髙山徹

エンジニアが明かすあのサウンドの正体 第15回 [バックナンバー]

Cornelius、くるり、スピッツ、indigo la End、sumikaらを手がける高山徹の仕事術(前編)

出音がカッコよければ何でもいい、機材へのこだわりはない

882

誰よりもアーティストの近くで音と向き合い、アーティストの表現したいことを理解し、それを実現しているサウンドエンジニア。そんな音のプロフェッショナルに同業者の中村公輔が話を聞くこの連載。今回はCornelius、くるり、スピッツ、indigo la End、sumikaらの作品を手がける高山徹に、彼が拠点としているSwitchback Studioで話を聞いた。

取材・文 / 中村公輔 撮影 / 藤木裕之

車のエンジンを分解していた幼少期

──高山さんはどんな子供でしたか?

もともと機械が好きで、目覚まし時計とかラジオとか、目についたものはほとんど分解していました。そのうち車のエンジンも分解し始めて、親が「それ以上は止めてくれ」って言って、代わりに親戚の農家から壊れた耕耘機のエンジンをもらってきてくれたんです。それを分解してきれいにして組み直したらエンジンかかっちゃって、かなり焦った記憶があります(笑)。

──音楽との関わりは?

6歳上の兄がバンドをやっていて、Led ZeppelinとかDeep Purpleのコピーをしていました。その影響で洋楽を聴くようになって。当時はThe BeatlesとかThe Monkeesとか、ポップなものが好きでしたね。あと、あるときテレビで、テープレコーダーの消去ヘッドにビニールテープをいっぱい貼って、前に録った音を消さずにどんどん音を重ねて摩訶不思議なノイズミュージックみたいなものを作ってる人が出ていたんですよ。それを観て、「これ面白い!」と思って自分でもやってみました。当時、英語学習用のLLカセットというラジカセがあって、2trの片チャンにお手本の英語の発音が入っていて、もう片チャンに自分が発音したものを録音して学習するというもので、それ使って片チャンにリズムを録って、もう片チャンにコード、消去ヘッドにテープを貼ってそのうえからメロを重ねたりしてました。オープンリールのMTRが出始めた頃なんですけど、とても買える値段じゃなかったので。そんなことを小学生の頃にしてましたね。中学生のときにはYAMAHAのCS01というシンセを買って1人でYMOの真似をしたり、高校生のときは当時流行っていたAsiaやJourneyのコピーバンドでドラムを叩いたりしてました。

──そこからどうしてエンジニアになろうと?

高校のとき、ようやく買えたカセットMTRで友達と多重録音するのが好きで、ハービー・ハンコックの「Rock It」やポール・ハードキャッスルの「19」なんかを真似して、ニュースのナレーションを録音してリズムトラックに乗せたり、テープコラージュ的なことをやったりしていたんです。お金がなくてリバーブが買えなくて、そこで思いついたのが井戸リバーブ(笑)。田舎なんで庭に古井戸があったんですよ。そこにマイクと自作のスピーカーを吊るして、天然の残響音を録音していました。何回かやってるうちに湿気でスピーカーがカビてきちゃいましたけど(笑)。そうこうしているうちに、自分は人前で演奏するより音を作るほうが好きだと気付いて。いろいろ調べているうちにレコーディングエンジニアという職業があるのを知って、親に大反対されたんですけど専門学校に行きました。

──専門学校に行ってからはどういう流れでエンジニアに?

その専門学校のロビーに、当時代々木にあったSTUDIO TWO TWO ONEというレコーディングスタジオの求人が貼ってあったんです。エンジニアの求人じゃなくて駐車場の移動係と電話番のアルバイトの募集だったんですけど、行ったらどうにかなるだろうと思って応募して。バイトが終わっても全然帰らないで先輩のエンジニアにレコーディングのことを根掘り葉掘り教わってたら、牧野英司さん(※BUMP OF CHICKENなどを手がけるエンジニア)に拾ってもらってアシスタントを始めました。

──拾ってもらうというのはどういう形で?

STUDIO TWO TWO ONEは青山レコーディングスクールという専門学校が出資したスタジオだったんですけど、母体の会社が潰れてスタジオが閉鎖されて、中にいた人が全員解雇されちゃったんです。その後また新しいオーナーが見つかって、再開することになったときに、牧野さんが「あいつ使おうよ」って言ってくれて入れてもらいました。

フリッパーズは最後の最後までよくわからない

──そのスタジオにフリッパーズ・ギターが来て高山さんがレコーディングを担当されたんですよね?

はい。2枚目の「CAMERA TALK」(1990年6月リリース)のときに、最初は吉田仁さんがプロデューサーをやりながらレコーディングもしていたんですけど、僕がアシスタントエンジニアとして横についてサポートしていたら、そのうちに「録りもやって」と言われて。

──当時のレコーディングはどういう感じだったんですか? 「DOCTOR HEAD'S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-」(1991年7月リリース)はサンプリングが多いですけど、その頃はPro Toolsは使っていないですよね?

SONYのPCM-3348という48trのデジタルテープレコーダーがあったんですけど、それを2台並べて同期させてました。あのマシンはタイムコードベースで動いていたので、この小節は何分何秒何bitというのを毎回計算して、「アブソリュートタイムがいくつだから、ここでパンチインしてつないで……」っていうのをずっと計算して。そういうめちゃくちゃ面倒くさいことをやってました。作り方としては、本人たちの頭の中では鳴ってるんですが、最後の最後まで周りはよくわからないんです。「なんでこれ録るんだろう?」みたいな。「ヘッド博士」では、パーツごとに全部レコーディングしていって、最後に「あ、これとこれが組み合わさってこうなるんだ」とわかる感じでした。

──では生楽器の録りも素材録りみたいな、サンプリングみたいな感じだったということですか?

そうですね。あとレコードもいっぱい聴いて「こういう感じの音にして」と言われることが多かったです。「すごい汚いんだけどカッコいいこの音は、いったいどうやって作っているんだろう?」と推測していくことで、けっこう鍛えられました。たぶん好きじゃないとやれないくらい面倒くさい作業の連続でしたけど、僕は子供の頃からそういう作業が好きだったので。

髙山徹

髙山徹

次のページ
単音で録ったものを左右に配置してコード感を出す

リンク