベルで4万枚も売れたわけだから、すごくうれしかった。それでECDと「続けてやっていこう」と盛り上がって、彼も「次はこれをやろう」と新しい音源やアーティストを紹介してくれるんだけど、それがシングルヒットにつながるのが難しいということに、お互い気付いた。
──当時の音楽業界はシングルが売れてからアルバムを制作する流れが一般的でしたが、ECDやYOU THE ROCK★など、cutting edgeに所属していたアーティストはアルバムという単位でのコンセプチュアルな作品でこそ、アーティスト性が見える部分が強かったですね。
本根 そう。その中で、ECDが「『WILD STYLE』(※1982年に製作されたアメリカのヒップホップ映画)みたいなヒップホップのドキュメントムービーを作る企画ってどうですか?」という別軸のアイデアを持ってきて。
──「さんピンCAMP」は映画化の構想が原点にあったんですね。
本根 「WILD STYLE」のラストにニューヨークのイーストリバーパークにある野外音楽堂でライブを行うシーンがあるんです。それで「『WILD STYLE』と東京で一番似てる場所として野音(日比谷野外大音楽堂)でイベントをやりたい。そのライブをパッケージ化して、出演アーティストのコンピも作れば、cutting edgeとして予算も通るんじゃないか」と。だから、世の中の人が知ってる「さんピンCAMP」のイメージは、そのときのECDの言葉の中に全部あった。ただ「ヒップホップのコンピレーションアルバムを出します。ライブイベントもやります」という構想を会社に提示したときに、上長に「リードシングルのないコンピレーション、スターのいないイベントってちょっと考えらんねえんだけど、本根」みたいなことを言われて。
荏開津広 ラップのヒット曲がその1年半前の「DA.YO.NE」と「今夜はブギー・バック」しかなくて、両方ともある種、当時の“アイドル”が絡んでるわけで。石田さん(ECD)の「WILD STYLE」にオマージュを捧げたいというアイデアは、1993年ぐらいから、すでにシーンの一部にあった“オールドスクール回帰”みたいなムードとはリンクしてるんですが、ビジネスとして成立するヒップホップという前例は時代的にないわけです。
光嶋 でも、1996年5月にはBUDDHA BRANDが「人間発電所」のCDシングルを出してるし、その中には彼らがSHAKAZOMBIEと組んだユニット、大神の楽曲「大怪我」も入ってる。それらがリードでいいですよね。
本根 僕ら的にはそうなんだけど、会社的にはまだ「なんなのこのグループ?」みたいな話で、会議で炎上ですよ。ただ、当時のエイベックスは売り上げも順調だったし、予算としては全然問題なかったから、「まあ、やっておけや」ってことになって一応予算は通ったのね。その段階で、映像監督としてタカちゃん(光嶋)の名前はもう出てた。
光嶋 へー、初めて聞きました。
本根 ECDが「スチャダラパーのBoseの弟で、光嶋崇くんという子が、映像制作をやってるんですよ」と教えてくれて。
光嶋 その話をもらったのは95年だったと思う。「さんピンCAMP」の制作が始まった頃、Boseくんと一緒に住んでたんだけど、隣の部屋で「サマージャム'95」を作ってたのを覚えてますね。
手探り状態でプロジェクト始動
──光嶋さんはヒップホップグループTONEPAYSのメンバーとして、ECD制作のコンピ「CHECK YOUR MIKE」に「苦悩の人」を提供するなど、ECDさんとはアーティストとしてのつながりはあったと思うんですが、映像作家としてのつながりはあったんですか?
光嶋 僕はスペースシャワーTVにタケイグッドマン(※ビジュアルディレクター。スチャダラパー、TOKYO No.1 SOUL SET、小沢健二らのミュージックビデオやCDジャケットのアートワークを手がけている)のアシスタントとして潜り込んで、そのままADとして働いてた時期があるんですよ。当時は自由に機材も使えたし、編成にいい先輩がいたから、自分が作った番組をオンエアしてもらえたりすることもあった。スチャダラパーのコント企画とかが通ってましたからね。今だったらありえないですよ(笑)。
本根 そうだよね。
光嶋 ただ、当時のスぺシャにはヒップホップの番組がほとんどなかったんです。タケイグッドマンが撮ったBeastie Boysのジャパンツアーを追いかけたライブドキュメンタリー「100000000% BEASTIE BOYS」があったぐらい。
──90年代中頃のスペシャで放送されていた藤原ヒロシ司会の「BUM TV」、脱線3司会の「渋谷派パンチ」ではラッパーのライブがありましたが、ヒップホップ番組ではなかったですね。
光嶋 そこでヒップホップ番組の企画を出して通ったのが、ECDとTOKYO No.1 SOUL SETの渡辺俊美くんがMCを務めるヒップホップのコンテスト番組。それが93年くらいに作った「CHECK YOUR MIKE CONTEST」でした。
──「CHECK YOUR MIKE」はコンテストとライブという形態で行われたイベントとして有名ですが、テレビ版があったんですか?
