なんでも美味しくしてしまう、肉
肉の問題は、美味すぎることだと思います。
毎日家族にご飯を作ります。食べ盛りの息子に「今日何が食べたい?」と聞くと「肉」と返ってくる。唐揚げ、生姜焼き、ステーキ、ハンバーグといった肉が主役の料理は大好きです。餃子や麻婆豆腐、ミートソース、お好み焼きなどなど、肉メインじゃなくても肉が欠かせないメニューも人気です。
定食屋の野菜炒めには少量の肉が入っていて、肉の旨味が料理をまとめています。肉を抜いて野菜だけ炒めにすると、どこか物足りない。豚汁から豚肉を抜いてしまうと、それは普通の具沢山みそ汁で、ごちそう感は目減りします。
肉が入っている料理から肉を抜いてしまうと、途端に味気なくなって、ご飯のおかずにならなかったり、料理として成立しなくなってしまうこともある。あるいは肉を入れることでおかずとしてワンランク上がった感じが出ることもある。ひじき煮に鶏肉をいれると子どもも箸が進むようですし、大根やカボチャ、さつまいもを煮る時も肉と合わせると副菜から主菜になる。肉の旨味と脂が仕事をするんです。
肉はすごいな。なんでも美味しくしてしまう。
主役の時はこれでもかと堂々としたものだし、脇役として入っても、主役をくってしまったり、欠かせない要素として他の脇役とは完全に区別され、主役級の敬意とギャラが支払われる。ワンシーンしか出てないのに、しっかりと観客の記憶に残り、ストーリーにさほど関係なくても、「やっぱ肉がいい仕事してる」なんて言われる。なんならポスターに主役と並んで大きく載ってしまう。友情出演くらいなのに。
私はある日思う。
共演者はどんな気持ちだろうかと。肉の旨味が全体に染み渡っている、などと言われて。共演者の野菜たちはニコニコしているが、それでいいのかと。きみたちにだって旨味はあるだろう。食感だけの存在ではあるまい。きみたちの繊細な旨味が、肉の強い旨味に、かき消されているんじゃないのか? 声を上げるべきじゃないのか? でも観客はスターを観にきてるから。いやいや、スターだけじゃ作品は成立しない。それに作品の中ではスターもスターであることを止め、その世界の住人になるべきだろう。
肉のマネージャーが口を挟んできた。
肉の旨味が作品を一色に塗りつぶしているような言い方ですが、それは違うと思います。この作品、もちろん主役は根菜です。蓮根、人参、牛蒡、それに共演者のこんにゃく、里芋、椎茸、皆さん重要な出演者です。肉の旨味は確かに強い、でもあなたが言うように、この作品はそれだけで成立しているとは思っていません。肉の旨味と、野菜の旨味が掛け合わさって、美味しくなっているんです。相乗効果でしょう。料理の基本ですよ。変な言いがかりは止めてください。
正論だな。もっとだ。でも観客の反応や評価、その現実を見てくれ。肉の旨味が全体に染み渡って、とは言われても、蓮根の旨味が全体に染み渡って、とは言わないだろう。牛蒡なんてあれだけ存在感を持った風味を出しているのにだ。つまり相乗効果と言うなら、
【蓮根×人参×牛蒡×里芋×こんにゃく×椎茸×肉】
という式になるはずだが、実際は
【肉×(蓮根+人参+牛蒡+里芋+こんにゃく+椎茸)】、
という評価になってるだろうが。相乗効果のはずなのに、手柄を独り占めだ。こんにゃく? 確かにこんにゃくは受け取るだけで旨味を出してるとはいい難いが、そういう人がいたっていいんだよ。いろいろな人がいていいんだよ、世界の縮図なんだから。
それ肉の責任ですか? しょうがないでしょう、美味しいんだから。天才なんですよ、肉は。いつの時代も天才は存在する。あなたの言う世界の縮図、多様性の一部です。まさか、肉を外すとか言いませんよね。それこそ差別です。それにね、肉を外してヒットが望めますか? プロモーションも苦戦しますよー。想像してみてください。上の二つの式から肉を外したものを。どっちになります? 残ったキャストを繋ぐ記号ですよ。「×」か「+」か。正直に言います、「+」です。掛け算にはなりませんよ。それくらい動員に差が出ます。だって面白くないから。
野菜を馬鹿にするな!
ふざけやがって。ええい、やめだやめだ、筑前煮なんてやめだ! 大根を呼んでこい! 根菜の煮物にする。今日は根菜の煮物にする!
やれやれ。構いませんよ。他に仕事はいくらでもありますから。一応言っておきますけど、肉を外したからには契約上「筑前煮」というタイトルは使えませんからね。
分かってるよ! だから「根菜の煮物」って言ったんだろ。
「根菜の煮物」って(笑)、まんまのタイトル、ダサ。
おい誰かこいつをつまみ出せ!
