音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第6回のゲストは
取材・
向井秀徳と同じ時代を共有できてよかったと心から思う。バンドでもソロでも、音楽に対する彼の誠実さと不敵さ、カッコよさとバカバカしさの共存には、いつも感動すら覚える。実は、NUMBER GIRLで衝撃的なメジャーデビューを飾る少し前に、僕は博多の街で彼とたまたま出会い、酒を飲んだことがある。博多で出会った変わった青年の印象は一夜限りの思い出となるはずだった。しかし、彼はそのあとにすごい音楽を作り続け、信じられないことにしゃべる様子も性格も、あのときとまるで変わらない。まるで昨日のことのように詳細に語られるNUMBER GIRLのデビュー前夜話は、あの夜の延長戦のように缶ビールを開けながら始まった。
ジョナサン・リッチマンのPAをしていたメガネの青年
私と松永さんは実は歴史が深いんですよ。
──それは僕が1999年に出したZINE「リズム&ペンシル」を持っている人だけが知っている話ですね(※向井が同誌のジョナサン・リッチマン特集号に寄稿している)。1997年6月初めのある日、僕と向井さんは福岡にあるライブハウス、DRUM Be-1で出会っています。
DRUM Be-1というライブハウスは福岡の老舗なんですけど、場所的には東京で言えば丸の内にあるような感じ。いわゆるオフィス街。新宿や渋谷とかにあるロケーションじゃない。私はそこで松永さんと会いましたね。
──ジョナサン・リッチマンのジャパンツアーを追っかけて僕が福岡に行き、昼間のリハを見せてもらっていたんですが、そういうオフィス街的な場所なので、PAとして来ていたメガネの青年に「このあたりで、どこか食べるとこありますか?」と聞いた。
それで「なんもなかですよ」と私は答えましたね。当時バイトしていた音響会社とBe-1に縁があって、ジョナサン・リッチマンのライブに私がPAとして駆り出されたっていうことですね。「ジョナサン・リッチマンだぞ。俺でいいのか?」みたいな。
──そんな感じ? ああいう現場に慣れているのかと思ってました。
「何もしなくていい」みたいなことをジョナサン本人に言われましたね。本当にただマイクを立ててスピーカーから音が出ればいい、みたいな感じだった。完全生音で、ジョナサン・リッチマンとドラマー(トミー・ラーキンス)の2人体制。ギターのツインリバーブは鳴らしたけど、ちーちゃい音ですよ。ドラムも小さい音で、歌に寄り添ってるみたいな。そのわりにすごくダイナミズムがあってですね。やっぱり振り幅がすごいですね。感動しましたよ、ジョナサン・リッチマンを目の当たりにして。私は何もしてないですけどね。フェーダーも全然動かさない。本人が全部コントロールするから。切ないときは切ない顔をするし、楽しそうなときは楽しそうにダンスする。本当に感動しました。
──そしたら終演後、さっきのメガネの青年に「大名(福岡の飲み屋街)のあたりで飲むから来ませんか?」って言われたんですよ。「そんな展開あるの?」と思いました。
ライブが終わったら打ち上がるからね、福岡の人間は。ジョナサン・リッチマンに一緒に付いてきてる松永さんって面白そうな人だなと思って誘ったんですよね。地元の友だちもいっぱい集まってね。
──CAPSULE GIANTSの横溝礼央くんとかいましたね。
いっぱいいたよ。その界隈の福岡のバンドマン。
──そのとき「NUMBER GIRLというバンドをやってます」と自己紹介されました。
そこで私がアピールしたんだね。
──まだ、カセットを出したくらいと言ってたかな?
当時の私どもの音源といえば4トラックのMTRで作ったライブの現場で売ってるカセットですよ。それをそのとき持ってきてなくて。松永さんみたいな人にこそ渡さないとダメですよね。
個性豊かなバンドが集った「チェルシーQ」
──その夜はかなり楽しかったし、博多の街で面白い人に出会ったという記憶を持って東京に帰ったんです。そしたら、その年の11月にNUMBER GIRLの1stアルバム「SCHOOL GIRL BYE BYE」が出たんですよ。それをたぶんリリース間もないタイミングで下北のハイラインレコードだったか、どこかで見つけて買いました。福岡で会った彼のバンドだと覚えていて。
ありがとうございます。
──それが僕のNUMBER GIRLとの出会いですね。
まさに、そこが今日のお話につながるわけよね。当時、私はバイトしながらバンド活動してましたよ。福岡のライブハウスに出てね。当時の福岡のライブハウスの状況と言うたらですね、さっき言いましたように、オフィス街にあるDRUM Be-1界隈と、またそれと別の界隈がありまして。Be-1っていうのはひと言で言えば非常に博多っぽい。言うなれば、博多めんたいロックの流れにあるライブハウスなんですよ。それで天神のほうにはビブレホールという会場があって。ビブレっていうのは福岡のファッションビルですね。その中にライブハウスがあるんですけど、ここはライブハウスというか多目的スペースみたいな感じ。私どもNUMBER GIRLはビブレホールを拠点に活動していました。
──「博多っぽい」シーンというのは、独特なものがありますよね。
そうです、そうです。私たちは、その全盛期とはけっこう年代にブランクあるし、Be-1にも出てなかったから、実際のシーンはよく知らないんですよ。Be-1に出ていたらいろいろあったと思うんやけど。説教食らったりね。そういうムードが漂ってくるから近寄らないようにしていた(笑)。ただ、ビブレホールが拠点ではあったんだけど、自分たちが思い描くような活動をする場所は当時なかったんです。だから、それを自分たちで作ろうという行動を起こしたよね。自分たちで企画してイベントを作り上げた。それが「チェルシーQ」というオールナイトのイベント。
──先輩後輩とか、ノルマとか関係なくやろうと?
イベントの制作費を稼ぐために、出演してくれるバンドの人たちに「はい、これ」ってチケットを渡して。「買い取りお願いします」っていうのはしてたから、まあそれはノルマですよ(笑)。それはやらざるを得なかった。ただ、当然それ以上売れたら、ナンボでもあんた方の取り分ですよ、と。
──お客さんはどれくらい来てたんですか?
初回は100人ぐらいのキャンパシティの会場でやって、まあ毎回それくらいは来てたよね。友達を総動員してさ。イベント自体は1994年から始まったような気がする。我々が東京に出たのは1998年だから4年ぐらいやったのかな。イベントの中心になったバンドで、福岡の東区に
NUMBER GIRL結成
コグレマー助|呑みキャンプ&新メニュー食べ職人🥡⛺️ @kogure
“東京発信じゃなく地方発信。アメリカのインディーシーンと同じような感じでしたね。いわゆる同時代性ですよ。アメリカで言うところのシアトルから音楽を発信するみたいなことをやりたかったんだね。” / “向井秀徳、福岡でのインディーズ時代を語る | あの人に聞くデビュー…” https://t.co/XO0A0zsrdw