いしわたり淳治|音楽を続けられるのは 努力を努力と思わない人

楽曲やライブなどを通じてリスナーの生活に潤いを与えてくれるアーティストやクリエイターは、普段どのようなことを考えながら音楽活動を行っているのだろう。日本音楽著作権協会(JASRAC)との共同企画となる本連載では、さまざまなアーティストに創作の喜びや苦悩、秘訣などを語ってもらいつつ、音楽活動を支える経済面に対する意識についても聞いていく。

第12回は、作詞家 / 音楽プロデューサーのいしわたり淳治が登場。SUPERCAR解散後、プロデューサーを経て作詞家への道を歩み始めたいしわたりは、これまでSuperfly、Little Glee Monster、少女時代などさまざまなアーティストに歌詞を提供してきた。その数は実に700曲以上にものぼる。しかし当初、レーベルの社長に「作詞家は食べていけない」と大反対されたという。それでも作詞家にこだわった理由や、職業音楽人として生きる秘訣などについて話を聞いた。

取材・文 / 張江浩司撮影 / 大城為喜

プロフィール

いしわたり淳治(イシワタリジュンジ)

いしわたり淳治

1977年生まれ、青森県出身の作詞家 / 音楽プロデューサー / 作家。1997年にロックバンドSUPERCARのメンバーとしてデビューし、全楽曲の作詞を担当する。2005年のバンド解散後は作詞家 / 音楽プロデューサーへ転身し、現在までに700曲以上の楽曲制作に携わる。執筆活動も行っており、著作に20万部発行の短編小説集「うれしい悲鳴をあげてくれ」、エッセイ「次の突き当りをまっすぐ」など。2021年に新ユニット・THE BLACKBANDを結成し、そのメンバーとしても活動中。

インディーズ活動なしに突然のデビュー

──いしわたりさんがSUPERCARのメンバーとしてメジャーデビューした当時はまだ学生でした。ライブもほとんどしたことがない状態で、「音楽で生きていく」とはなかなか実感できなかったんじゃないですか?

この連載でSUPER BEAVERの柳沢(亮太)くんも言ってましたけど、何をするにも親のハンコが必要な年齢でしたからね(参照:SUPER BEAVER 渋谷龍太&柳沢亮太インタビュー)。覚悟があったのかどうかもわからないです。「なんか面白いことが始まるぞ」くらいの感じでスタートしました。

──下積みの経験もないですし、職業としてバンドを捉えることも難しいですよね。お金の流れもわからないでしょうし。

著作権という言葉はもちろん知っていましたけど、どういう仕組みになっているのかは知らなかったです。「JASRACというところが著作権料を集めてくれるんだよ」と説明してもらった記憶はありますね。当時、ソニーのEPIC Records内のdohb discsというレーベルに所属していたんですが、スタッフも7、8人しかいなくて。下北沢に小さな事務所兼スタジオがあって、まだ学生だったから週末になると上京して、そこでレコーディングしたり取材を受けたりして、終わったら空港に運ばれて青森に帰って、また次の週末に東京に来て、という生活でした。

いしわたり淳治

──あれよあれよと物事が進んでいってメジャーデビューしたという。

青森の田舎からインディーズでの活動もなしに突然デビューしたので、すごいことが始まると思ったんですよ。でも、蓋を開けてみたらそうでもなくて。特に地元では何も変わらないというか。レコード店が1軒だけ僕らのCDを面出ししてくれていて、「ああ、これは気を使われてるな」と思って気恥ずかしかったです(笑)。

──「デビューしたら世界が一変するかも!」という期待があったと。当時は今よりもメジャーデビューという言葉に、得体の知れない夢みたいなものがあった気がします。

派手さがありましたね。キャッチーな響きでした。

──そういった状況の中で、「音楽で生きていく」という確信を得たタイミングは覚えていますか?

1997年9月に1stシングルがリリースされるんです。その次は翌年の2月にシングル、4月にアルバムが出る予定だったんですが、東京では反響があったみたいで1997年12月にもう1枚シングルをリリースしようということになったんですね。「予定よりシングルが多く出るってことは、俺たちは人気がないわけでもなさそうだ」と思ったことを覚えています。それでも、これで暮らせるかどうかはまだ考えてなかったですね。

──バンドとしての手応えは感じたと。

実際に、アルバムが発売されたときには、ちゃんと認知されてきている感覚がありました。

──音楽活動を職業として捉えたのはいつ頃なんでしょう?

アルバムが出る直前、1998年の春に学校を卒業するわけですよ。それまでは「なんかシングルが何枚か出てる人」という感じで学生気分でしたが、同級生が働き始めると「私はこれが仕事なんだな」と思うようになったのかな。28年も前なので、リアルな気持ちは正直わからないですけど。当時の自分に心境を聞いてみたいですね。とにかく忙しくて、ずっとレコーディングしていました。

自分の作詞がどこまで通用するか試したかった

──SUPERCARでは全曲の作詞を担当されていました。当時、メンバーからは歌詞に対してのリアクションはほとんどなかったそうですね。

誰も何も言ってくれないから自分で自分を見張るしかないんだということは、すごく強く意識していたと思います。自分が「これをテーマにするんだ」と決めなければ何にもならない。なんとなくでやってはいけないと、スイッチを入れました。

──ストイックにならざるを得ないですね。

そうなんですよ。孤独は孤独でしたね。レコーディングで合宿していても、みんなが楽しくごはんを食べて酒を飲んでいるときに、僕は1人だけ歌詞を書かなくちゃいけないようなこともあったし。そういうものだと思っていたので、つらいと感じたことはないですけど。そこで楽なほうに流されちゃいけないんだろうなとは思っていました。

──バンド以外でも作詞をしていこうという気持ちは当時からあったんですか?

