アフロの音楽履歴書。

アーティストの音楽履歴書 第26回 [バックナンバー]

アフロ(MOROHA)のルーツをたどる

B-BOYになりきれなかった野球少年、相棒UKとの出会いでつかんだチャンス

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アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回はMOROHAのMCであるアフロにアーティストとしてのルーツを聞いたほか、自身のルーツとなった楽曲で構成されたプレイリストを作成してもらった。

取材 / 真貝聡

清原さんとの思い出、初めて事実を偽って書いたリリック

俺、言葉の仕事をしているくせに長い文章を最後まで読むのが苦手なのよ。しかも、今はみんなスマホで記事を読むからさ、いろんな媒体の記事があふれている中で「これはつまらない」って、すぐに次へ切り捨てられちゃう感じはあるよね。とにかく今回は、俺のような奴に最後まで読んでもらうのを目標にしたいな。だから堅くならず、居酒屋の与太話みたいなしょうもない話ができたらいいな。まずは俺の少年時代の話から始めようか。

幼少期のアフロ。

幼少期のアフロ。

小学3年生の頃、父ちゃんとキャッチボールをしたのが楽しくて野球を始めた。その年に運よく読売ジャイアンツの野球教室に行けることになって、当時現役で活躍していた清原(和博)さんにスイングを見てもらったのよ。「もうちょっと打点を前にしろ」「はい!」なんてやり取りをしてさ。あの経験が「tomorrow」の「清原モデルのバット背負って」という歌詞につながった。この曲は後悔がテーマの1つでもあるから、清原さんの事件があって「清原モデル」というフレーズを登用したと思われがちだけど、事件より先に歌詞があったんだよ。

思い返せば、俺は野球しかやってこなかったな。小さい頃、七夕になると決まって短冊に「プロ野球選手になりたい」と書いていたんだけど、小学4年生くらいから現実を見るようになって「野球関係の仕事に就きたい」に変わったね。でも心から野球が好きだったのか?と聞かれたら、そうでもなくてさ。ヘタクソだったし、レギュラーになれなかったから切ない思いもたくさんした。それでも続けていたのは、通っていた小学校になじめない中でリトルリーグに行ったら友達がいたから。それが心の拠り所になってた。

幼少期のアフロ。

幼少期のアフロ。

小さい頃は父ちゃん、母ちゃん、姉ちゃん、俺の4人で暮らしていたんだけど、小学4年生から爺ちゃんや婆ちゃんとも一緒に住むようになった。それまで平々凡々と暮らしていたのが、爺ちゃんたちと暮らすようになってからけっこう大変だったな。爺ちゃんが酒を飲んで荒れる人だったのよ。幼かった俺と姉ちゃんは、酔っ払った爺ちゃんに強く当たられている母ちゃんを怯えながら見てた。家庭の状況はよくなかった。それまで安息の場所だった家がそうじゃなくなったから、心がつらかった時期はそこからかもしれない。あの日々が俺の人間性を形成した大きな要因かもしれないね。

家族愛を歌った「恩学」という曲の中で「いつも優しいじいちゃん」という歌詞が出てくるんだけど、その部分はちょっとした皮肉だったんだよ。初めて事実を偽った。優しかったけど、いつも、ではなかったから。「ちびまる子ちゃん」に出てくる友蔵って、まる子と一緒に遊んでくれるすごく優しいおじいちゃんでしょ。あれは、さくらももこさんの「こんなおじいちゃんだったらよかったのに」という願いのもと作られたキャラクターなんだって聞いたな。さくらももこさんのエッセイ「もものかんづめ」を読むと、本当はおじいちゃんのことがすごく苦手だったみたい。「恩学」もそれと近いものがあって。皮肉もあったけど、「こうだったらいいのに」という願いでもあったんだよね。ただ歌詞を書いたあとに姉ちゃんに子供が生まれて、そのことで爺ちゃん含めて家族が赤ん坊を中心にギュッと関係が深まった瞬間があってさ。「恩学」で「いつも優しいじいちゃん」に続く歌詞は「ひい孫抱くまで死ぬんじゃないぞ」なんだけど、歌詞通りに姉ちゃんの子供を爺ちゃんが抱いて、みんなで赤子を見ているときはあの曲が本当になった気がした。自分の書いた歌詞でつづった願いが時を経て“リアル”になった瞬間だったな。

