the paddles「結婚とかできないなら」インタビュー|バンド1本で突き進む3人のリアル

大阪府寝屋川市出身のスリーピースロックバンド・the paddlesが、12月3日に3rd EP「結婚とかできないなら」をリリースした。

2014年に高校の軽音楽部で前身バンドが結成されてから11年。the paddlesは今年2月にそれまでサポートドラマーだった渡邊剣人を正式メンバーに迎えた体制になり、新たなスタートを切った。「結婚とかできないなら」は現体制初のEPで、先行シングル「夏の幻」を含む全6曲が収録されている。

音楽ナタリーでは新作をリリースしたthe paddlesの柄須賀皇司(Vo, G)、松嶋航大(B)、渡邊剣人(Dr)の3人にインタビュー。柄須賀も松嶋も27歳になり、身の回りで結婚の話題が増えているといったリアルな日常から着想を得た新作の話題はもちろんのこと、3人の音楽的バックグラウンド、配信全盛の現代においてフィジカルのCDを制作する意義など、バンドの根幹を成す事柄についても語ってもらった。

取材・文 / 平賀哲雄撮影 / 宇佐美亮

歳を重ねるほどに“共感”が増えていくバンド

──音楽ナタリー初登場ということで、まずはthe paddlesがどんなバンドなのか掘り下げていきます。高校生時代に結成した前身バンドからカウントすると、10年以上活動しているんですよね。

柄須賀皇司(Vo, G) 今年で結成11年なので、こっそり長い。若ぶってますけどね(笑)。若手バンドに紛れるようにしています。

──まだ全然若いと思いますけどね(笑)。今年「25歳」という曲をリリースしたばかりですから。

柄須賀 今、僕と航大は27歳なんですが、なんとか粘ってます!

──自分たちでは、今the paddlesはどんなバンドになっていると感じますか?

柄須賀 ずっと意識しているのは、「等身大」です。その年齢のときにしか書けないものを書き続けてきました。高校、大学、そして僕らは社会人も経験してきていて、今は音楽活動に専念できているんですけど、それぞれの世代で出会った人がずっとついてきてくれている印象があります。なので、歳を取れば取るほど僕らの音楽に共感してくれる人が増えている。そんなバンドになれているのかなと思いますね。

──ということは、単純計算だと活動を続ければ続けるほどファンが増えていく。

柄須賀 102歳ぐらいでマックスに到達する計算です(笑)。

松嶋航大(B) the paddlesは、ライブをやっていても、SNSとかを見ていても、お客さんも一緒になって「盛り上げていこう、前へ進めていこう」みたいなムードを作れているバンドになっているなと思いますね。

the paddles

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銀行勤務を経てバンド一本道へ

──渡邊さんは、今年加入したばかりなんですよね?

渡邊剣人(Dr) そうなんです。もともと僕はスタジオミュージシャンで、いろいろなバンドのサポートドラムをやっていたんですけど、地元千葉のバンドをサポートしていたときに大阪遠征で対バンしたバンドがthe paddlesだったんです。そこで出会って、「ウチでもサポートしてよ」と誘ってくれて、それ以前からthe paddlesの名前はよく聞いていたし、どんどん人気が出ていく流れを見ていて「こんなバンドと一緒にやれたらな」と僕も思っていました。それで、サポート期間を経て正式メンバーになったんですけど、その願いが叶った感じですね。

──実際にメンバーになって半年が経ちましたが、いかがですか?

渡邊 めっちゃ楽しいです。加入当時のドキドキもちょっと落ち着いてきて、今は馴染んでいる感じがあるので、ここからもっとひとつになってどんどん上へ上へ昇っていけたらなと思っています。

──こういう取材を受ける機会も増えてきているんですか?

