今から25年前──洋楽アーティストが主役となることが多かった日本のロックフェス黎明期において、「FUJI ROCK FESTIVAL」でヘッドライナーの大役を担った2組の邦楽ロックバンドがいる。BLANKEY JET CITYとTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT。激しく美しく、時に豪快で、時に繊細な彼らのステージは、今も多くの音楽ファンの脳裏に焼き付いていることだろう。
ロックフェスと結び付きの強い2組ではあるが、出演したフェスの数は決して多くはない。だが、彼らが残した“事件”とも言える伝説的なライブは今も多くの音楽ファンの間で語り継がれている。この記事では、1998年に豊洲で行われた「FUJI ROCK FESTIVAL '98」、2組が出演した北海道のオールナイトロックフェス「RISING SUN ROCK FESTIVAL 1999 in EZO」、そして2組がヘッドライナーを務め、BLANKEY JET CITYにとって文字通りのラストステージとなった2000年の「FUJI ROCK FESTIVAL '00」をその身で体験した音楽ジャーナリストの柴那典に、自身の記憶を織り交ぜながら近年のフェスのあり方をつづってもらった。
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文 / 柴那典
ミッシェルが「FUJI ROCK FESTIVAL '98」で呼び起こした熱狂
「俺たちがニッポンのTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTだ」
そうチバユウスケが叫んだ瞬間の血が沸き立つような興奮は今でも覚えている。何かとんでもないことが起こっている。否応なしにその渦の中に飲み込まれるような体感があった。
1998年8月2日、東京ベイサイドスクエア。台風直撃で2日目中止という結果に終わった初年度を経て、豊洲に会場を移して開催された2年目の「FUJI ROCK FESTIVAL」。当時の筆者は一介のロック好きの大学生だった。THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのライブを観るのはそのときが初めて。確かフィールドの真ん中あたりにいたと思う。1曲目「CISCO」が始まった途端、雪崩のような人の波に押し流された。そこら中で雄叫びのような声が上がっていた。誰もが自分の衝動を抑えられないような感じだった。熱狂に突き動かされていた。上から見たら相当危険だったのだと思う。続く「G.W.D」は圧迫事故を防ぐため途中で演奏を中断。「このままじゃ再開できません」とスタッフが呼びかける。チバが「倒れてるやつは起こしてやろうぜ」と言い、「大丈夫か、絶対に死ぬなよ」と観客に告げる。
そこで経験したのは、明らかに“事件”としてのライブだった。
当時はまだフェス黎明期だ。野外でのオールスタンディングライブの文化は日本にはまだ根付いていなかった。それゆえの混乱はあったはずだ。でもそれだけではないと思う。このときのTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTはとてつもない“無敵感”を放っていた。この前日の1998年8月1日に彼らはシングル「G.W.D」を、同年11月25日にアルバム「ギヤ・ブルーズ」をリリースする。ブレイクを果たしバンドが覚醒する真っ只中のタイミングだ。その有無を言わせぬ格好よさが多くの人を撃ち抜いたのだと思う。
そして、それは日本のロックの歴史における革命的な瞬間だった。
今から考えると隔世の感があるが、1990年代当時のロックリスナーの間には洋楽至上主義的な価値観が根強くあった。フジロックに集うオーディエンスにもそういうタイプは少なくなかった。少なくとも1997年はそうだった。豪雨のせいでもあったが、この年のフジロックに出演したTHE YELLOW MONKEYはフィールドを巻き込むような熱狂をもたらすことはできなかった。のちに吉井和哉はこのときのことを“挫折”として語っている。洋楽ファンと邦楽ファンの間には分断があった。観客として参加した筆者の実体験としてもそういう記憶がある。
けれどその翌年に観た光景は違うものだった。THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのライブは特別な体験だったし、そのときに初めて観たBLANKEY JET CITYのステージも鮮烈だった。浅井健一の存在感だけでなく、中村達也の野性的なドラミングと照井利幸のシャープなベースプレイにも魅せられた。
その年のフジロックの会場は埋め立て地で、3万人がジャンプするとリアルに地面が揺れていたのも覚えている。洋楽と邦楽の間の壁なんて関係ない、ひたすらに格好いいロックバンドはそれをぶち壊すんだ、ということを体で感じるような経験だった。
1999年8月21日、北海道・石狩湾新港樽川ふ頭横野外特設ステージ。日本初の本格的オールナイト野外ロックフェスティバルとして「RISING SUN ROCK FESTIVAL 1999 in EZO」が開催されたとき、筆者は音楽雑誌「ROCKIN'ON JAPAN」の新米編集者だった。
