ベジタリアン、時々魚介
この連載も12回目になります。当初は6回くらいという話でした。コンテンツは短く分かりやすくという潮流に抗い、毎回しっかり長文を許していただきありがたいです。お付き合いいただいている読者の皆さまにも感謝いたします。編集者に「まだ書くことあるか?」と聞かれたので、「まだ始まってもいねぇよ」と答えたところ、続けさせていただくことになりました。
さて、私は現在ベジタリアンです。この連載の中でも野菜料理ばかり推すから、そのように思われた方もいるでしょう。菜食主義者になってもうすぐ2年というところです。この連載のお話をいただいた時、ベジにして数ヶ月たった頃で、自分が今まさに取り組んでいることを書きたい思いがあったのですが、その思いはひとまず収め、渡された「料理と創作」というテーマで始めることにしました。最初にベジタリアンと書かなかったのは、フラットに読んでほしいと思ったからです。ベジタリアンやヴィーガンという言葉には思想の強さがあるので、「そういう人が言ってることね」という色眼鏡が入ってくることを避けたかったのです。
毎日の家庭料理に向き合う姿勢と創作をする時の共通点や、出来た瞬間消えていく食事と演劇の宿命、「美味しい」や「面白い」を考えなおすこと、作為や意図との距離感、なによりプロセスが重要なこと、などなど語ってきました。語ってきたことはベジタリアンになる前から思っていたことですし、以前からここでお勧めしているようなものを好んで食べていました。とはいえベジタリアンという決断をしたことで、言行共にやや先鋭化しているところはあるかもしれません。最初から色眼鏡で見られることは嫌ですが、こうして12回も書き連ねているわけですから、今はどう思われようが構いません。
というわけで、ここらへんで少し道を外れて、菜食について語ってみたいと思います。
まず名称を整理しましょう。
ベジタリアン:動物性のもの(肉類、魚介、卵、乳製品)を食べない人。
このベジタリアンの中に、いくつかの種類があります。
ラクト・ベジタリアン:乳製品はOK。
オボ・ベジタリアン:卵はOK。
ラクト・オボ・ベジタリアン:乳製品、卵はOK。
ペスコ・ベジタリアン(ペスカタリアン):魚介類、乳製品、卵はOK。
ラクト・オボが始めやすく、欧米では最も多いそうです。インドはラクトが多いといいます。
ヴィーガン:完全菜食主義者。食事だけではなく、革製品や動物実験を行って開発されたものなども手にしません。動物の搾取を徹底的に避けるライフスタイル。蜂蜜もだめ。
私はベジタリアンで時々魚介をいただきます。肉類、卵、乳製品は食べない。このカテゴリーの名称が無いのは何故なんだ。会食やお呼ばれ、親戚の集まり、家族で同じものを食べたい日などに、魚介をOKにしています。始めの頃は会食でどうしようかと悩みましたが、こう決めてから多少気持ちが楽になりました。日本はベジ対応のメニューを用意しているお店はまだまだ少なく、一緒に食べる人にどうしても面倒をかけてしまう。でも魚介をOKにすると、メニューの中に食べられるものが出てくるし、「とにかく肉、卵、乳製品がNGです」というのは分かりやすい。最近は劇団員も特に気にしなくなって嬉しい。打ち上げは焼肉だーというのはなくなったけど。
家族で食卓を囲むとき、考えたこと
妻と息子はベジタリアンではないから、基本私が食べられるものを並べて、妻子には動物性のおかずを一品追加することが多いです。始めたばかりの頃は気持ちが先走って厳格になりがちだけど、家族で同じ食卓を囲めないのはやはりさみしい。当初は妻の反対が激しく、しばらくお葬式のような食卓が続いて、息子も辛かったと思う。少しして、お祝いの時に手巻き寿司パーティーをして、これなら食べるものを選べるし、魚介も少しはいただくかとなりました。こういう時やお出かけの時は、魚介はOKにするよと家族に告げると、妻の態度も軟化していきました。
私は「天の敵」(2017年初演)という作品で、菜食主義者の料理家の人生を描いていて、当時はマクロビオティックや不食を試したり、しばらく菜食にしていた時期がありました(この時の経験は大きかったかもしれない)。また、座禅や瞑想を日常に組み込んでいたりと、私がそういうカルチャーに親しんでいることを妻はよく知っていました。そして私の食の好みの変遷も、一番近くで見続けてきた人です。だから私が特に相談も無くベジタリアンになると言った時、「ついに決めたか」と面白がってくれると思ったのですが、それはとんでもない勘違いでした。同じものを食べたい、美味しさを分かち合いたい、そういう喜びを奪われ、伴侶が一人別の世界に行ったような感覚になったといいます。彼女の絶望は相当なものでした。
その日、あろうことか私は、妻の気持ちを想像することもせず意気揚々と「私がベジタリアンになる理由」をまとめたA4紙5枚にわたるプレゼン資料を用意していたのです。妻は絶句し、その場から立ち去りました。