光嶋 そう。コンテストに届いたデモテープをECDがチェックするシーンを撮って、そこで聴いたのがキミドリだったり。そういう流れでもECDとはつながりがあって。
本根 それで「さんピンCAMP」の映像ディレクターとしてタカちゃんを指名したのかもね。
──ライブフィルムではなく、“ドキュメントフィルム”を制作したいというオーダーは、光嶋さんに対しても最初からあったんですか?
光嶋 そうですね。「ライブ映像じゃなくて映画を作りたい」って。「さんピンCAMP」の映像には六本木ヴェルファーレで行われたブッダのリリースパーティも収録されていて、ECDとSHAKKAZOMBIEがエレベーターに乗るシーンで、一緒にいたHACがカメラ目線で手を振るじゃないですか。それに「ドキュメンタリーだって言ってんじゃん!」って注意した記憶がある(笑)。
荏開津 タカちゃんだって、いきなりドキュメンタリー映画を撮れと言われたって、今までそういう作品を作っていたわけじゃないんだから当然戸惑うよね。僕もECDから「さんピンCAMP」の脚本を書いてみないかと言われました。でも、予算や撮影期間とか具体的な話はないし、どういう作品かの話も具体的に進まない。ずっとクラブにいて、DJをやってて、ヒップホップが好きで、その中で、モノを書けそうな感じだったのが僕。それだけで、当然だけど映画製作なんて経験はなかった。だから映画製作のプロは誰もいなくて、みんなヒップホップが好きで、ただただヒップホップと思ってやってただけなの。
光嶋 ヒップホップを好きなやつ自体の数も少なかったですからね。
荏開津 あの頃の東京でヒップホップに実際になんらかの形で関わっていた人は、数百人もいたかどうかというのは実感でした。ダンスしてた人は多かったと思うけど、クラブでラップ、DJをやってた人となると……。
本根 でも石田さん(ECD)は荏開津さんを尊敬していましたよ。「手詰まりなところもあるから荏開津さんに相談しました」って。ただ石田さんって無口じゃないですか。
荏開津 石田さんは僕には極端にシャイで無口でした。それで「さんピンCAMP」は苦労したんだから。2人で会っても打ち合わせにならないんだもん(笑)。ただ、それこそ、そのずっとあとに石田さんの思い出の記を読んだのですが、彼が劇団にいた頃はずーっと一緒に仲間と合宿みたいな暮らしをしてたと知って、そういうことがやりたかったのかなと思ったことはあります。僕の付き合い方が、けっこう冷たかったかなと申しわけなく思います。
本根 石田さんと荏開津さんが打ち合わせしても、「荏開津さんとこういうことを話したから」という報・連・相が僕にはまるでない。だから僕と荏開津さんが会っても、お互い石田さんとどういう関わり方をしているのかわからない期間が数カ月あったりして。
荏開津 そうそう。「今日エイベックスに行ってこれぐらいのバジェットを仕込んできたぞ」という話も僕は聞いてない(笑)。当時、石田さんちって和室だったじゃん。
光嶋 別にいいじゃないですか(笑)。
荏開津 和室なのはいいんだけど、畳に直接レコードがブワーッと並んでるの。それで打ち合わせに行くとレコードの話ばかりで、全然仕事の話にならない。
──(笑)。
荏開津 石田さんは、その頃はほかに仕事してたの?
本根 「DO THE BOOGIE BACK」が売れて少額ながら安定したギャラを出せるようになって、それで「バイトを辞める」と宣言するんだけど、それまで彼は力仕事をやってましたよ。
──「さんピン」の費用の一部も、ECDさんが舞台の設営仕事で稼いできたという話もありましたね。
本根 タカちゃんも予算の話とか聞いてなかった?
光嶋 そうですね。
本根 俺は伝えてたんだけどね(笑)。ただ、石田さんから「この日、花火大会で撮影してきます」みたいな共有はあった。エイベックスのバジェットで撮影するから、会社には撮影の状況を報告するという認識はあったんだろうね。
映像に込めた社会性
──花火は映像化された「さんピンCAMP」のオープニングのシーンですよね。あのシークエンスにはどういった意味を込めていたんですか?
