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illicit tsuboi

エンジニアが明かすあのサウンドの正体 第13回 バックナンバー

ECD、RHYMESTER、PUNPEE、長谷川白紙らを手がけるillicit tsuboiの仕事術(前編)

音よりも内容がよく聞こえるほうが大切

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誰よりもアーティストの近くで音と向き合い、アーティストの表現したいことを理解し、それを実現しているサウンドエンジニア。そんな音のプロフェッショナルに同業者の中村公輔が話を聞くこの連載。今回はA.K.I. PRODUCTIONSやキエるマキュウなどのDJとしても活躍し、ECDと多数のアルバムを共作してきたillicit tsuboiに、彼が拠点としているRDS Toritsudaiで話を聞いた。RHYMESTER、PUNPEEといったヒップホップ勢をはじめ、ホフディラン、SUPER STUPID、CHEHONなど多彩なアーティストの作品のエンジニアリングを手がけるillicit tsuboiの仕事のスタンスとは。

取材・文 / 中村公輔 撮影 / cherry chill will.

ヒップホップをミックスできるエンジニアがいなかった

──illicit tsuboiさんのお父さんはGSのバンドマンだったそうですね。

はい、カルトGS系で知ってる人しか知らない感じのバンドでしたけど。家にレコードがたくさんあって、寝ても覚めてもずっと音楽がかかっていたので、そこはかなり影響を受けていると思います。

──なんというバンドをやっていたんですか?

ザ・クローズというバンドで、目黒の不良たちのコミューンから音楽を始めたらしいです。その中にザ・モップスや鈴木茂さんもいたって話で。「ジミヘンのカバーを日本で最初にやったのは俺だ!」と豪語していたので、これはさぞかしすごい音楽をやってたんだろうなと思って聴いたらムード歌謡でした(笑)。1968年に「愛しているから」という曲でデビューしたんですけど、その頃はムード歌謡はもう古くて、それを取り入れたGSは逆に新しかったし誰もやってなかったんですよ。だけど、誰もやってなさすぎてシカトされたという(笑)。

──あははは(笑)。

ムスタングというバンドのプロデュースでは尖ったこともやっていたのに、自分のバンドではそういう方向にはいかなかったみたいで。そういう親だったので、レコードのコレクションもThe Beatlesやジミヘンのようなサイケから、チェット・アトキンス、The Ventures、The Shadowsみたいなオールディーズまであって。あと、うちの叔母がURC(※アングラ・レコード・クラブ。岡林信康やはっぴいえんどなどをリリースしていたレーベルで、当初は会員制)の会員だったので、学生運動の頃のフォークも物心がつく前から自然に聴いていました。

──自分から能動的に音楽を聴き始めたのはいつ頃ですか?

15歳の頃、1985年ですね。親がYellow Magic Orchestraを聴いていた流れでテクノが好きになって、そこからヒップホップに入っていきました。機材は全然持ってないから、カセットテープで再生と録音を“カチャッカチャッ”って繰り返してループを作る遊びをやったりして。17歳の頃にターンテーブルを使ったりトラックを作ったりするようになり、コンテストに出て優勝して、そこから徐々に本格的に活動するようになりました。

──それはA.K.I. PRODUCTIONSですか?

そうですね。ただA.K.I. PRODUCTIONSではあくまでもトラックメーカーという感じで、それと並行してKCDとやっていたGOLD CUTというDJユニットの活動のほうがメインだったかな。GOLD CUTは2人でいろんな音楽をカットアップして、ずっとミックスをしていくユニットでした。その頃にレアグルーヴのムーブメントがあって、ビートジャグリング(※2台のターンテーブルを使って、2枚のレコードでビートを構築するテクニック)しながら20分くらいのショーケースを作るということをやってました。そのユニットでは自分たちの作品は出せなかったんですけど。

──そこからどういう流れでエンジニアになったんでしょうか?

