鈴木雅之の音楽履歴書。

アーティストの音楽履歴書 第50回 [バックナンバー]

鈴木雅之のルーツをたどる

音楽の神様を信じてる──ブラックミュージックだけじゃない、ラブソングの王様を作った10曲

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誰が一番うまく踊れるか / 「Super Bad」ジェームス・ブラウン(1970年)

当時のダンスフロアはチークタイムだけじゃなく、ショータイムといって誰が一番うまく踊れるかみたいな遊びがあったんだ。そこでとびきり人気だったのがジェームス・ブラウン。特にのちにPファンクの主要メンバーになるブーツィー・コリンズたちをバックバンドに「Get Up I Feel Like Being Like a Sex Machine」(1970年)とか「Soul Power」(1971年)をやり始めた頃の音はダンスフロアでものすごくもてはやされて。「Super Bad」なんて最たるもので、タイトルは直訳だと「ものすごいワル」だけど、そうじゃなく「ものすごくカッコいい」って意味のスラングなんだ。ファンクのカッコよさはこの頃のジェームス・ブラウンを通して学んだね。

デュエットの心地よさを知った / 「You Are Everything」Diana Ross & Marvin Gaye(1973年)

マーヴィン・ゲイにはボーカリストとしてたくさん影響を受けた。マーヴィン・ゲイは70年代になると「What's Going On」(1971年)とか「Let's Get It On」(1973年)といったダンスフロアでも流れるような楽曲を作り始めるんだけど、そうした中でダイアナ・ロスと「Diana & Marvin」(1973年)っていう全曲カバーのデュエットアルバムを出すの。日本でもスマッシュヒットした作品だけど、このアルバムがあったから僕は女性とデュエットすることの心地よさを知ったし、カバーの魅力にも気付くことができたんです。「You Are Everything」はThe Stylisticsの曲だけど、ダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイが歌い上げてくれることによって全然違うものとして聴けるから、ボーカリストって本当にすごいなと思わされたよ。

僕が一番盛んに音楽を聴いて自分のものにしようとしていたのが16歳から19歳。1972年から1975年だね。それでシャネルズを結成したのが19歳。その間は本当にソウルとロックざんまい。社会風刺も含めてブラックミュージックが発するメッセージがものすごく世の中に浸透していた時期だったから、そういう空気も自分の音楽に自然と取り入れていたんだろうなと改めて思うね。

兵隊たちから覚えた流行りのステップ / 「Superstar(Remember How You Got Where You Are)」The Temptations(1971年)

中学1年のとき、遠足のバスの中で持ち回りで歌うことになってね。周りのみんなはだいたい小学唱歌とか歌うんだけど、僕はThe Temptationsの「My Girl」(1964年)と、ショーケン(萩原健一)がいたザ・テンプターズの「帰らなかったケーン」(1969年)を歌った。「My Girl」は小学生のときに買ったレコードの1枚。「帰らなかったケーン」はザ・スパイダースかまやつひろしさんが書いたシングル曲で、ヒットした「神様お願い!」ほど売れなかったけど、僕は大好きでさ。クラスの担任が「お前歌うまいな」って言ってくれたのを今でも覚えてる。ここで人前で声を出す気持ちよさを知って、友達とバンドを組んで音楽をやり始めるんだよね。

「Superstar(Remember How You Got Where You Are)」はノーマン・ホイットフィールドがプロデュースしていたサイケデリックソウル期のThe Temptationsの曲で、高校生の頃よくダンスフロアで踊ってた思い出のナンバー。当時は全員が同じステップで踊るのが恒例で、最近だとドージャ・キャットが「Say So」のミュージックビデオでやってる感じだね。あの頃はクック・ニック&チャッキーっていう日本のソウルブラザーズがいて、新宿だと「ジ・アザー」「ゲット」といった踊り場、のちのディスコで活躍してて、そういうところに週末になると踊りに行くんだ。立川の米軍基地から黒人の兵隊たちが余暇で遊びに来て、流行りのステップを踊ってるのを目の当たりにできるから。それを見よう見まねで覚えて、家に帰ってレコードをかけながら、みんなでそろいのステップを踊る。それがシャネルズの原点。「Superstar」はみんなで踊ることの喜びを教えてくれた楽曲なんだ。