キスしたことがないくせに、平井堅「KISS OF LIFE」を歌う

俺、福山雅治さんのラジオ(「福山雅治のオールナイトニッポン サタデースペシャル・魂のラジオ」)を中学のときに聴いていたんだよね。福山さんって、男前なのにエッチなことも言うでしょ? そこがいいと思って憧れた。そういうこともあって、初めてCDを買ったのは福山さんの「桜坂」。俺の住んでいた村にはCDショップがなかったから、家から一番近いTSUTAYAまで親に車で連れて行ってもらったなあ。ちなみに、そのTSUTAYAはレンタルスペースのジャンル分けが雑だったのね。メロコアとヒップホップとハードコアとパンクは“ラウドロック”のジャンルにまとめられてた。当時は身近にネット環境もないから、全部ジャケ判断。ヒップホップっぽいなと思って借りたらハードコアだったり、メロコアかなと思ったらゴリゴリの日本語詞の青春パンクだったり。そういう事故的な形でいろんなアーティストに出会うことが多くて。GOING STEADYもそうだし、ガガガSP、SNAIL RAMP、Hi-STANDARD、キングギドラ、SOBUT、COCOBAT、NICOTINE、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDもそうやって出会った。

中学1年生のとき、正月に親戚が集まってカラオケボックスへ行ったんだけど「お前も何か歌え」と言われて平井堅の「KISS OF LIFE」を歌ったのよ。そしたら、隣に座っていた叔父さんが目頭を熱くしながら「あんな小さかった勇斗が、キスとか歌うようになったか」って。それを言われて、俺はめちゃくちゃ恥ずかしくてね。もう顔が真っ赤。なんか親類からそういうことを言われるの本当に嫌だよね! しまいには「キスしたことあんのか?」とか聞かれて、俺が顔真っ赤にしながら「うるせえ!!」ってキレるっていうね。

ないならば、あるもので補えばいい。自転車のカギチェーンを首に巻く

中学2年生のときは部活に精を出す一方、周りに影響されて服に興味を持ち始めた。村に1軒だけあるコンビニへ行くと「street Jack」「COOL TRANS」「Ollie」「Samurai magazine」とか、ストリート系のファッション雑誌が売ってて。それに夢中。さらに俺が中2だった2002年は、Dragon Ashの「Life goes on」「FANTASISTA」、RIP SLYMEの「楽園ベイベー」、KICK THE CAN CREWの「マルシェ」とかがオリコンランキングの上位に入って、日本語ラップが飛躍的に知名度を上げた時期だった。視界が開けた瞬間だったなあ。その一方、俺の中でトラウマとも言える出来事が起きた。キングギドラが「公開処刑」という曲でDragon AshのKjをDISったんだ。俺、キングギドラも好きだけど、Dragon Ashも大好きだったの。でも、学校の先輩が「公開処刑」のZeebraのリリックを読んで「Dragon Ashを聴いている奴はフェイクだ」と言い始めて。そのとき、その風潮にのまれて本当は大好きなのにDragon Ashのことを悪く言ってしまったんだよね。あのときの自分に対しての軽蔑の気持ちは今日まで続いている。というのもDragon Ashはその後、「Los Lobos」や「Ivory」とかラテン調の曲を作るようになって音楽的に大変革を遂げるのね。あのDISを乗り越えて、さらに音楽性に磨きをかけてオリジナリティを作っていくことに、どれだけの闘いと葛藤があったのかと考えたら、周りの勢力に屈してしまった自分をぶん殴ってやりたいよね。自分も音楽の世界で生きるようになってから、なおさらに強く思うね。

