RYO-Z、ILMARI、PES、SU、FUMIYAの5人体制による期間限定での活動再開を発表したRIP SLYMEが、7月16日にベストアルバム「GREATEST FIVE」をリリースした。
全48曲3枚組となった本作には、代表曲やヒット曲はもちろん、5人体制で作り直された楽曲や少し通なリミックスなども収録。再集結の祝砲を打ち鳴らした1発目のシングル「どON」や先行配信曲「Wacha Wacha」、さらに「結果論」「Chill Town」という2つの新曲も収められ、2001年のメジャーデビューから最新のRIP SLYMEまでをたどることができる1枚になっている。
アルバムリリースを記念して、今回音楽ナタリーでは、日本のヒップホップ史に風穴を開けたRIP SLYMEのヒストリーを解剖。25年間を5つのトピックに分けて振り返ってもらったところ、これまであまり語られてこなかった新事実も明らかになった。また特集の最後には、「笑える曲」「盛り上がる曲」「ベストに入れたかった曲」などのテーマでメンバーに選んでもらった楽曲とコメントも掲載している。
取材・文 / 猪又孝撮影 / 岩澤高雄
2001年にメジャーデビュー
──今日は5つのトピックで25年間を振り返っていただきます。1つ目のトピックは2001年3月22日の「メジャーデビュー」です。当時はどんな気持ちでしたか?
ILMARI その前にプレメジャーデビュー曲として「マタ逢ウ日マデ」をリリースしていたから、これからワーナーで出していくんだっていう気持ちにはもうなっていたんですよね。
RYO-Z そう。半分、気持ちは乗っかっていたから。
──そもそも「STEPPER'S DELIGHT」がデビュー曲になった経緯は?
RYO-Z もともとプレメジャーデビューっていう話はなかったんですよ。メジャーデビューすることを発表する前に、「STEPPER'S DELIGHT」が自動車のCM曲(「SUZUKI Freestyle FIS World Cup ジムニー&ケイ」イメージソング)に決まったから、てっきりそれで行くもんだと思っていて。ところが、スタッフの間で、いきなりこの5人でメジャーデビューは大丈夫か?っていう不安があったんでしょうね。「STEPPER'S DELIGHT」の前にワーナーのインディーズレーベルから出しますということになり。違う曲を作ります、そこには外部プロデューサーを招きます、ということで田中(知之 / Fantastic Plastic Machine)さんにお願いすることになった。それが「マタ逢ウ日マデ」なんです。だから僕らとしては「え?」っていう感じだった。
──でも、「STEPPER'S DELIGHT」でのデビューは決まっていたと。
RYO-Z そう。その頃の僕らは3月にメジャーデビューすることは知ってるから、デビュー日にどうこうっていう思い入れよりも、「マタ逢ウ日マデ」を引っさげて2000年12月25日にやった初ワンマンのほうが「いよいよだな」という感じだったんです。
──メジャーデビューのときのオレンジ色のツナギはどのような経緯で決まったんですか?
RYO-Z その初ワンマンに向けてリハーサルスタジオに入ったときに、いろんなライブのビデオを観ていて。その中に「チベタン・フリーダム・コンサート」(チベット独立を支援するために1996年にアメリカ・ニューヨークで開催されたロックコンサート)があったんです。
FUMIYA 俺がVHSを借りて持って行ったんだよ。そこでBeastie Boysのステージにゲストで出てきたQティップが黒のツナギを着てたんです。
RYO-Z それがカッコよくね?ってなって。それで初ワンマンのときは紺色のツナギを着てるんです。
ILMARI スタイリストの宇佐美(陽平)さんにツナギを着たいと相談したら、長袖の紺色のDickiesを用意してくれて。その流れで「STEPPER'S DELIGHT」のときは半袖のツナギを着たんです。
RYO-Z ライブをやるには暑いしっていう。そのときにオレンジ色になった。あと、初ワンマンの日に最初のアーティスト写真を撮ったんです。ライブの前に渋谷の植村写真館に行って、私服と紺色のツナギで家族写真みたいな集合写真を撮りました。
──「STEPPER'S DELIGHT」のジャケットに天才バカボン風のキャラクター画像を使うアイデアは誰から?