「やっちまったな、お父さん」と息子がつぶやきました。
私は愚かでした。
このあたりのことを書き始めるとまた長くなるので、別の機会にしますが、妻が受け入れてくれるまでに、長い時間がかかりました。いや今もまだ完全には許していない気がする。
例年、私たち一家は妻の実家で年を越します。義父は長男で親戚たちの仲は良く、二日の新年会には沢山の子や孫たちが集まります。新年会の料理を一手に担うのは義母。彼女はかつて学校給食の調理をしていたこともある、家庭料理の達人で、尊敬する料理人です。ちなみにいつだったか、義母から化粧箱入りの鋼の牛刀が送られてきて、それは私へのプレゼントでした。宛先が夫だったことに妻は苦笑いし、「分かってやがる」と言いました。今も大切に使っています。
いつも美味しいものを用意して待っていてくれる義母に、自分がベジタリアンになったことを告げるのは、少し緊張します。妻に「さらっと言ってくれない?」と聞くと「情けない、自分で言え」と突き放されました。ごもっとも。帰省の前にLINEで伝えてみると、義母は「オッケー、野菜料理たくさん作って待ってる」とすぐに屈託のない返事がきてほっとしました。
私が実家で野菜料理をもりもり食べていると、義母が「えらいねー」と言います。それは「健康に気を使い、野菜中心の食生活にしたこと」を評価しているのです。隣で妻が「えらかなんかないやぃ!」と吠えます。義理の妹が「すごいねー」と言います。これは「美味しいお肉を我慢して食べないこと」を評価しているのです。隣で妻が「ちっともすごくない!」と唾を飛ばします。「褒められてよかったな! 満足か?」と妻は唐揚げをほおばります。息子がニヤついている。妻の悪態は許しの一形態です。
そして妻が吠えていることは間違ってないのです。私は「えらく」もないし、「すごく」もないのだから。
まず、私がベジタリアンになったことは、必ずしも健康を目的としてではないからです。そもそも以前から健康によい食事を心がけてきたし、健康が第一の目的ならば、動物性食品も組み合わせた方が合理的です。菜食が健康に良いというのは、それを選ぶ重要な要素ですが、私は健康欲しさに食生活を管理しているのではありません。だから特別に理性的な人間というわけではなく、別にえらくはないのです。
また、食べたいものを「我慢する」という感覚は全くなく、そもそも肉が食べたいと思わないのです。嫌いになったわけでもなく美味しいことも知っています。ただ肉を食べたいと思わなくなったのです。だから並外れた自制心を発揮しているわけではないので、別にすごくもないのです。
でもえらくもすごくもないことを、わざわざ説明したりはしません。尊重してもらっていることが分かるので十分です。
健康状態はすこぶる良好
実際に日常的な会話では、何故ベジかというのは「健康のために」と言うことが多いです。その方が通りがよく、無用な対立や誤解を避けられるから。本当のところは、倫理的な問題です。経済合理性を最優先する畜産業の動物の扱いは、知れば目を背けたくなるものです。私たちと同じ苦しみを感じる動物を、物のように利用する感性がもたらす帰結を想像し、恐ろしいと感じます。これは考えを深めていけば、差別や人権の問題へと入っていきます。
もう一つは環境負荷です。これは連載7回目「肉はすごいな」の最後に書きました。牛肉1kgの生産に飼料の穀物約12kgを必要とします。豚肉なら約7kg、鶏肉なら3kg。とても効率の悪い食糧生産です。そして増加を続ける肉の需要で、飼料穀物の為に森林が伐採され続けています。その穀物(大豆やトウモロコシ)をそのまま食料にすれば、多くの飢餓が救えるかもしれません。それでも世界は肉を食べることをやめません。食習慣とそれを当たり前とする感覚によって、すでに出来上がっている巨大な食肉産業によって。
森林伐採の他に、温室効果ガス、排せつ物による汚染、大量の水を消費し、感染症の発生源にもなります。このような畜産と環境負荷の関係を、私は最近までよく知りませんでした。コロナ禍になって、ウイルス発生のプロセスについて調べているうちに知るようになりました。7回目に書いたことを繰り返しますが、食肉という文化は既に、世界規模で見れば持続可能なものではなくなっているのです。
倫理的問題、環境負荷、健康にもいい、そもそもシンプルな野菜料理が好き。え、なんかもう肉をやめる条件がそろってんだけど、となる。