デビューまもない頃のレコーディングにて。

デビューまもない頃のレコーディングにて。

僕が一番行ってた踊り場は新宿だと「ゲット」。六本木だと「六本木PIT INN」っていうライブハウスができる場所にあった「アイ」。アイは土曜日は同伴じゃなきゃ入れない。そうすると誘われるのを待ってる女の子たちが入り口付近にいたんだ。彼女がいない男の子は「一緒に入ってくれる?」と誘って入って、その子とは中で別れる。そのあとチークタイムでもう1回誘うチャンスがある。「よかったら踊ってくれない?」って。断られたらまた1人になってしまう。「かぐや様は告らせたい」(鈴木雅之が主題歌を担当しているアニメ)じゃないけど、我々もそういう男女の駆け引きは体験してたね(笑)。

ファッションもブレザーでそろえたり、コンポラのスーツを作ったり。そういう大人のマナーも踊り場が全部教えてくれたよ。高校の学生服も吊るしじゃなく仕立ててた。上着はいわゆる中ランといって普通よりちょっと長い丈で、ズボンは腿の太さ33cmぐらい。横浜銀蝿系のものすごく太いドカンとか、「ビー・バップ・ハイスクール」の短ランは我々よりあとの世代。短ランなんて僕たちにはありえなかったからね。大森の近くの鵜の木って町に特注で作ってくれる親父さんがいて「ダブルは何cmで」とか全部指定して。今でもスーツと衣装は全部仕立ててるよ。好みのブランドがあっても、やっぱり自分に一番フィットするのはオーダーメイド。そうやって学生時代から音も服も上手に着こなそうとしてたね。

デビューまもない頃のレコーディングにて。

デビューまもない頃のレコーディングにて。

シャネルズがデビューする前、城南地区(港区、品川区、目黒区、大田区)のアマチュア組織に参加して、日比谷野音でロックンロールフェスティバルをやってさ。「アマチュアじゃ俺たちが一番だ」という気持ちだったんだけど、リハーサルスタジオがヤマハの特約店的なところで、ヤマハが主催する「EastWest」ってバンドコンテストに腕試しで出てみないかと誘われてね。行ってみたら、サザンオールスターズとかカシオペアがほかの地区から出てきて、エリアが広がるとこんなに強者たちがいるんだと思い知ったんだ。井の中の蛙だったって。ちなみにその年、1977年の「EastWest」で優勝したのは「たぬきブラザーズ」ってバンド。シャネルズもサザンもカシオペアも、たぬきに負けた(笑)。だけどそこで桑田佳祐くんと仲よくなったし、経験したことは全部自分の中で後押しになってる。だから音楽の神様ってけっこう信じているんだ。

なるほど、ラブソングはこうやって作るんだ / 「A Woman Needs Love(Just Like You Do)」Ray Parker Jr. & Raydio(1981年)

シャネルズがデビューするちょっと前にレイ・パーカーJr.が出てきて、のちにブラックコンテンポラリーと呼ばれる都会的で洗練されたサウンドを構築していくんだよね。まだ映画「ゴーストバスターズ」主題歌(1984年)が大ヒットする全然前の話。声質も心地いいし、この人ものすごく自分に近いニュアンスがあるなと思った。

この頃、お気に入りの曲を90分テープに入れて車の中でいつも聴いてたんだけど、レイ・パーカーJr.の「A Woman Needs Love」は、ものすごく大事な曲だった。特に女の子といるときは。「おしゃれ・ドラマティック・セクシー」を僕は「ソウル的三要素」と呼んでるんだけど、それを最初に味わせてくれた人だね。70年代からディープなソウルミュージックを聴いてきた身としては彼の作り出す音の心地よさに、これは大人のBGMだなと思った。こういう作品を作ろうっていうのが、ソロになったときの自分のテーマの1つだったね。