これも今となっては隔世の感だが、このときはまだ「日本のアーティストだけで野外ロックフェスを実現させる」ということ自体が挑戦的な試みだった。フェス文化はまだ日本には根付いていなかった。それでも石狩の何もない大地に2万6000人が集まった。その背景には初年度の惨状を乗り越えたフジロックの成功がもたらした影響も大きかったはずだ。
そして日本のロックシーンは目覚ましい成長期にあった。この年のライジングの出演陣は、電気グルーヴ、NUMBER GIRL、Dragon Ash、UA、椎名林檎、ザ・ハイロウズ、ギターウルフ、SUPERCAR、サニーデイ・サービスなど。当時のシーンを代表するアーティストが並ぶラインナップだ。その中核を担ったのがTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTとBLANKEY JET CITYだった。
このときのTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTのライブは中断続きで事件性に満ちたものだった前年のフジロックとは対照的に、貫禄すら感じさせるものだった。演奏もキレキレだった。チバユウスケ、アベフトシ、ウエノコウジ、クハラカズユキという4人がひとつの塊のようになったようなバンドサウンドにとてつもない説得力があった。
BLANKEY JET CITYが登場したのは真夜中。上半身裸でステージに登場した浅井の第一声は「俺のサングラス、返してくれよ」。確か前夜祭でサングラスを客席に投げたのだ。彼らのライブも非日常的な興奮に満ちたものだった。「ロメオ」「ガソリンの揺れかた」「D.I.J.のピストル」……畳みかけるように演奏される楽曲には唯一無二のロマンティシズムが宿っていた。
ブランキーとミッシェルが残した語り継がれるべき伝説
1991年にデビューしたBLANKEY JET CITYも、この頃、キャリアの絶頂期を迎えようとしていた。1998年にリリースしたアルバム「ロメオの心臓」は当時の自己最高のセールスを記録。ロックンロールの美学を貫いてきたバンドの価値観にようやく世間の状況が追いついてきたような感もあった。だからこそ、その後の動きには余計に驚いた。3人それぞれがソロ活動を展開した1999年を経て、2000年5月10日、10枚目のアルバム「HARLEM JETS」のリリース日に新聞広告で解散を発表。衝撃的なニュースだった。
そして7月8、9日にブランキーは横浜アリーナで最後のワンマンライブ「LAST DANCE」を開催する。チケットは即完。そこで自分が観たのは、いわばバンドの到達点のようなステージだった。決して派手な演出や映像があったりするわけではない。3人がぶつかり合う肉体性と、研ぎ澄まされた切迫感と詩情、それだけですさまじい高みに上り詰めていくようなライブだった。
2000年7月28、29日、苗場スキー場。BLANKEY JET CITYとTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTは日本人アーティストとして初めてフジロックのヘッドライナーを務めた。その頃、筆者は若手編集部員として現地取材に駆けずり回っていた。
あのときはただただ興奮していただけだったけれど、すごい時代だったなと振り返って思う。この年のフジロックは今考えると信じられないほど豪華なラインナップだった。Foo FightersやThe Chemical Brothersなどヘッドライナーを担える格の大物アーティストもトリ以外のスロットで出演していた。
まだコーチェラ(「Coachella Valley Music and Arts Festival」)も始まってなかった時代だ。フジロックの「世界一クリーンなフェス」というブランドは海外アーティストにも認知を広げていた。苗場のプレスエリアで取材したThe Chemical Brothersのトム・ローランズとエド・シモンズに「今後の展望は?」と訊いたら「メニー・モア・フジロック・フェスティバル!」と笑顔で応えてくれた記憶もある。そうした背景があってこそ、BLANKEY JET CITYとTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTがトリを務めることの意味は大きかった。
BLANKEY JET CITYのステージは始まる前から異様な雰囲気だった。これが正真正銘のラストステージだ。「LAST DANCE」の評判も広まっていた。これが伝説になる。そういう確信を全員が共有していた。3人が登場した瞬間からどよめきのような歓声が広がる。そこから彼らが見せたのは息をつく暇もないほどすさまじいステージだった。余計な感傷もなく、ひたすら演奏を続け、全力で上り詰めていくようなパフォーマンス。アンコールで登場した浅井が「たぶん、音楽は、世界中ですごい、大切なものだと思う」と告げる。その場面も含めて、とてもドラマチックな時間だった。
THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのステージも語り継がれるべきものだった。考えてみたら98年の“事件”からたった2年しか経っていない。それでも苗場で彼らが見せたのは“君臨”という言葉が最もしっくりくるような圧巻のステージだった。1曲目の「CISCO」から「ゲット・アップ・ルーシー」「アウト・ブルーズ」とエネルギッシュなロックンロールナンバーをひたすら連ねていく。本編ラストに披露した「リボルバー・ジャンキーズ」など彼らの楽曲には痛快さと切なさが背中合わせになったような魅力があって、だからこそ、身体が熱くなると同時に胸を震わされるような感触がある。極限まで研ぎ澄まされた演奏を叩きつけて去っていったアンコールの「世界の終わり」もとても印象的だった。
そして25年が経った。
THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのライブは、もう二度と生で観ることができないものになった。BLANKEY JET CITYの3人は2000年の解散以降もそれぞれの道で活躍している。しかし現時点では再結成の予定は伝えられていない。そして2025年現在、彼ら以降にフジロックのヘッドライナーを日本人アーティストが務めた例は一度もない(コロナ禍で海外アーティストを招聘できなかった2021年は除く)。98年から00年。フェス黎明期の日本のロックシーンで2つのバンドが打ち立てた“伝説”は、いまだ塗り替えられていない。
でもフェスカルチャーはしっかりと日本に根付いた。フジロックもライジングサンも長い歴史を積み重ねてきた。
今年のフジロックは2025年7月25、26、27日の3日間にわたって開催される。ヘッドライナーはFred again..、Vulfpeck、Vampire Weekendの3組。その直前のアクトとしてVaundy、山下達郎、RADWIMPSが出演する。ライジングサンは2025年8月15、16日に開催される。今年は25回目だ。初年度にも出演した椎名林檎が17年ぶりに出演を果たすほか、ASIAN KUNG-FU GENERATION、ELLEGARDENなども出演する。活動再開したSuchmos、ひさびさのフェス出演となる佐野元春 & THE COYOTE BANDなど、両フェスに出演するアーティストも注目だ。
夏フェスを巡る状況は、今、再び大きな変革期を迎えつつある。グローバルな音楽シーンの様相も、円安を含めた経済状況も、フェスのあり方に大きな影響を与えている。それでもフジロックやライジングサンが“特別な場所”であり続けていることは今も変わらない。
カルチャーはいつだって現在進行形の今が一番面白い。筆者はそうずっと思い続けている。だからこそ“伝説”は語り継がれるべきだとも思う。そして、これから先も新しい世代がまっさらに出会うことができる“興奮”として、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTとBLANKEY JET CITYのロックンロールに触れる人が増えることを願う。
イベント情報
BJC×TMGE POP-UP STORE
- 2025年7月25日(金)~8月6日(水)
東京都 UNIVERSAL MUSIC STORE HARAJUKU
OPEN 11:00 / CLOSE 20:00 - 2025年8月15日(金)~27日(水)
広島県 広島PARCO 新館9F イベントスペース
OPEN 10:00 / CLOSE 20:30 - 2025年9月5日(金)~15日(月・祝)
愛知県 名古屋PARCO 西館6F PARCO GALLERY
OPEN 10:00 / CLOSE 20:00 - 2025年10月10日(金)~20日(月)
大阪府 心斎橋PARCO 9F イベントスペース
OPEN 10:00 / CLOSE 20:00
プロフィール
BLANKEY JET CITY(ブランキージェットシティ)
浅井健一(Vo, G)、照井利幸(B)、中村達也(Dr)によって1990年2月に都内で結成。同年8月にTBS「三宅裕司のいかすバンド天国」(通称イカ天)に出演し、「第6代目グランドイカ天キング」に選ばれる。1991年に1stアルバム「Red Guitar And The Truth」をリリース。以降もコンスタントにリリースとライブを重ね、多くのリスナーを獲得する。ロックフェス黎明期の90年代後半には「FUJI ROCK FESTIVAL」「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」に出演。人気絶頂の中、2000年7月に出演した「FUJI ROCK FESTIVAL」をもって解散する。2024年7月に音源のサブスク配信が解禁され話題に。解散後も多くのアーティストに影響を与え続けている。
THEE MICHELLE GUN ELEPHANT(ミッシェルガンエレファント)
チバユウスケ(Vo, G)、アベフトシ(G)、ウエノコウジ(B)、クハラカズユキ(Dr)からなるロックバンド。1988年にチバを中心に結成される。インディーズシーンでの活動を経て、1996年2月にシングル「世界の終わり」でメジャーデビュー。全員がスーツを着用し、パンクロック、ガレージパンク、パブロックなどから影響を受けたソリッドで豪快なロックサウンドで着実にリスナー層を獲得する。2000年7月に出演した「FUJI ROCK FESTIVAL」でヘッドライナーを務め話題に。2003年10月に幕張メッセで行われたライブをもって解散。2026年にデビュー30周年を迎える。