柄須賀 3人での稼働はこのタイミングからですね。この間までベースの航大は社会人として働いていたので、平日の日中は動けなかったんですよ。なので僕が1人でインタビューを受けるパターンが多かったんですけど、ここからはこの2人にもっとしゃべってもらおうと思っています! 3人の考えが固まってきていると思うので、それが世に放たれたらいいですね。

──では、今はほかの仕事をしなくてもバンドができるようになったということですね。

柄須賀 まだ予断を許さないけど、うっすらそういう状況になりました。僕は銀行で3年働いて、辞めてから今年の10月で丸2年経ちました。今はなんとかバンドだけで生活できているんですけど、こうなってからのスピード感はすごかった。3人ともバンドに全集中できている。剣人と出会ったのが2023年8月なんですけど、その2、3カ月後に退職して「僕がバンドだけに人生全振りしたらどうなるんやろう?」と思っていたら、むっちゃ前に進むようになって。

──そのために銀行員を辞めたんですね。

柄須賀 当時、僕が勤めていた銀行の専務によるボーナス面談みたいなのがあったんですよ。ボーナスを支給するうえでの「最近どう?」みたいな。そのタイミングで「お前は仕事終わってからの時間だけで、ホンマにやりたいことをまっとうできるんか?」と聞いていただいたんです。「お前がちゃんとやりたいようにやれ。このまま銀行に勤めながらやっていくのならそれはそれで受け止めるけど、普段のお前を見ていて、やっぱりバンドに心があるのではないかと俺は感じる」と。そこからちゃんと考えて決心がつきました。

──めちゃくちゃいい上司じゃないですか。松嶋さんが仕事を辞めるときはどんな心情だったんですか?

松嶋 ドラムの剣人が今年加入して、来年に向けてツアーも含めていろいろ決まっていたので、スケジュールの問題もあるし、バンドに集中するべきだと思ったんですよね。

柄須賀 もう限界やったもんな。

松嶋 前に仕事しながらツアーを回ったときは、午前中だけ仕事しに行って、自分だけ新幹線とか飛行機でライブ現場へ向かっていたんですよ。でも、今は仕事を辞めて、バンドのことを考えられる時間が増えたし、バンドに集中できる状態が自分には合っているなと感じています。

渡邊 僕も千葉から大阪に引っ越して、メンバーと物理的に近くなったことによってバンドの一体感が増したと思います。今はバンドのことに集中していろいろ考えられる状態になっているので、そこはすごく変わりましたね。

J-POPの申し子

──音楽的なバックグラウンドについても伺っていきたいのですが、まず柄須賀さんはどんな音楽を聴いて育ってきたんでしょう?

柄須賀 家で無限に音楽が流れていたんですよ。母親がめちゃくちゃ音楽好きで、僕が物心つく前からユーミン(松任谷由実)をずっと流していて。で、僕は1998年生まれで、あゆ(浜崎あゆみ)だったり、aikoさん、宇多田ヒカルさん、椎名林檎さんが台頭した時代に生まれたんですけど、母親はそのへんの音楽に対しても敏感だったからよく流れていたんですね。小室ファミリーとかも。そんな中で幼年期の僕が初めて口ずさんだ曲が、LOVE PSYCHEDELICOでした。

──どんだけカッコいい子供なんですか。

柄須賀 いいでしょ? 3歳のときに幼稚園の先生が母親に「皇司くんが今日何か口ずさんでいたから、耳を立てて聴いてみたら、LOVE PSYCHEDELICO『Last Smile』やったんですよ。家で流してはりますか?」って聞いたらしくて(笑)。「運命線からother way♪」って歌っていたみたいです。そのあと、DOUBLEさんとか宇多田ヒカルさん、R&Bもよく流れている家庭で育って。で、小学校3年生ぐらいのとき、Superflyさんが「ハロー・ハロー」でデビューされて、そこからSuperflyさんのおかげで歌がめっちゃ好きになりました。

柄須賀皇司(Vo, G)

柄須賀皇司(Vo, G)