となると、この音はどんなふうに作ってるんだろうって気になるじゃない? 僕の3枚目のアルバム「Dear Tears」(1989年)に収録された「Love Overtime」「Our Love Is Special」をレイ・パーカーJr.と一緒に作ったのは、その思いがあったからなんだよね。「Dear Tears」は「小田和正プロデュースで鈴木雅之がAORに踏み込む」じゃなく「鈴木雅之が小田和正とAORを作るとブラックコンテンポラリーになる」という絵を描きたかったから、そこにレイ・パーカーJr.がいたらいいなと思って僕からリクエストしたんだ。

うちのエピックというレーベルのすごいところは、僕のわがままを実現させてくれたこと。ソロ1枚目、2枚目のアルバムと、シャネルズ、ラッツ&スターのアルバムを全部レイ・パーカーJr.に送って「あなたと一緒にやりたい」と伝えて。そしたら「すぐ来い」って連絡が来たから、LAにあるAmeraycan Studiosっていう彼のスタジオに2週間行くことになった。ドキドキしてたら、彼は白人のガールフレンドを膝の上に乗せててさ。で、僕がボーカルブースで歌ってるとトークバックで「もう1回行ってみようか」とか彼女の耳元でささやくように言ってる。なるほど、ラブソングはこうやって作るんだなって(笑)。

アメリカ・ロサンゼルスのレイ・パーカーJr.のスタジオにて。

アメリカ・ロサンゼルスのレイ・パーカーJr.のスタジオにて。

左からレイ・パーカーJr.、鈴木雅之、J.D.ニコラス。

左からレイ・パーカーJr.、鈴木雅之、J.D.ニコラス。

そのあとコーラスを入れるからって連れて来られたのが、ライオネル・リッチーが抜けたあとThe Commodoresに新しく入ったJ.D.ニコラス。彼はもともとレイ・パーカーJr.の秘蔵っ子で、The Commodoresの「Nightshift」(1985年)って曲でブレイクして当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった。「あ、ニコラスだ」ってすぐわかってさ。ほかにもクレジットで見たことのあるミュージシャンがたくさんいて、やっぱりこっちに来れば本人がその音でやってくれるんだなと思ったよ。

海外レコーディングは、2枚目のソロアルバム「Radio Days」(1988年)でもやった。あのアルバムは佐藤博さんが半分プロデュースして、もう半分を山下達郎さんと作ったんだけど、そのときに僕が憧れていたサウンドが、Earth, Wind & Fireのモーリス・ホワイトがAORの強者たちと作ったソロアルバム「Stand by Me」(1985年)でね。ポール・ジャクソンJr.がギター弾いてたり、アーニー・ワッツがサックス吹いたりして、ものすごくカッコいい。それで佐藤さんに「こういう音で作りたいんですけど」と言ったら「全員知り合いだよ。俺、LA行って録ってくるから」って。僕が達郎さんと日本のスタジオでレコーディングしてる間、佐藤さんはそのメンツと音を録ってきたから、「Radio Days」の佐藤さんプロデュース曲はモーリス・ホワイトのソロアルバムと同じ音をしているんだ。本場に行けば夢は叶うってことを最初に教えてくれたのは佐藤さんなんだよね。だから3枚目のアルバムも決して無謀なわがままじゃなく、やればできるって思いでやれた。楽曲的にも自分の立ち位置的にもレイ・パーカーJr.との出会いは「大人のBGMを作る」という意味での出発点だったね。

なぜ“ソウルミュージック”と言うのか / 「Never Too Much」ルーサー・ヴァンドロス(1981年)

シャネルズが80年にデビューした翌年、ルーサー・ヴァンドロスのデビューアルバム「Never Too Much」が出るんだけど、同じエピックのレーベルメイトだから早いうちにサンプル盤をもらってね。一聴して、すごいなと思った。それまで彼はデヴィッド・ボウイをはじめ、いろんな人のバックコーラスをやりながら、楽曲提供したり、Changeというユニットにボーカルで参加したり、長い下積みの時期を経て、初めてブレイクしたのが「Never Too Much」だから僕の中ではルーサーといえばこの曲のイメージがある。

