志磨遼平

渋谷系を掘り下げる Vol.3 [バックナンバー]

ドレスコーズ・志磨遼平が語る憧憬とシンパシー

「『本物になんかなるものか!』という姿勢がカッコいい」

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優れた船頭としての役割

──渋谷系カルチャーには優れた船頭さんがいるイメージがあって。フリッパーズ・ギターの2人や小西康陽さん、あとは編集者の川勝正幸さんだとか。その人たちのレコメンドが確実に次の流行を示していると実感できるような。志磨くんにはそういう人はいましたか?

今お名前が挙がった方々はもちろん、90年代に活躍されていたミュージシャンは皆さん本当に音楽に詳しかったので、あらゆる人たちから影響を受けてましたよ。例えばTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの皆さんがインタビューでパンクのレコードをたくさん紹介してくれたり。あの頃は音楽誌で「◯◯◯◯のオススメの10枚」みたいな企画がいつもあって、そういうリストを教科書代わりにしていました。「チバさんが好きだと言っているガレージパンクってなんだ?」と思って、和歌山で唯一の中古盤屋さんに探しに行ったり。でも田舎のお店なんで、ジャンルで仕切りがあるわけでもなく、ただアーティスト名をアルファベット順に並べただけの棚で。その中からガレージパンクのCDを探し当てるのは本当に至難の業で(笑)。

志磨遼平

志磨遼平

──ですよね(笑)。

で、「オムニバス・VA」のコーナーに1枚だけ「UK GARAGE」って書いてあるCDがあって、「やった!」と思って買って帰って聴いたらハウスのコンピレーションだったり(笑)。

──ガレージじゃなくガラージュだった。

などなどの失敗がありつつ、ガレージパンクやパブロックをミッシェルの影響で知ったり、イエモンからグラムロックを知ったり、サニーデイから70年代フォークを知ったり。僕らの世代はそういう感じでしたね。

時代の境目で変化したカルチャーの流れ

──でも今思えば、なんでそんなにみんなレコード聴いて、本読んで、映画観たりできたんだろうと思いますよね。どういう時間の使い方をしていたんですかね。

本当に。当時は今よりも情報が少ない分、皆さんカルチャーに対して貪欲だったんでしょうね。

──ネット普及以前という感じですよね。ちなみに志磨くんが上京したのは?

2001年です。

──じゃあ、サニーデイが解散したあとぐらいですかね。

そうです。「MUGEN」のツアーを大阪で観て、僕が東京に出た頃にはもう解散してましたね。上京した次の日がミッシェルの代々木公園のフリーライブだったんですけど、ミッシェルも間もなく解散して。

──ピチカート・ファイヴも解散後?

ですです。ラストアルバムの「さ・え・らジャポン」は和歌山で聴いていたので。そう考えると、2000年から2001年にかけていろんなバンドが解散したりして、カルチャーの流れも、あのあたりで変わったような気がしますね。

志磨遼平

志磨遼平

──僕は“20世紀またぎ”と呼んでいるんですが、時代をまたぐ過程でいろんなものが終わっていった気がします。

その一方で新しい流れとして、いわゆる「AIR JAM」世代というか、Hi-STANDARDとかのメロディックパンクやハードコアパンクの人たちがいるインディーズシーンが98年頃から急速に盛り上がって。スケーターファッションで、曲がむやみやたらに速くて、みんな英詞で。僕の周りもみんな飛び付いたんです。

──そうだったんですね。

ええ。ある日、友達がハイスタの2ndを持ってきて。それがとにかく衝撃的で、クラスのみんなで回し聴きして。CDの中に通信販売の小さいカタログが入っていて、オフィシャルのTシャツとかパーカが注文できるようになっていたんですけど、グッズのデザインも垢抜けてて。それまでのバンドのグッズって、いわゆる“ファングッズ”みたいなものばかりだったんですよ。普段使いできないというか(笑)。でもハイスタは、マーチャンダイズでお金を生み出して、そのお金でツアーを回る、っていうバンドの運営の仕方までが美学に含まれていて、いわゆる “DIY” みたいな姿勢もすごくカッコよく感じました。自分たちですべてやりくりしながら活動を続けるバンドの裏側をそれまでのバンドはあまり見せなかったので。

──音楽制作だけに集中みたいな。

海外の高級スタジオでレコーディングして、ツアーは新幹線で、衣装もバッチリで歌番組に出て……とか。そういうものとは違う、もっとインディペンデントなところからカルチャーが生まれた印象があって、それがリアルでカッコよくて。

渋谷系と「AIR JAM」周辺の共通性

志磨遼平

志磨遼平

──でも「AIR JAM」周辺のムーブメントって、渋谷系には括られないけれど明らかに延長線上にあるものだと思うんです。

あ、それは間違いなくそうだと思います! どちらもポップでスタイリッシュなカウンターカルチャーという意味においては。

──僕は90年代中盤にDJ BAR INKSTICKという渋谷のクラブでブッキングを担当していたんですけど、むしろ渋谷系っぽいものよりも、パンク系のイベントを持ってくるお洒落な若い子がいっぱいいて。最初は「なんでなんだろう?」と思ってたんだけど、よくよく考えると「LONDON NITE」の影響なんですよね。

ああ、なるほど。

──当時のストリートカルチャーを語るうえで、「LONDON NITE」も欠かすことができないと思うんです。「LONDON NITE」に遊びに行ってる流行に敏感な若い子たちが自分たちでイベントを始めて。その中でよくかかるのがCOKEHEAD HIPSTERSやNUKEY PIKESだったりして。

ああ、僕も大好きでした! 今の話で思い出したんですけど、最近YouTubeでキユーピーのCMのまとめみたいな映像が出てきて。あの頃のキユーピーのCMって映像も音楽も「Olive」感があって、90年代中盤はHIROMIXさんとか市川実日子さんが出てて、カジヒデキさんの「ラ・ブーム~だってMY BOOM IS ME~」とか渋谷系っぽい曲が使われてるんですけど、2000年代に近付くにつれて、SCAFULL KINGとかが使われるようになっていくんですね。渋谷系と「AIR JAM」周辺のムーブメントがスタイリッシュなものとしてシームレスにつながっていたんだなっていうことに改めて気付いて。

──確かに。

でも、そのあと音楽やカルチャーが、低年齢化するかオタク文化を受け入れるかの二択を迫られるようにどんどんなっていって。あそこで確実に何かが終わったと思うんですよね。特に音楽とファッションの強い結び付きみたいなものがなくなっていって。その後のバンドもアパレルとコラボとかしてるんですけど何かが違うんですよね。うまく言葉にできないですけど。

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「音楽を楽しもう!」と素直に言えない気持ち

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吉田光雄 @WORLDJAPAN

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