光嶋 自分も含めて、ヒップホップ関係者って普通じゃないやつらの集まりなんですよ。普通じゃないからラップをやったりDJをやったりしてるけど、普通の人たちとも一緒に生活をしている。だから、B-BOYの格好をした人たちが、超普通の人たちが集まる多摩川の花火大会にいるという状況を映すことで、それを表現したかったんですよね。
荏開津 そうなんだ。あのオープニングの花火の意味を説明してもらったのは初めてです(笑)。何か日常にある祝祭を残しておきたいとは理解していましたが……弁解になるかどうか、打ち合わせにはならないから、撮影が進んでいくうちに、自分は撮影場所には行って、状況を把握していくこと、そこでアドバイスをするということに徹した感じです。
光嶋 その次の異臭騒ぎのシーンは、前年の1995年に起きた地下鉄サリン事件を想起させている。荏開津さんと僕とECDで、渋谷のクラブで撮影した帰りに、異臭騒ぎに遭遇したんですよ。
本根 あれは偶然に撮れたんですよね。
光嶋 そうです。だから「今の世間はこういう状況なんだよ」というシーンで始めたかった。その状況映像が、10年後、20年後に資料になればいいなと思ってたし、やっとその伏線回収を今できていて。
荏開津 阪神・淡路大震災もあったし、僕はその光景を見ながら、ディストピアSFみたく「ああ、(世界は)もう変わってしまった」「自分がどうなるかわからない」とは感じていました。通勤時間の東京の地下鉄に毒ガスが撒かれたことのショックは本当に大きかった。
──世紀末的な気分というか。
荏開津 そういう意識的な部分は、石田さんと気が合ったのかな。
本根 ECDは「サイレンの意味がオウムの前と後では変わってきてるからこそ、赤いサイレンを入れたくなった」と話していて。
──「周囲に対する警告灯」だったサイレンが、「社会全体に警戒を与える存在」になった、みたいなイメージだったんでしょうか。
荏開津 なるほど。「日本の政治や経済が変わる中で、日本のヒップホップが注目されるようになったなら、それをドキュメンタリーとして出そう」という意思の疎通は、僕と石田さんの中では取れてたんです。僕も「日常を撮影することでこの国の政治とか社会の雰囲気を反映させよう」と石田さんにはっきり言ったのを覚えてる。音楽業界はいい感じなんだけど、日本経済自体は91年くらいにバブルが弾けてるわけじゃない? その状況は少しでも込めたかった。それに、石田さんは僕らよりも歳上で、学生運動を見た記憶とか、当時住んでいた中野の周りに過激派のお兄さんがいたことを伝記に書いてるように、若者と政治が近くにあった状況を子供の頃に見ていた。だから、社会意識は持ってたし、それを作品に込めたいという話はしていて。
本根 ECDというアーティストは、もともと社会性を内包してたんだけど、エイベックス時代は他人の金でレコーディングしてるという意識があったから、その社会性をある意味では封印してたんだよね。だからエイベックスを抜けたあとは、サウンドデモなどの社会活動が多くなっていったんだろうし。本編の話に戻ると、ブレイクダンスとかの映像が入ってくるのもECDのアイデア?
荏開津 そうですね。ヒップホップの四大要素(MC、DJ、グラフィティ、ブレイクダンス)を入れたいというのは最初から話してた。
本根 あれは「HIPHOP最高会議」(※1990年代に代々木公園で行われていたブロックパーティ。オールドスクール色が強かった)の代表、千葉タカシさんの協力だったと思います。ECDが「野音の外でちゃんとダンサーを踊らせるから」と言っていて。
光嶋 日比谷駅の周辺でグラフィティやダンサーを撮ってくれた1人が、映像作家のベン・リスト。
本根 ベン・リストさんは誰が呼んできたの?
光嶋 ベンさんは僕だと思いますね。外国人の視点を入れたいという理由で。荏開津さんに紹介してもらったのかな?
荏開津 ベン・リストは僕と一緒にって言ったらあれだけど、LAMP EYE「証言」のビデオを作った縁があって、その流れで紹介したんだと思う。
MASS対CORE
HASH-ROYAL【ラーメンアカデミア】 @hashroyal
あ、熱い!
さんぴんCAMPのVHS、擦り切れるほど観たな~。
あと、8cm盤と言わず短冊CDって言い回す辺りもエモい😍
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