アーティストの音楽履歴書 第39回 [バックナンバー]
三船雅也(ROTH BART BARON)のルーツをたどる
「誰もやったことがないことをやりたい」既存のフォーマットにこだわらず、道なき道を切り開く
2022年7月29日 17:00 11
アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回は
取材・
原体験は「ゴジラ」のテーマや建物が壊れる爆音、塾で学んだ外の世界
自分ではあまり覚えていないんですけど、子供の頃はかなりアクティブだったみたいです。幼稚園で「おはよう!」って友達にハイタッチしたら、それが暴力みたいに思われて「やめなさい」と先生に言われたりして。こっちはポジティブな気持ちでやっているんですけど(笑)、しょんぼりした記憶があります。
子供の頃は「ゴジラ」とか「ウルトラマン」のシリーズを好きでよく観ていましたね。母親がそういう特撮ものが好きで、ビデオに録画してくれていたんですよ。怪獣が建物を壊しているのを見てドキドキしていました。あのすごい世界を人間が作っている、というのを知ったときは衝撃だったし、そんな素敵な仕事があるんだと思いました。金管楽器がバリバリに乗った「ゴジラ」のテーマとか、建物が壊れる爆音とかは音楽の原体験だったかもしれない。夢と現実の境界が曖昧な幼少期に、そういうスケールの大きな世界に引き込まれたことにはすごく影響を受けていると思います。それでスケールの大きなことを考えたり、夢見たりするようになったのかもしれない。
母親は音楽も好きで、はっぴいえんど、荒井由実さん、
「自分が歌うと誰かが喜んでくれる」ことを知った中学時代、好きな音楽を自覚した高校時代
中学の頃は1年中テニスをやっていました。当時はプロになりたいと思って必死でした。部活でペアを組んでいたのが、あとでバンドを組むことになる中原(鉄也)。当時は音楽の話をすることもなく、ひたすらテニスに打ち込んでいましたね。初めてCDを買ったのは中学の頃。友達と誰が何を買うか相談して買って、みんなで貸し借りしていたから、
高校に入るとテニスのプロになることに挫折したり、いろいろあって学校に行かなくなるんです。それでレンタルビデオ屋でDVDやCDを借りまくっていました。「今日は(フランソワ・)トリュフォーを見直そう」とか「The Strokesのほかの作品を借りてみよう」とか、大量の情報をインプットしていたんです。テニスをやめたので、夢中になれる何かを探していたんですよね。あとは初めて自分のギターを買って宅録をするようになりました。その頃、また小学生時代に行っていた塾に通い始めたんです。例の先生に勉強を教わりながら、MIDIの打ち込み方とかコンピュータを使ったレコーディングの仕方を教わって。それで音楽作りがどんどん面白くなっていった。いろんな実験をしながら、ゴミみたいな曲をいっぱい録り溜めていました。やっぱり塾の先生の存在は大きかったですね。
その一方で、音楽史をおさらいするように、いろんなミュージシャンの作品を次々と聴いていました。そうして自分は土臭いフォークミュージックが好きだということに気付いたんです。中でもニール・ヤングとかライ・クーダーは、レイドバックした感じとモダンさのバランスが絶妙で、曲を聴いた瞬間に「これが自分が聴きたかった音楽だ」と思いました。ボブ・ディランだと洗練されすぎている。The Beatlesも好きだけど自分がやりたいものとは違う。高校のときに自分がやりたい音楽がわかったんです。ニール・ヤングやライ・クーダーは、今も現役で作品を作り続けているところも尊敬してます。自分が今の彼らと同じ歳になったとき、彼らと同じようにクリエイティブな作品を作っていたいと思います。
実は高校生くらいまで文字の読み書きが苦手で、本を読むのに人の倍くらいの時間がかかっていたんですよ。だから授業に追いつくのも大変だった。でも16歳の頃に、学校で習った宮沢賢治とか夏目漱石、ヘルマン・ヘッセみたいな有名な作家の小説に、もう一度向き合ってみようと思ったんです。そしたら、スッと入っていけた。「この人のこういう言葉の使い方はきれいだな」という発見があったりして、「本ってこんなに面白かったんだ!」と思いました。
