ジャガイモの保存て意外と難しい。こう暑いと冷蔵庫かしら。

前川知大の「まな板のうえ」 第10回 [バックナンバー]

ポテトサラダの正解とは

“絶対的正解”の使い方

2

22

この記事に関するナタリー公式アカウントの投稿が、SNS上でシェア / いいねされた数の合計です。

  • 8 13
  • 1 シェア

劇作家、演出家でイキウメ主宰の前川知大は、知る人ぞ知る、料理人でもある。この連載では、日々デスクと台所に向かい続ける前川が、創作と料理への思いをつづる。

みんな大好き

マヨネーズ。
……今回はマヨネーズ批判か、と思いましたね。まぁそんなに警戒しないでください。「マヨネーズの別名は、全体主義的調味料」という短編劇(2010年)も書いてはいますが、マヨネーズ大好きです。特別なものは使っていません。我が家は味の素です。嫌いな人はあまりいないのではないでしょうか。短編劇は、素材にこだわった料理を出したものの、「マヨネーズが合いそう、マヨネーズもらえますか?」と言われてしまうものだった気がします。
マヨネーズは何にでも合うし、何でも美味しくしてしまう。マヨネーズは、どこで誰と一緒にいてもマヨネーズであることをやめようとしない。涼しい顔でそういうことができる稀有な存在です。
マヨネーズは、子どもにも大人にも人気があって、慣れ親しんだ味で安心させる。いつも家にあるから、味変したくなった時にすぐ出てくる。「あ、マヨネーズ合いそう。→うん、美味しい!」、勝率は98%くらい。マヨネーズに勝てる食べ物も人も、多くはないと思います。マヨネーズは美味しい。真理のように輝いています。まさに国民的。

自分で作っていた時もあったけど、結局市販品に戻った。

自分で作っていた時もあったけど、結局市販品に戻った。

絶対的に正解なマヨネーズの正解フィールド

ただ、この連載における私のスタンスは「美味ければ良いというわけではない」ので、何でも即座に美味しくしてしまうような存在には、慎重にならざるをえません。分かりやすく、素早く脳に届く美味しさであること、素材の繊細な味を覆い隠しがちになること、慣れ親しんだ美味しさに安心し、受け身になること、といった問題があげられます。
定食屋や居酒屋で、料理の端にマヨネーズが絞ってあることがあります。お好みで、ということでしょうが、ほとんどの人が最初からマヨネーズに箸を付けます。
「いいのか? 引き返せないぞ」と思います。マヨネーズ無しで食べてみてください。物足りないでしょうか? そうですか、物足りないんですね。ではマヨネーズを付けて食べてみましょう。
うん、美味しい。こっちの方が美味しいです。やっぱりこれが正解なんですよ。

でもそれは、マヨネーズとの相性云々というより、いつだって絶対的に正解なマヨネーズの正解フィールドに吸収されただけとも言えます。マヨネーズは何かちょっとした風味を添えるようなものではなく、相手がどんな大きな料理でも、ぐいと腕を引いて自分のフィールドに引っ張り込む腕力があります。涼しい顔でそういうことをやるんです。だからトッピングみたいに添えたりするのは危険なんです。
マヨネーズは言います「どうだよ、正解だろ?」
マヨネーズを付けられた者は、何か足りなかったのでしょうか、間違っていたのでしょうか。そんなことはありません。ただただ、マヨネーズの圧倒的正解に駆逐されたのです。
ここまでの文章で何度マヨネーズと書いただろう。24回。それでもなお「マヨ」と親しみを込めて呼ばないのは、やはり一定の距離を保たねばならないからです。
繰り返しますが、私はマヨネーズ大好きです。

ポテトサラダにマヨネーズは正解か

ポテトサラダ。
我が家でも基本はマヨネーズですが、時々使わないものも食べたくなります。オリーブオイル、酢、塩、で玉ねぎをマリネしておいたものに、茹でて崩したジャガイモを合わせる。他の具はお好みで。スパイスやハーブで風味を追加します。ポテトサラダとしか言えないものが出来ます(酢をレモンにしてタコとディルなんか入れるともうご馳走です)。
以前マヨネーズではないポテサラを作った時、息子は少し物足りないと言いました。沢山作ったので、翌日少しだけマヨネーズを入れて混ぜ、出しました。美味しい、と昨日より反応がいい。私はどこか釈然としません。
箸を置いて黙り込む。

これでいいのだろうか。いいわけがない。
美味しいか? 美味しいだろうよ。私も食べてみた、美味しいよ。でも違う。これは私が今ここで言おうとしている美味しさとは、違う。いわゆる馴染みのあるポテトサラダの味になっただけで、美味しくなったわけではない。よく知った分かりやすいポテサラの味に安心しただけだろう。誤解なきポテトサラダの正解。安心という美味しさがあるのは知ってる。でもこれが正解と決めつけ、そこに安住して満足か?