私は振り上げた手をゆっくりと下ろし、つかんだ鶏もも肉を冷蔵庫にしまいました。肉の入らない根菜の煮物には、なぜ筑前煮のような、格好いい名前が無いのでしょうか。そういうところから変えていかなければ、と思いつつ、何が筑前煮だよ、とも思います。名前も無いような料理こそ、尊いではないですか。
肉の不在が気にならないように、根菜は多めの油でしっかりと炒め、旨味を引き出します。そう思った次の瞬間、この「肉の不在が気にならないように」という考えそのものが肉に囚われていると気付く。肉なんて最初からいなかった。ただただ、野菜の旨味を引き出すことを考えるんだ。比べる必要はない。
おかずになるように甘辛く煮詰め、最後にごま油で艶良く仕上げました。今夜の主菜はこれです。
妻「わぁ、筑前煮だ。美味しそう」
私「筑前煮ではない。根菜の煮物である」
妻「あ、ただの煮物なんだ」
私「ただの煮物ではない。立派な煮物である」
息子「あれ、肉入ってない。肉は?」
私「降板した」
息子「降板?」
私「いや、最初からいなかった。肉はいない」
息子「いない?……いない?」
私「そういない。もういないんだ」
息子、妻を見る。
妻、小さく首を横に振る。
いつもの筑前煮のように肉が入っているという先入観で食べ始めてしまうと、確かにどこか物足りないとは思います。でもそれはフェアじゃない。食べ慣れた味を美味しいと感じてしまうところが人間にはある。だから人それぞれ育ってきた環境で美味しいは微妙に違います。好みは、作られる。家庭で、時代で、メディアで。でもそうやって作られた好みをリセットすることもまたできます。自分にとっての当たり前を疑ってみる。これが「美味しい」で本当にいいんだっけ? 何かと比べず、始めて出会った料理として、例えばこの根菜の煮物を食べてほしい。そしたらそれはそれで、きっと美味しい。新しい発見もあるでしょう。さすがに小学生の息子にそこまでは望みません。やはり彼は肉の不在を感じてしまう。それくらい、肉は美味しい。記憶に留まってしまうのです。
おい肉、なんでも美味しくしてくれてんじゃねーよ。
肉はスターであり、天才である。天才とは一握りであり、ありふれた存在ではありません。人間にとって、栄養とカロリーたっぷりの肉は、かつてありふれたものではなかったはずです。ほぼ20万年狩猟採集生活だった人類が肉にありつけるのは時々で、約1万年前に牧畜が始まってからも、当然毎日肉が食卓にあったわけではない。この特別な高栄養の食材を、人間の脳は特別に美味しく感じるように遺伝子レベルで覚えてしまっているのです。一方、というかそれゆえに、人間の消化器官は肉を毎日食べるように適応してはいない。肉を府(腑:はらわた)に入れると「腐」る、なんて説もありますが、肉の食べ過ぎは内臓に負担をかけるのは事実です。現代のように肉が安価に大量に手に入るようになったのは、戦後アメリカから始まった工場畜産によるものです。その結果、日本の食卓にも毎日スターが登場するようになりました。特別な美味しいが日常になったのです。この当たり前は、疑った方がいい。肉の美味しいが、他の美味しいを駆逐してしまっている。
肉の問題は美味しすぎることだと始めましたが、他にも問題があることを、最後に付け加えておきます。工場畜産は環境負荷がものすごく高いのです。森林破壊、CO2とメタンガスによる温暖化、排泄物による汚染、大量の水と穀物を消費します。飼育環境が劣悪で、動物倫理的にも問題があります。そして世界の人口増加と、新興国の中間層(食生活が欧米化していく層)の増加に、食肉の生産は追いつきません。現時点でも相当な無理を地球に強いており、穀物を飼料として奪われる貧困層も増えています。今日も近所のスーパーに行けば肉がずらりと並んでいて、値上がりしたとは言え100g100円ほどで買える肉もあります。これは、普通じゃない。食肉という文化は既に、世界規模で見れば持続可能なものではなくなっています。明日からベジタリアンになれとは言いません。でも肉は、時々食べる美味しいものくらいにしておいたほうが、地球にも体にも優しいのです。ゆえに、他の美味しいも改めて探求すべきではないでしょうか。どうだろう、息子よ。
息子「いやお父さん、厳しいってマジで」
鶏もも肉は単独で照り焼きにしました。我が家の食卓では日々こういうことが繰り返されているのです。つづく。
- 前川知大
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1974年、新潟県生まれ。劇作家、演出家。目に見えないものと人間との関わりや、日常の裏側にある世界からの人間の心理を描く。2003年にイキウメを旗揚げ。これまでの作品に「人魂を届けに」「獣の柱」「関数ドミノ」「天の敵」「太陽」「散歩する侵略者」など。2024年読売演劇大賞で最優秀作品賞、優秀演出家賞を受賞。
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【連載】前川知大の「まな板のうえ」第7回 | 肉はすごいな
肉の美味しいは、他の美味しいを駆逐しているのではないか
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