私と妻だけならそれほど肉は食べないのだけど、当時は息子が小学校高学年で、何食べたいかと聞けば「肉」なのでした。息子が喜ぶのが嬉しくて、私は毎日いろんな肉料理を作りながら、こんなに毎日お肉を食べてよいもんかね、と漠然と感じていました。それでも毎日スーパーに行けばずらりと肉が並んでいる。牛肉、豚肉、鳥肉、ベーコン生ハムソーセージ、ホルモン鶏ガララムチョップ、肉、肉、肉。これって普通のこと? わからない、これはなんだ? ある日、私はオーケーストアの精肉コーナーで完全に現実感を失い、立ち尽くしてしまいました。視界がゆがむ。頭の中ではなにか大きな音が鳴り響いて、口の中はかさかさに乾いていました。
それから私は急速に自分の食事から肉を減らしていき、家族にベジタリアンになると告げました。その後が大変だったとはいえ、自分としてはとてもほっとしたのでした。もう肉を食べなくていいんだ。解放感。「我慢する」という感覚とはまったく違うことを分かってもらえるでしょうか。
思想的にはヴィーガン寄りですが、時々魚介は食べるし、蕎麦屋に行けば出汁を避けることはできませんし、そこまで杓子定規にはやっていません。いただいた焼き菓子にバターが少し入っていただけで発狂したりしません。ヴィーガニズムに大きな影響を与えている哲学者のピーター・シンガーは、フレキシブルなヴィーガンを自称し、時々二枚貝と放し飼いの鶏の卵を食べるといいます。
「私はほとんどヴィーガンであるが、ヴィーガニズムを宗教のように扱っているわけではない。(中略)ヴィーガンとしての食生活からのちょっとした逸脱は、大した問題ではない」(「WHY VEGAN? :EATING ETHICALLY」2020年)。
私もそう思います。
二枚貝は中枢神経系や脳が無いので痛みを感じない、放し飼いの鶏はよい生を送っており卵に執着していないように見える、というのがシンガーの言い分です。
私は卵は食べませんが、時々魚介をいただくのは栄養面でも助かっています。完全菜食で不足しがちな栄養素として私が気にしているのは、鉄、ビタミンB12、オメガ3脂肪酸(EPA/DHA/ALA)です。二枚貝と青魚でこの栄養素は十分にカバーされるからです。
「体は大丈夫?」と聞かれることがありますが、健康状態はすこぶる良好です。
ベジタリアンになって感じた解放感
「何を食べるか」というのは生活の問題であり、政治的な選択でもあります。生活と政治は不可分であり、「食べる」という基本的な営みには全てが複雑に絡み合っています。初回で書いた「自分で作って食べる」ことの特別さには、このことも含めなくてはいけないでしょう。その食材がどこでどうやって作られ、運ばれ、お店に並んだのか、私たちはなぜそれを選び、どのように料理し、いただくのか。その箸の先は、地球と繋がっているのです。
イキウメの由来は、生き埋め→「彼岸から此岸を見る」というもので、冗談のようで冗談ではなく、死者や妖怪、宇宙人、新人類、不老不死といった人間以外の存在を登場させることで、「人間てなんなん?」ということを描いてきました。人間以外のものに託されるのは、この社会の枠からはみ出してしまう存在だけではなく、社会(文明)に侵食される自然環境、地球そのものです。「獣の柱」(2013年初演)は都市文明を病巣とみなした地球の免疫機能が人間を排除しようとする物語ですし、「外の道」(2021年初演)は社会を捨てろと世界が呼びかける話でした。「人間てなんなん?」であり「社会ってこれでいいの?」ということです。人間中心主義への疑問であり、強者に都合のいい社会への疑問です。
ベジタリアンになって感じた解放感は、食‐生活‐政治性‐創作、この一体感だったのかもしれないと今は思っています。
さてと、次回はヴィーガンの店がおしゃれ過ぎてつらい問題と、界隈の無駄なセレブ感が新規参入者を遠ざけてないか問題、野菜だけのランチプレートがなぜあんなに高いのか問題など、問題山積みなので、そのあたりを語っていくつもりです。大丈夫、ちゃんと演劇に戻ってくるから。
- 前川知大
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1974年、新潟県生まれ。劇作家、演出家。目に見えないものと人間との関わりや、日常の裏側にある世界からの人間の心理を描く。2003年にイキウメを旗揚げ。これまでの作品に「人魂を届けに」「奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話」「関数ドミノ」「天の敵」「太陽」「散歩する侵略者」など。2024年読売演劇大賞で最優秀作品賞、優秀演出家賞、2025年最優秀演出家賞を受賞。
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前川知大 Tomohiro MAEKAWA @TomoMaekawa
この連載も12回目になります。当初は6回くらいという話でした。編集者に「まだ書くことあるか?」と聞かれたので、「まだ始まってもいねぇよ」と答えたところ、続けさせていただくことになりました。 https://t.co/Qky5LU0zjS