野球少年時代のアフロ。

野球少年時代のアフロ。

中学3年の頃もとにかくオシャレをしたかった。でもB-BOYのアイテムなんて村に売ってないから、自転車のカギチェーンを首に巻いて近所を闊歩してた。そりゃあ違和感はあったよ。だって質感が違うし、そもそもすごい重いから。だけど後輩に「そのネックレス、イカチーっすね」とか言われて、「これ、そこの商店で買えるぞ」なんて教えたらみんなも買ってね。もう村の中で自転車のカギチェーンがバカ売れ。インフルエンサーよ。バカ大繁殖よ。そもそもなんで首にチェーンを巻こうかと思ったかというと、ドラマ「池袋ウエストゲートパーク」でキング役の窪塚洋介さんがそういうファッションをしていたの。あのドラマは衝撃だったね。ドラマの影響でカラーギャングに憧れてバンダナを巻いたこともあった。バンダナといってもさ、母ちゃんがいつもお弁当を包んでくれるバンダナだから、それも何か違うなと思ってた。弁当の汁を吸い込んだソレは少しもギャングではないよなあって。ただ歴史を振り返ればそもそもヒップホップのファッションって、自分の生活にあるものの中で工夫してオシャレをするのが始まりだって言うじゃない? それで言えば俺のやっていたことはまさにそれだなと。しかし全然モテなかったなあ。当たり前か。

あの子の気を引くためにバンプを口ずさんでウロウロ

高校からは村の小学校、中学校とずっと村内で過ごしていた俺が市の学校に通うことになったのね。村出身ってことでナメられちゃいけないから、新学期早々に全校集会でポケットに手を突っ込んでNICOTINEの「BLACK FLYS」を口ずさんでたの。この曲、全部英詞なんだけど、そこ含めて“カマシ”にいってたのよ。そしたら後ろから肩を叩かれて「お前、歌詞全然違うぞ」と言ってきた奴がいた。それがUKとの出会い。わりと真面目な高校だったから、音楽やファッションが好きな奴は自然と集まる傾向にあって。UKは仲のいいグループの中の1人って感じだったな。当時からUKはギターも弾けて身長も高くてモテていたわけ。逆に、俺はできるだけ騒がしくしていることで、イケてるグループにしがみついている奴だったと思う。後輩の女子がUKを隠し撮りした写真が出回って、それみたら俺の顔が後ろで半分見切れて写ってたこともあったな。

高校2年生のときに好きな子ができた。その子はBUMP OF CHICKENが好きだったから、それきっかけで仲良くなりたいと思ったんだけど、恥ずかしくて「俺もバンプ好きなんだよね」って話しかけることはできないわけ。そこで俺は、「じゃあ、向こうから話しかけてもらえるように仕向けたらいいんだ!」っていう男らしさの欠片もない発想にたどり着いたのよ。作戦はバンプの中ではちょっとマニアックな「リトルブレイバー」という曲をその子の後ろで口ずさむこと。その日から彼女の後ろを小さい声でずっと同じ歌を口ずさむ不審者になったね。その甲斐あって「え、バンプ好きなの?」と振り向いてくれて、見事に会話のきっかけが生まれた。そこからメールアドレスをゲットして、最終的には地元の「はなまるうどん」の前で告白するんだけど結果は玉砕。はなまるうどんの前で、はなまるうどんみたいな顔した男がフラれるっていう曲、バンプが作ってくれないかなあ。

バッターボックスで聞いた宴会の定番曲

高校でも野球部に入るんだけど、下手くそでずっと補欠だった。それでも密かな野望はあった。野球部に入ったときから、自分が3年生になったら打席に立ったときの応援歌はBRAHMANの「SEE OFF」にしようと決めていたんだ。でもレギュラーの座と共に、後輩にその曲を奪われちゃうのよ。自分が打席に立つそのときに、スタンドから「SEE OFF」が流れるっていう景色をずっと夢見ていたんだけどね。先輩としての立場を使えば俺のものにできたと思うんだけど、その後輩はめっちゃ野球がうまくて。やっぱり力なき人間はこういう思いをするんだなって思い知った。いい経験。俺の応援歌はなんだったと思う? 残り物の「野球拳」だよ! あれ気合い入らなかったなあ。それから11年が経ち、2017年に俺らのツアーでBRAHMANとツーマンをして「SEE OFF」をやってくれたときは感慨深い気持ちになったな。それを聴いたあとにステージという名の“打席”に立つわけだから、だいぶ遅くなったけど夢が叶った気がした。しかも本人たちが演奏だからね。そうやって少しずつ屈辱を回収している感覚だね。