歌詞を読むのも好きでした。海外のアーティストも、日本盤には歌詞の対訳がついているじゃないですか。それを読んで理解しようとしていましたね。ニール・ヤングの歌詞は童話的だけど、そこにメッセージが隠されていたりする。The Beatlesの歌詞より、ジョン・レノンの歌詞のほうが、正直に自分の気持ちを伝えていて好きでした。ディランは引用が多くて、いろんな知識がないと理解できないから高校生には大変でしたね。それでまた、いろんな本を読んだりして。とにかく、高校の頃は、音楽、映画、文学にもう一度触れ直していた時期でした。そういうことをしている最中に、中原に再会したんです。
理想と現実のギャップに苦しんだ初レコーディング、その先に見つけた生きがい
中原は高校でバンドをやっていて、再会したときに初めて彼と音楽の話をしました。僕も音楽に夢中になっていた時期だったので、音楽の話で盛り上がって、また一緒に遊ぼうということになった。それで中原の家にほかの友達と集まって音楽をやり始めたんです。最初は5、6人いたのかな。中原が好きなTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの曲をやったり、The StrokesとかThe Beatlesをコピーしたり、メンバーそれぞれがやりたい曲を持ち寄って演奏していました。バンドというより遊びですね。でも、それがすごく楽しかったんですよ。これまで自分が作っていた曲も、そのメンバーとやったりしました。自分が作った曲を仲間と演奏するというのも楽しくて、「こういうことを、もっとちゃんとやったらどうなるんだろう」と思い始めて。昔やっていたテニスのように、音楽が自分にとって大切なものになるかもしれない、と気付いた。そして、遊びでやっていたことが、だんだんバンドという形になっていったんです。
その後も中原の家でバンドをやっているうちに、1人、2人とメンバーが抜けていき、2010年に初めてのEP「ROTH BART BARON」を作ったときのメンバーは3人でした。そのとき、初めてスタジオでレコーディングしたんです。「こんな音楽をやりたい」というビジョンと、現実問題とのギャップに苦しみながらのレコーディングでしたが、何かを生み出せた喜びはありました。気合いもものすごく入っていてその後、ギターがやめてROTH BART BARONは僕と中原の2人になるんですが、音楽を続けていきたい、という決意は固まっていました。生き甲斐を見つけたという手応えを感じていたんです。EPを聴いてくれた人がライブに出るように誘ってくれたりして、このチャンスを形にしたいと思っていました。そして、2nd EP「化け物山と合唱団」の制作中に東日本大震災が起こった。原発の屋根が吹き飛ぶニュース映像を見ながら、「明日死ぬかもわからないのに自分はギターを弾いてるんだな」と思っていたことを覚えています。このEPでROTH BART BARONとして本格的に始動するんですけど、世界がヤバいときにバンドがスタートして、それを乗り越えてきたので、新型コロナウイルスのパンデミックが起きていても気持ちが揺らいだりはしていないです。
ブライアン・マクティアとレーベルの「面白い」のひと言で海外レコーディング
「化け物山と合唱団」はそれなりの評価をいただきました。それで活発にライブやツアーをするようになったんですけど、そこで「自分が本当にやりたいことってなんだろう」と考えたんです。ほかのバンドを見ていると、ほとんどが日本の音楽ばかり聴いていて、「いつか武道館で会いましょう」とか言ってるんですよ。洋楽を聴いていても、OasisとかRadioheadで止まっていて、今アメリカやイギリスでどんなことが起こっているのか、リアルタイムの音楽に1mmも興味がない。周りが若くして老人みたいな人たちで、全然話が合わなかった。そこで、じゃあ、自分は何をやりたいのかと考えたとき、「世界で通用する音楽をやりたい」と思ったんです。外国人が喜ぶ日本っぽい音楽ではなく、普通に海外で聴かれるようなものを作って生きていきたいって。
それで自分が当時、好きだった海外のアーティスト、カート・ヴァイルやシャロン・ヴァン・エッテンの作品を手がけている人と一緒にやろうと思ってブライアン・マクティアとか、気になっていた人に直接メールを送ったんです。ネットの翻訳アプリを使って、「1曲でもいいから一緒にやってくれませんか?」って。そしたら翌日、「面白いからやりましょう」って即レスが返ってきた。でも、問題はお金です。その頃、いろんなレーベルから声をかけてもらっていたんですけど、海外でレコーディングをする話をしたら、ほとんどのレーベルから「それは売れてからでいいんじゃないの」って言われたんです。「そんなこと言って売れなかったらすぐ切るくせに。あんたらに俺の人生を左右されたくない」とムカついてたら、幸運にも1社だけ「面白いじゃん」と言ってくれた。それが今のレーベルで、2014年に1stアルバム「ロットバルトバロンの氷河期(ROTH BART BARON'S "The Ice Age")」をアメリカでレコーディングすることができたんです。あのアルバムを作れたのは自信につながりましたね。