PES groovisionsです。groovisionsの伊藤(弘)さんにはデビュー前から、よくミュージックビデオ撮影の現場とかに連れて行ってもらっていて。そこで「どう思う?」みたいな投げかけはあったと思いますけど、基本的には伊藤さんが全部進めてくれました。
──今振り返ると、バカボン風キャラクターの起用は大きいですよね。25年経った現在も使ってるわけですし。
RYO-Z RIP SLYMEはあのキャラクターのイメージが強いですからね。あれがイメージを決定付けることになったから。ただ、ファニーだからどうなんだろう?と、当初は正直思ってました。かわいいし、おしゃれだなと思ったけど。
──ヒップホップの一般的なイメージとはかけ離れてますしね。
FUMIYA でも、曲が「STEPPER'S DELIGHT」ですしね。曲自体ヘンテコだから、そのファニーさとうまくマッチしたのかな。
──ジャケットの色が黄緑色というのもRIP SLYMEのポップさやカラフルさを代弁していたと思います。
PES それも伊藤さんのアイデアだし、1stアルバムの「FIVE」(2001年7月発売)まではバカボン風のジャケットなんですよね。当初からそういうつもりだったんだろうし、ちゃんとコンセプトがあっていいなと思ってました。
RYO-Z こんなにちゃんとアルバムまで動線が引かれていくんだっていう。トータルデザインとして考えられてる!と思ったな。
PES それまでのRIP SLYMEは、みんなの合意がないとコンセプチュアルなことがなかなかできなくて。でも外部にディレクターがドンと構えていると、みんな「そっか」ということになってOKを出しやすくなる。そういう意味ではシーズンごとにコンセプトを作ってやれてるのを見て、「このやり方だったらいいんだな」と思ってました。
──初ワンマンのあとは、2001年2月にclubasiaで2回目のワンマン、7月に渋谷CLUB QUATTROで2DAYS公演を行いました。
RYO-Z クアトロ2DAYSは覚えてる。初日はSUくんプロデュースでやったんですよ。クアトロのビルの中でその日のライブに出る衣装をSUくんが見繕ってきて。で、確かABBAの「Dancing Queen」で登場したんだよな。踊りながら出て行って「なんだこれ?」と思いながらライブを始めたんですよ(笑)。
SU そうだっけ? 全然覚えてない(笑)。でも、電光掲示板を使ったのは覚えてますね。あれがデカすぎたんですよね(笑)。
──道路案内で見るような縦型の電光掲示板をステージの両脇に置いて歌詞などを表示していました。
RYO-Z 2日間あるから、1日目は電光掲示板に「FUMIYAにしか質問しないでください」って出したんですよ。そうするとMC中に「質問ある人!」って声をかけると、みんな絶対にFUMIYAに質問するんです。FUMIYAも「おかしいな?」と思いながら答えていて。あとで、その仕掛けだったことをバラしたらFUMIYAがめっちゃキレて(笑)。
FUMIYA あはは。
RYO-Z そのあと翌日までずっと俺を無視(笑)。俺じゃなくてスタッフのアイデアだったのに!
PES 面白かったけどね(笑)。
──初ワンマンのときは、全員マスクをかぶって登場してPESさんだけ中の人が違うというイタズラをしてましたね。そういうちょっとした仕掛けや企画を盛り込むのがRIP SLYMEのライブ手法でした。
PES 手作り感ですよね。大きいLEDスクリーンがなかったから電光掲示板を使ったわけで。今、LEDがあってもそれをやろうとはしないわけだから。
──そういう遊び要素を入れるライブ作りに対してどう考えていたんですか?
RYO-Z 必要というよりスタッフに期待されてる感じだった気がします。とにかく俺とSUくんで1コーナー、冗談みたいなことをやれっていう。当時深夜によく放送されていた武富士のCM曲を流して踊るとか(笑)。ライブとは全然関係ない遊びを入れるようにしてました。「どうする今回の遊び?」みたいなことをすげえ真剣にSUくんと考えてた。
PES 僕とFUMIYAはそういう余裕がなかったと思うんで。当時は「この曲で世の中に出ていっていいんだろうか? こんな四角いサンプラーだけで作ったもので大丈夫なのか?」っていう感じだったから。
──音楽制作のほうに情熱を注いでいたわけですからね。
FUMIYA そう。「ふざけんじゃねぇ!」みたいな(笑)。当時はまだ若くてキャパが全然なかったから。
ILMARI でも、そういう方向でライブをやってる人たちは当時あまりいなかったんですよね。その流れに合わせるべきなのかどうかわからないけど、合わせたほうが楽しいんだろうなっていうふうにだんだんなっていった気がします。
RYO-Z 俺たちが5人で遊んでる楽しさを伝えたいがために、いろんな大人たちが「どうだこれ? どうだこれ?」ってアイデアを放り込んでくるようになってきて。「なるほど、なるほど」と納得していったんですよね。
PES スピードが速かったからね。ものすごかったから。
ILMARI 正直ついていけてなかったから。
PES 音楽に集中してたから、なんで2階からポールを降りていかなきゃならないんだろうとか(笑)。
RYO-Z それ、「AFTER FIVE TOUR」(2001年開催)だね。
PES 歌ってるのに、なんで真ん中でせり上がって高いところまでいかなきゃいかないんだろうとか。で、パッと横見たらSUさん泣いてるし。もう意味がわからなかった(笑)。
──それはRIP SLYME初の日本武道館ワンマン(2002年7月開催)ですね。
FUMIYA 武道館で剣道もやりましたし(笑)。
──そっちは翌日に無料で実施した日本武道館ライブ。武道館だからということで剣道着姿で登場して剣道をやって1曲披露したあと、残りは全部アンコールという企画でした。
PES 楽曲にちゃんと狙いがあって、ちゃんと響いてるなら別なんですけど、「これでいいのかな?」っていう感じでリリースしてヒットするから、音楽で芯食ってるという実感が僕もFUMIYAもなかったんです。だから、演出どころじゃないというか。面白いことをしようみたいな余裕はしばらくなかったよね?
FUMIYA うん。
PES 何がどうなっちゃってるんだろう?みたいな。自分たちから「次はこれで」というよりも、ありがたいことにタイアップが続々決まって、とにかく追われるように曲を出してて、ゆっくり音楽を作る時間があまりなかった。
──それがジレンマだったんですか?
PES ジレンマというか、もうしょうがないのかなって。そういう流れができちゃってたから。そこから抜け出す方法を知らなかったから必死にそれをやるしかなかったんですよね。