A.K.I. PRODUCTIONSの作品をミックスするためにたまたまこのRDS Toritsudaiに来たんですよ。ここは練習スタジオなんですけど、一角にミックス作業ができるような場所があって。そのときにここで働いていたアシスタントが、nice musicやmicrostarのメンバーの佐藤(清喜)くんで、彼と一緒にスタジオに来たお客さんの作品を録るようになったんです。それで、自分で録音したらやっぱり自分でいじりたくなるじゃないですか? そのうち、ここの機材は自分のだけになって、僕以外の人は使わなくなっちゃって。乗っ取りみたいなもんですね(笑)。

──誰かにミックスを依頼しようとは考えなかった?

その頃はヒップホップをミックスできるエンジニアがいなかったんですよね。メジャー系の人に頼むと、ちゃんとはしてるんだけどドラムが引っ込んでたりして、結局自分でいろいろ注文をつけないといけない場面が多くて。だったら見よう見まねで自分でやったほうが早いと思い、最初は上原キコウさん(※くるり、UA、サニーデイ・サービスなどの作品を手がけたエンジニア)にあれこれ聞きながら始めました。だからアシスタント経験はなくて、基本的に独学です。それがわりと評判がよくて仕事がくるようになりました。

──初めてミックスしたのは自分の作品ですか?

初めてミックスをしたのは……ちょっともうどれだか忘れちゃったな。その頃はインストのトラックだけをリリースすることはまずなくて、必ずラップが乗ってたので誰か名義ではあると思うんですけど。自分で作ったトラックの上に誰かのラップを録音して、それをミックスしたのが最初だと思います。

BUDDHA BRANDのデモテープを聴いて落ち込む

──BUDDHA BRANDの「人間発電所」はその頃に手がけた作品ですか?

そうですね、1995年かな。本格的にミックスをやるようになったのがその頃で、かせきさいだぁの1st(1995年リリースの「かせきさいだぁ≡」インディーズ盤)なんかもやってましたね。BUDDHA BRANDを知ったのは、ECDさんがたまたま彼らのデモテープを持っていたのがきっかけでした。僕がA.K.I. PRODUCTIONSでアルバムを作り終えて盛り上がってるときに聴かせてもらったんですけど、そのデモテープが本当にすごくて俺ら落ち込んじゃって。その話が向こうに伝わって、ぜひ一緒にやりたいと言われて、N.Y.から帰って来たときにこのスタジオでセッションを始めました。彼らは8割がた英語でしたね。全然日本語しゃべらない。すごいバイブスでした。内容も面白かったし、とにかく衝撃でしたね。

──今まで聴いたことのないようなクオリティのものをミックスするのはすごく大変そうですが、どういう意識でやったんでしょうか?

彼らのイメージがはっきりあったんですよ。持ってきたリファレンスもあったんですけど、それより録音したやつのほうが全然よくて、「リファレンスとは違うけどいいんじゃない?」って言いながら進めていきました。みんなで面白いと思うものを作り上げることができて楽しかったですね。

──ECDさんとも、その頃からガッツリ一緒にやってましたよね。

さっき言ったコンテストに出ていた頃に、同じコンテストに出てた中の1人がECDさんだったんですよね。ECDさんのほかにはRHYMESTER、DJ KRUSHとか、GAKU-MCが同じ時期から活動してたかな。そのちょっとあとにスチャダラパーが出てきて。ECDさんは僕がこのスタジオに入ったのを知って来るようになって、その頃はほぼ毎日会ってました。彼もいろんな音楽を通ってきてるんですよね。いきなりヒップホップをやったわけじゃなくて、ロックから何からいろんな要素を持っていて、作品として表に出しているのはヒップホップだけど、裏で話すのは全然違う音楽だったりして。そこが僕と通じ合っていたから話が早くて一緒にやっていましたね。いろんな音楽好きだけど、現在はヒップホップだよねって感じで。

──当時はどんな機材を使っていたんでしょうか?

その頃はアナログもデジタルも混在してる感じで、ソニーのスタジオに行ってアナログのテープで録ったものを、SONY PCM-3348(デジタルテープMTR)にトランスファーしてミックスすることもありました。このスタジオでは、アナログだとFOSTEXのE16を使ってました。デジタルはTASCAMのDA-88かな。Hi8のビデオテープを使ったデジタルMTRで、それを4、5台同期させて。AVID Pro Toolsは出始めの頃は音があんまりよくなかったので、それを使ってる時期が長かったですね。

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遊ぶことから始まったキエるマキュウ

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