既存のフォーマットは一度疑い、新しいアイデアや出会いに心を開いていく
それ以来ずっと、自分のやりたいことをやれるように工夫しながら活動してきました。PALACEというファンと交流できるコミュニティを作って、自分たちでグッズを作ったり、イベントを企画したりするようにしたのもその1つです(参照:令和のアーティストとファンベース 第4回 ROTH BART BARONは、いかにしてファンとの信頼関係を築き上げてきたのか)。ロットが革新的な活動を続けていくには、自分たちで組織を作った方がスムーズだということを、デビューしてからの活動を通じて学びました。既存のやり方しかできない人たちにとって、僕のアイデアは突拍子がないものみたいで。そこで毎回ぶつかるのは不毛なので、最低限のことだけ手伝ってもらって、あとは自分たちでやろうと思ったんです。
既存のフォーマットは一度疑って、自分が楽しく使えそうなところは使うけど、そうでないところは改善して自分にとって居心地よくする。そのためのアイデアをいろいろ試すのは子供のころから好きだったんです。何か思いついたらやりたくてしょうがなくて、四六時中そのことを考えちゃう。みんな大人になったら社会性を持ち始めて、やりたいことを我慢するようになるじゃないですか。僕もそうしようとがんばった時期もあったんですけど、だめでしたね。誰もやったことがないことをやりたい。それを実現するために、新しいアイデアや新しい出会いに心を閉ざさないようにしていたいと思っています。バンドとしてやりたいことはいっぱいあるし、 PALACEのスタッフもがんばってくれている。最近、日本のシティポップが海外で注目を集めているって騒がれてますけど、今の日本のバンドは全然注目されていないじゃないですか。そういう厳しい現状を、自分たちなりのやり方でこじ開けていきたいと思ってます。
ROTH BART BARON(ロットバルトバロン)
シンガーソングライターの三船雅也を中心として東京を拠点に活動するロックバンド。これまでに4枚のEP、6枚のオリジナルアルバムをリリースしている。2014年発表の1stアルバム「ロットバルトバロンの氷河期」はアメリカ・フィラデルフィア、2015年発表の2ndアルバム「ATOM」はカナダ・モントリオールにて制作。海外の大型フェスに出演するなど国内にとどまらず精力的に活動している。4th アルバム「けものたちの名前」がASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文が設立した音楽アワード「Apple Vinegar Music Award」の大賞を受賞。2021年はアイナ・ジ・エンドとの2人組ユニット・A_oとして発表したポカリスエットのCMのタイアップソング「BLUE SOULS」が話題になった。2022年8月にはライブイベント「BEAR NIGHT 3」を東京・日比谷公園大音楽堂(日比谷野音)にて開催する。
ROTH BART BARON "BEAR NIGHT 3"
2022年8月7日(日)東京都 日比谷公園大音楽堂(日比谷野音)
<出演>
ROTH BART BARON
三船雅也(Vo, G) / 西池達也(Key) / 岡田拓郎(G) / 西田修大(G) / マーティ・ホロベック(B) / 工藤明(Dr) / ermhoi(Vo, Syn) / 竹内悠馬(Tp) / 須賀裕之(Trombone) / 大田垣正信(Trombone)
ゲスト:中村佳穂(Vo)、角舘健悟(Vo, G / Yogee New Waves)、森大翔(Vo, G)、本間将人(Sax)
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ROTH BART BARON @ROTHBARTBARON
【INTERVIEW 掲載】
三船雅也(ROTH BART BARON)のルーツをたどる
「誰もやったことがないことをやりたい」既存のフォーマットにこだわらず、道なき道を切り開く
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