ないです。バンドは不思議なもので、「このお祭りはいつか終わるんだろうな」と思いながら、永遠に続いていくようにも思える。明らかにアンビバレントというか、同居しないものを心の中に抱えながら日々暮らしているんです。夢の中を歩いているような感覚があって、現実離れしているんですよね。あれは健全な状態とは思えない。

──SUPERCARというバンド自体が、突然ふっといなくなってもおかしくない雰囲気を常にまとっていました。

アルバム単位で音楽性をガラッと変え続けたので、いつ何が起きてもおかしくないような。自分たちもリスナーも、びっくりすることに慣れちゃってる(笑)。そういうはかなさはあったような気がしますね。何かが積み上がってきたわけではなく、突然終わってしまう匂いが、最初からあったのかもしれない。

いしわたり淳治

──2005年にバンドが解散して作詞家の道に進まれるわけですが、当初はレーベルの方にも反対されたそうですね。

当時はほとんど自作自演のアーティストしかいなかったんです。「作詞家で食っていくということは、チャートで1位を取っているビッグアーティストが『歌詞を書いてください』とお願いしに来るということ。お前はそんな未来を想像できるのか?」とレーベルの社長に言われて。それくらい作詞家の仕事がなかった。なので、作詞家はいったん置いておいて、数年間プロデュースの仕事をしていました。

──しかし、作詞家でやっていくということが念頭にあったと。

自分のストロングポイントはそれぐらいしかないと思っていたし、自分の作詞がどこまで通用するか試したい気持ちもあったんですよね。僕はSUPERCARというサブカルの権化みたいなバンドにいた一方、メジャー志向で「NHK紅白歌合戦」にも出たかったし、「ミュージックステーション」にも出たかった。自分1人になったんだから、そこを一度目指したい。そのための一番の近道は、自分にとって作詞なんじゃないかと思ったんです。

作詞家は「変な仕事」

──ソロで音楽をやったり、小説を書いたりするよりも、作詞だろうと。

小説も考えたりしましたが、僕はそのとき27歳で、すでに綿矢りささんや金原ひとみさんが10代で芥川賞を獲っていたんです。仮に今から小説を書いて賞を獲っても、このインパクトには勝てないから、「もうこっちのルートはないじゃん」と思って、考えるのをやめました(笑)。そういう意味では音楽プロデューサーもたくさんいて、僕なんかよりもプロデューサー然とした人を相手に戦うのは向いていないと思っていましたね。でも僕に頼んでくれるチャットモンチーや9mm Parabellum Bulletがいて、その子たちの音楽を一番いい形で世の中に紹介してほしいと言われたら、できないこともないなと。そういう気持ちでがんばっていました。あと、あの百戦錬磨のレーベルの社長が「作詞家なんて食えるわけない」と言うんだから、目指す人が少ないジャンルなわけですよ。裏を返せばブルーオーシャンということで、僕はきっと息がしやすいんじゃないかなと。なので、心の中では作詞というものを極めたいという気持ちを、腐らず絶やさずに持っていました。

──以前のインタビューで、「プロデューサーは各現場に1人しかいないから誰かを参考にすることもできなかった」というようなことをおっしゃっていたのが印象的でした。

本当にその通りなんですよ。それでも、レコーディング現場にはエンジニアさんがいるじゃないですか。エンジニアさんはいろんなプロデューサーを見てきているので、「こういうときって皆さんどうされてるんですか?」という聞き方はできるんですよね。あるいは「こうしたいんです」と伝えれば話し合ってそこを目指すことができる。でも、こと歌詞に関しては打ち合わせでオーダーをブワーッと伝えられて、まだ書いてもないのに「締め切りは1週間後ですね、わかりました」なんて言って持ち帰るんです。帰り道に「変な仕事だな」と思うんですよ。自分でもできるかどうかわからないのに(笑)。もちろん実際に何かしら書いて提出するわけですけど、不思議な仕事です。

いしわたり淳治

──その打ち合わせでは具体的なリファレンス(参考資料)を突き合わせていくんですよね?

そうですね。リファレンスを出してもらったほうがありがたいです。クライアントが何をカッコいいと思っているかを知ることができるので。最初に「あの曲のこういうところがカッコいいと思うんですよね」という会話はなるべくしたほうがいい。何もなく「お任せです」で書いたあとに「これは違いますね」と言われちゃうと、どう違うのかもわからないですし(笑)。お互い、何か事件を起こしたくて一緒に仕事するわけじゃないですか。まだ形になっていないワクワクすることをやりたいのであれば、チューニングは必要だと思います。