野球部時代を思い出すと今でも胸がキュッとなる記憶がたくさんあって。自分家の子供が補欠だとしても、試合があれば親は応援に行かなきゃいけないんだ。で、試合が始まるとチームが得点を入れるたびに俺の両親が喜んでるわけ。その様子を見ながら「息子は試合に出てないのに、本当にうれしいのかな?」と思ったら、ただただ申し訳ない気持ちになった。あの切ない感覚というのは、今、歌詞を書くうえですごく肥やしになっている。あの気持ちがなければ音楽はやってないと思うから、俺にとって9年間の野球人生は、ラップをすることに関しては最高の助走だったね。あのときの不甲斐なさとか感情の生々しさ。「甲子園に行きたいよね」と仲間同士で言い合いながら、俺は補欠だから一刻も早く部活が終わってほしいと思ってしまっている後ろめたい感覚とか、自分自身の醜くて弱いところを知る時間だったと思う。

うまくいかないことばかりの中、たどり着いた本気になれるラップ

高校を卒業したあと、専門学校に通うため、実家を離れて千葉の幕張本郷に住んだ。ある日、俺の家に初めて彼女が遊びに来ることになったの。まだ童貞だった俺は、その日にどうにか結果を出そうと思ってね。前日の夜にいかに自然にベッドへ導けるかシミュレーションをしてた。間接照明を買ってきて、クッション位置をミリ単位で調節。最後の仕上げは「ロマンチックな雰囲気を演出するために、どんな音楽を流すか?」だった。そこで選ばれたのがm-flo loves YOSHIKAの「let go」。我ながら童貞っぽい選曲だわ! そして、迎えた本番当日。彼女が家に来た瞬間に間接照明を点けて、「let go」を流した。そしたら彼女は「あからさまにムード作ってきてるな、こいつ」って反応をしたの。下心がバレてるんだよ! その時点で彼女の警戒度がぐんぐん上がったのがわかった。彼女、めっちゃ体を強張らせて固まってて。でも曲が終わってようやく安堵の表情を見せてくれたのよ。ただね、数秒したらまた「let go」が流れるわけ。俺リピートボタンを押してたから。ワンリピで「let go」はマジでヤバイって思った彼女はすぐ帰っちゃった。そりゃそうだよね。 俺、鼻息荒かったし。

2008年にMOROHAを始める前、学識というラップグループで活動をしてた。「拝啓、MCアフロ様」のMVにも出てくるメンバーのテルの家には離れがあって、そこで初めてデモ音源を作ったんだ。作った音源を聴いたときは、自分の声がダサすぎて衝撃を受けたね。まず、こんなに甲高い声だと思わなかった。ちなみにテルはアンダーグラウンドヒップホップが好きな奴で、ちょっとアブストラクトなものを好んでいたから、俺もそういうジャンルの曲をいろいろと教えてもらって。次第に自分自身もそういう世界観にのめり込むようになった。あのときは「狂ってたら狂っているほどいい」と思って、歌詞も雰囲気のある言葉を並べてた。ミステリアスという衣を羽織ってその実、中身はなんにも言ってないって感じ。その頃は周りに趣味だって宣言して歌っていたんだけど、とにかく楽しかった。音楽を職業にできたらいいなと思う一方で「そもそも自分なんか」ともあきらめていたね。

専門学校を卒業したあと、就職して営業の仕事を始めて、そのときはいつか起業することを目標にしてた。なんのプランもないけど、とりあえず金持ちになりたい、みたいな。大学生がよく口にしてるあの感じ。それにはまず営業力をつけなくちゃいけない! そう思って飛び込み営業をする会社に就職した。まずはここでナンバー1になることを目標にした。でも俺はそれを早々に達成しちゃったの。その瞬間にやる気がなくなった。やっぱり売っている商品も、営業という仕事も、のめり込めるほど好きじゃなかったから。このとき「本当に好きなことを仕事にしないと苦しいぞ」と痛感したね。この先、いったいなんだったら飽きずにモチベーションを保っていけるのかを考え続けたときに、俺がたどり着いたのはラップだけだった。歌詞を書いているときは、楽しいから時間が経つのを感じなかったし、気付けば朝を迎えるくらいずっと書いていた。これを仕事にできたら、仮にうまくいかなかったとしても挑んだ期間は無駄にならないんじゃないかと思った。それで2008年、UKが住んでいた町田まで行って「本気で音楽をやりたいんだ」と伝えてMOROHAを結成した。気付けば13年も前の話になるんだね。