息子が怯えている。すまない、取り乱して。妻が私をなだめる。

ジャガイモとほうれん草のくたくた煮。最近のお気に入り。

ジャガイモとほうれん草のくたくた煮。最近のお気に入り。

ステレオタイプに回収されてしまうリアルな演技

ふう。
さて、演劇の話でもしようかな。
例えば酔っぱらいの演技。ご機嫌な顔で千鳥足で登場してくれば、それがすぐに酔っ払いだと分かります。ヒック、なんて言ったら確定だし、寿司折を指先で持っていたら0.1秒で理解する。「サザエさん」の波平が帰宅したのです。
ヤクザやヤンキーの演技も、歩き方や喋り方のくせですぐに分かります。ラッパーも表現しやすいかもしれない。怒っている人、落胆している人、怯えている人、浮かれている人。属性や人の状態など、多くの人が共通のイメージを持っています。それは経験だったり、ドラマや漫画、いろんな創作物から受け取ったイメージが蓄積されているからです。そのイメージを煮詰めたものが、いわゆるステレオタイプです。

どうやったら、酔っぱらいに見えるかな。と悩む俳優はいません(いないと思いたい)。むしろどうやったらステレオタイプじゃない酔っ払いを表現できるかなと考えるはずです。「酔っ払い」はそれほど強い「正解」が出来上がっています。
もちろんシーンの目的によって事情は変わってくるでしょう。0.1秒でその人が酔っ払いだと伝える必要があるなら、ステレオタイプに頼るべきです。逆に、その人の言動が普通じゃないことを謎として提示し、シーンが進む中で「え? なに? まさかお酒飲んでるの?」「飲んでないよ」「飲んでるじゃない!」という展開になるなら、すぐには分からない酔っ払いの演技をするべきです。でも後で、酔っぱらっていた事実に納得できるような表現を目指したい。
あるいはシーンの前に、「プロジェクトは成功、お祝いしなきゃな」なんてセリフがあったなら、飲酒のシーンが無かったとしても、多幸感あふれる表情ひとつで、立ち止まった背中ひとつで、「酔い」を表現できるかもしれない。観客の想像力を使えるからです。
例にあげた2つ目、3つ目の場合に波平さんをやったらぶち壊しなのが分かるでしょう。

酔っ払いの演技は、ステレオタイプとして極端な例だとは思います。「そんな◯◯いねーよ」という演技はコントやギャグの領域に入っていきますが、酔っ払いの難しいところは、リアルの酔っ払いも、意外なほどステレオタイプな酔っ払いだということです。リアルに演じようとしても、ステレオタイプに回収されてしまう。ぐいと引っ張られてしまうのです。

“伝える / 分かる”の向こうへ

私は演出家でもあるので、俳優のオーディションをすることがあります。台本から抜粋した、数分のシーンを演じてもらいます。俳優はその短い時間で自分を印象づけたいと思います。当然でしょう。そしてどこまで表現するか、ということを俳優は悩むと思います。例えば、台本から読み取れる些細な苛立ちを、見せるのか、見せないのか。見せない選択をして、もし演出家に台本が読めていないと思われても怖い。見せないけど、見える、が一番いいのは分かるが、うまくできるだろうか。
見せる、は簡単です。演技の一側面は伝達ですし、そこをクリアーすることは難しくありません。でも「分かりやすく伝える」を重視すると、説明っぽい演技になり、ステレオタイプに寄っていきます。
あるタイプの役者は、伝わらないかもしれない、という不安からステレオタイプな演技に逃げてしまうこともあります。ステレオタイプはある属性や状態を抽象化したものなので、それ以外の情報が抜け落ちてしまいます。「苛立ち」は伝わるが、その裏にある複雑な感情が隠れてしまうのです。弁護士を、いかにも弁護士っぽく演じると、それは「いわゆる弁護士」になり、職業の裏にある個人が見えてこなかったりするのです。

「伝えたい」という欲望は強いものです。作家でも演出家でも俳優でも。できれば誤解なく伝えたいと思う。そして受け手の、観客の「分かりたい」という欲望も強いのです。「すぐに、楽に、簡単に、分かりたい」という欲望に、表現が応えようとしすぎると、説明的でステレオタイプなものに寄っていきます。受け手も慣れ親しんだ表現に安心するのです。でもそこには伝達しかなく、想像力や誤解の入る余地がありません。
想像力と誤解の入る余地を残すためには、表現者は受け手を信じなくてはなりません。そして誤解も良しとしなくてはなりません。正解なんて無い。受け手も、「分かる」安心の外にある何かを楽しんでほしい。
「伝えたい」と「分かりたい」は、欲望の結びつきであり、依存性を感じます。もう一方は「信頼」と「想像力」の結びつきです。伝える以上の何かがあることが、芸術としての価値でしょう。