とにかくルーサーはCarpentersやディオンヌ・ワーウィックの楽曲をカバーして、自分のものにする天才なんだよね。それから89年にベストアルバムを出すんだけど、その中に新曲「Here and Now」を入れることで過去の集大成じゃなく今を生きるベストにした。なるほど、こういうやり方があるんだと思って、僕は「MARTINI II」(1995年)という2枚目のベストアルバムに新曲「愛の掟」を入れて、初めてミリオンセラーを達成することができた。ルーサーに出会わなかったら僕はそこまで到達しなかったと思う。そういう意味でも「Never Too Much」(決して多すぎることはない)って気持ちを味わった気がする。

とても残念なことに彼は2003年に「Dance With My Father」という自分の父親をテーマにしたアルバムを制作中、脳梗塞で倒れて2005年に亡くなってしまうんだけど、出会った人たちや影響を受けた人たちの楽曲を自分のものにしながら歌ったり語り継いでいくことは、いろんな意味で大事だなと思った。ルーサーにしろ、マーヴィン・ゲイにしろ、ブラックミュージック系の人は特にカバーすることに喜びと命を懸けてるところがあるよね。好きだからこそ“魂”を継承して、自分なりの音として残してマーキングするんだと思う。だから“ソウルミュージック”って言うんだろうね。

取材後に鈴木雅之がサインを書いてくれた、ライター私物の「め組のひと」レコードジャケット。

取材後に鈴木雅之がサインを書いてくれた、ライター私物の「め組のひと」レコードジャケット。

鈴木雅之(スズキマサユキ)

1956年東京生まれ。1975年にシャネルズ(のちのラッツ&スター)を結成し、1980年にシングル「ランナウェイ」でデビュー。1986年にシングル「ガラス越しに消えた夏」でソロデビューを果たす。現在までに「もう涙はいらない」「恋人」「違う、そうじゃない」「渋谷で5時」など数々の名曲を発表した。2019年より放送されているテレビアニメ「かぐや様は告らせたい」シリーズのテーマソングを担当し、伊原六花、鈴木愛理、すぅ(SILENT SIREN)、高城れに(ももいろクローバーZ)とコラボを展開。2024年3月にアルバム「Snazzy」とライブ映像作品「masayuki suzuki taste of martini tour 2023 ~SOUL NAVIGATION~」をリリースし、4月より全国ツアーを行っている。

公演情報

masayuki suzuki taste of martini tour 2024 ~Step123 season2 "Snazzy"~(※終了分は割愛)

2024年5月25日(土)愛知県 愛知県芸術劇場 大ホール
2024年5月26日(日)静岡県 静岡市民文化会館 大ホール
2024年5月31日(金)宮城県 仙台サンプラザホール
2024年6月2日(日)青森県 リンクステーションホール青森(青森市文化会館)
2024年6月6日(木)熊本県 市民会館シアーズホーム夢ホール(熊本市民会館)
2024年6月8日(土)福岡県 福岡サンパレス
2024年6月9日(日)長崎県 長崎ブリックホール
2024年6月14日(金)神奈川県 カルッツかわさき
2024年6月15日(土)東京都 江戸川区総合文化センター
2024年6月20日(木)北海道 函館市民会館
2024年6月22日(土)北海道 札幌文化芸術劇場hitaru
2024年6月23日(日)北海道 札幌文化芸術劇場hitaru
2024年6月29日(土)岡山県 倉敷市民会館
2024年6月30日(日)広島県 上野学園ホール
2024年7月4日(木)大阪府 フェスティバルホール
2024年7月5日(金)大阪府 フェスティバルホール
2024年7月7日(日)群馬県 高崎芸術劇場 大劇場
2024年7月14日(日)東京都 NHKホール
2024年7月19日(金)埼玉県 大宮ソニックシティ 大ホール
2024年7月21日(日)茨城県 水戸市民会館 グロービスホール
2024年7月27日(土)長野県 ホクト文化ホール
2024年7月28日(日)富山県 オーバード・ホール
2024年8月3日(土)香川県 サンポートホール高松

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