「尊敬するミュージシャン」はMOROHAのギタリストUK

そうだ! ナタリーにクレームがあるんだよ! 履歴書の「尊敬するミュージシャンは?」っていう項目を書くの難しいよ! 誰かを書くと誰かを書かなかったということになるでしょ? それこそさ、商売敵の名前を書いてたまるかという気持ちもあるしね。それは俺がひねくれ者だからだけど。まあ、こういうときに相方の名前を書いておけば楽だよね。仲良しバンドを演出できるし(笑)。でも、まあマジな話、UKはすごいよな。俺なんか、人よりも言葉がちょっと書けるだけで、ラッパーとしての素養は「元気がある」くらいしかないのよ。MOROHAの音楽をいろんな人に受け入れてもらえたのは本当にUKのおかげだと思う。伝えたいことがあって、元気があって、目立ちたがり屋。ただそれだけの俺を、ナタリーでインタビューを受けられるくらいに仕上げてくれたのはUKだからね。職業にラッパーなんて書いているけど、本当は「頑張り屋」って書きたくなったりするよ。俺自身が「ラッパーか?」と思うときもあるし。UKは不本意かもしれないけどMOROHAの曲が「グッときたけど、これは音楽じゃない」と言われても俺はいいんだよ。「グッときた」なら音楽じゃないと言われても構わない。心からそう思う。音楽よりも心のが偉い、と思ってるから。偉いって言うとなんか変だけど。でもそんな俺をラッパーにしてくれたのはUKだと思うし、バンドとしてのMOROHAを形作ってくれたのもUKだと思ってる。音楽という手法を使うことで、より自分の表現が鋭く、ふくよかになることを教えてくれた。だからこそ胸張ってラッパーを名乗っていかなくちゃなと思ってる。

初期のMOROHA(撮影:小川安栄)。

初期のMOROHA(撮影:小川安栄)。

何かを叶えたいと思ったら、ダメだったときのことなんか考えるべきじゃないってずっと思ってた。だけど最近、ダメだったときに納得したいと考えるようになった。「ダメだったとしても、アレもやったし、コレもやった。全部やった。それでダメだったんだ」って。俺がどんな奴なのか知るというのは、すなわちすべてをやり尽くしたことによって知れるんじゃないかと思うんだよね。今、32歳。この年齢だからこそできることも確実にある。それは何年後かにはできないかもしれない。むしろ、やりたい、とすら思えなくなる可能性もある。それは失敗するよりも悲しいことなのかもしれない。自分が生まれてきた意味とか、何ができる人間なのかって、大人になったら悩まないと思っていたけど、そんなことなくて。俺は俺が何者なのかを知るために歌ってる。そしてMOROHAの音楽が「自分は何者なのか?」と問い続ける人にとっての手がかりになればと思う。

……あ、もうインタビュー終わり? かーっ! 今日は最後まで読んでもらいたいから、ストイックさや熱血な部分を出さずにいくぞと思っていたんだけど、最後にどうしても真面目になっちゃった。このダサさだよね。やっぱりそうなんだよな。これが俺なんだよな。

アフロ(MOROHA)を作った13曲

01. サルでもわかるラブソング / セックスマシーン
02. 蒼茫 / 山下達郎
03. Faerie Punks / akeboshi
04. リアルスクリーン / LIBRO
05. ピノキオ / 秀吉
06. song of sick / the chef cooks me
07. ぼくのお日さま / ハンバート ハンバート
08. 日暮し / ガガガSP
09. Hybrid / Analogfish
10. ゆうちゃん / 小山田壮平
11. 光と影 / ハナレグミ
12. COSMOS / おとぎ話
13. おだやかな暮らし / おおはた雄一

アフロ

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1988年生まれ、長野県出身。2人組バンドMOROHAのMC。2008年に高校の同級生だったUKとMOROHAを結成する。2010年に「SUMMER SONIC」出場権を賭けたコンテスト「出れんの!?サマソニ!?」にエントリーし、「曽我部恵一賞」を受賞したことをきっかけに急速に注目が集まる。同年10月にROSE RECORDSから1stアルバム「MOROHA」をリリース。2016年10月に自身のレーベル・YAVAY YAYVA RECORDSからアルバム「MOROHA III」を、結成10周年を迎えた2018年に再録ベストアルバム「MOROHA BEST~十年再録~」を発表。○:2020年8月にドキュメンタリーDVD「其ノ灯、暮ラシII」をリリースした。

※記事初出時、プロフィールに一部誤字がありました。お詫びして訂正いたします。

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