わらびの炒めもの。今年の春はわらびを沢山食べました。

わらびの炒めもの。今年の春はわらびを沢山食べました。

コントと演劇

嗚呼、そうか。
私は二日目のポテトサラダに、マヨネーズを入れるべきではなかったんだ。自分で作ったポテサラを、それを食べる妻子を、もっと信じるべきだった。息子も、分かりたい欲望にやすやすと屈するべきではなかった。二日目のあのポテサラは、どんな味がしただろう。あのシンプルなポテサラの奥深いところへ進むことができたんじゃないのか。新しい道が開けていたのに、冒険に尻込みして引き返し、安心の我が家でゲームをしている。どこで食べても同じ味のステレオタイプなポテトサラダが美味しいだなんて、堕落だ! 想像力のかけらもない。
ポテトサラダに大げさだって? はい、自分でもそう思います。
ただこれだけは言わせてくれ、不安だからって、安易に大きなものに身を寄せていってはいけない。全体主義が待っている。
料理にも演技にも正解なんてないんだ。
すまない息子よ。私にはもう何がなんだか分からない。マヨネーズのポテサラは美味しい。否定してはいないんだ。

深呼吸。

最後に、ステレオタイプがすべて悪いとは思いません。
演技ではまずステレオタイプができることは基本です。特徴をつかみ、表現する。真似るということは演技のスタートですし、それを正確にできる技術は大切です。「そこはあえてステレオタイプでいいんです」というオーダーを出した時、ぱっとやってみせるくらいの観察力と再現力はあってほしい。
ステレオタイプをよく理解しているからこそ、ベタな演技を避けることができるし、他の表現を探すことができます。

逆にコントの演技は、ステレオタイプを多用しますよね。コントの笑いはロジックの正確な積み上げとズレです。だから演技によって情報が誤解なく伝達された方がいい。解釈がブレるようだとフリが利かず、オチも切れが悪くなります。分かりやすさが重要なのです。これはコントが「笑い」を目的にしているからで、結果は「笑い」として現れなくてはいけない。非常に高度な技術が求められる、シビアな世界です。

劇、ドラマなどの物語は、受け手の反応を先読みして決めることをしません。笑おうが泣こうが震えようが自由です。だからこそ想像力と誤解の入る余地を残す演技、演出が必要なのです。伝達としては不十分かもしれないけど、観客それぞれの想像力を刺激し、別の何か大切なものが立ち上がってくる。
よく下手な演技を「コントみたい」と言ったりするけど、これはコントに失礼です。演技の目的が違うから。それに今はお笑いの人がよく映画やドラマに出ているけど、みんなとても上手いですよ。
ウチにも元芸人の達人が一人いますけどね。ちなみに彼(安井順平)は酒を飲まないのに酔っ払いの演技がとても上手い。いつも最後までシラフで残っているからだと言います。

座が安井順平氏、立は浜田信也氏。最新作「ずれる」より。

座が安井順平氏、立は浜田信也氏。最新作「ずれる」より。


前川知大

1974年、新潟県生まれ。劇作家、演出家。目に見えないものと人間との関わりや、日常の裏側にある世界からの人間の心理を描く。2003年にイキウメを旗揚げ。これまでの作品に「人魂を届けに」「奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話」「関数ドミノ」「天の敵」「太陽」「散歩する侵略者」など。2024年読売演劇大賞で最優秀作品賞、優秀演出家賞、2025年最優秀演出家賞を受賞。

バックナンバー

この記事の画像(全5件)

読者の反応

  • 2

arida @Magnoliarida

私のポテトサラダはあまりつぶさないタイプです(母の影響で)
ピエトロも使います。 https://t.co/gS3WbFZrzV https://t.co/1Zzw3XPezr

コメントを読む(2件)

関連記事

前川知大のほかの記事

あなたにおすすめの記事

このページは株式会社ナターシャのステージナタリー編集部が作成・配信しています。 前川知大 / イキウメ の最新情報はリンク先をご覧ください。

ステージナタリーでは演劇・ダンス・ミュージカルなどの舞台芸術のニュースを毎日配信!上演情報や公演レポート、記者会見など舞台に関する幅広い情報をお届けします