──日本のJ-POPシーンのド真ん中を通ってきたと。

柄須賀 中学生になると、周りの流行に合わせるようになって、BIGBANGにハマったんです。初めて行ったライブもBIGBANGの京セラドームで、カラオケでもたくさん歌って。EXILEとか湘南乃風もよく歌っていましたね。それまで友達の影響でピアノを習っていたんですけど、やっぱり自分は歌が歌いたいなと思って、それで軽音部のある高校に入ってバンドを組んだんです。そこからはアジカン(ASIAN KUNG-FU GENERATION)、Base Ball Bear、チャットモンチーが僕の中心にいて「よくよく考えたら家で流れていたアレもバンドやったな」とTHE YELLOW MONKEYのこともめちゃめちゃ大好きになりました。あと、JUDY AND MARYとかthe brilliant greenも後追いで好きになって。とにかく日本の音楽が大好きで、ずっと聴き続けていました。なので、マジでイントロ当てクイズは強いです(笑)。

──そんな中で、自分のバンドでは、当初どんな音楽をやろうとしていたんですか?

柄須賀 アジカンみたいなことがやりたいと思っていました。4つのコードだけでどれだけ最後まで曲を回せるか、みたいな。そういう音楽がロックとしては好きで。ただ、そこに乗っかるメロディはどう足掻いても90年代、00年代の感じに自然となっているというか。なので、いろんな人に聴いていただいてよく言われるのは「古い」っていう(笑)。でも、そう言われるのはめちゃめちゃうれしいし、より意識するようにもなりました。もちろん今のロックとかも好きですけど、やっぱり平成の日本で流れていた音楽みたいなものをやりたい。日本人が持っている表のメロディというか、そういうものをずっと描き続けるバンドでありたいなとすごく思っていますね。

J-ROCKの申し子

──続いて、松嶋さんはどんな音楽遍歴を歩んできたのでしょう?

松嶋 幼少期は、父親の影響でスキマスイッチを聴いて育ちました。小学生の後半ぐらいは、流行りのGReeeeN(現GRe4N BOYZ)とかを聴いていたんですけど、中学生のときはバンド好きな友達がいて、そいつが[Champagne](現[Alexandros])が好きで自分も聴くようになって。あと、アニメの影響でSPYAIRを知って「めっちゃカッコいいな」と思い、高校に入ったら自分もバンドをやろうと。それで軽音部に入ってこのバンドを結成したんです。

──そこで柄須賀さんと出会ったんですね。

松嶋 高1のときに軽音部に入ったら「バンドを組んでください」と言われて。で、中学生の頃から自分はギターやドラムには惹かれなくて「バンドをやるなら、ベースがいい」と思っていたからベースを担当することになったんです。コピバンみたいなところから活動をスタートさせた感じですね。

松嶋航大(B)

松嶋航大(B)

柄須賀 最初はDOESの「バクチ・ダンサー」をコピーしましたね。あとは、銀杏BOYZ、アジカン、Base Ball Bear、ナッシングス(Nothing's Carved In Stone)、マンウィズ(MAN WITH A MISSION)……。

松嶋 KANA-BOONもやったね。

柄須賀 僕らが高校生のとき、KANA-BOONがすごい勢いで売れていったときやったんで。

──銀杏BOYZもコピーしていたんですね。「25歳」や最新EP「結婚とかできないなら」の1曲目「ちぎれるほど愛していいですか」を聴いたときに、青春パンクも通ってきている人たちなのかなと感じたので、合点がいきました。

柄須賀 マジっすか。それはうれしいですね。ガガガSPのコピーとかもしていたんですよ。この間、神戸の音楽フェス「COMING KOBE」で前田さん(コザック前田。ガガガSPのボーカル)と朝5時ぐらいまで打ち上げさせてもらったんですけど、そこで「めっちゃコピーしてました!」「マジか!」という話をして、めちゃくちゃうれしかった。