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横山剣(クレイジーケンバンド)

CKB横山剣に聞く横浜不良音楽の系譜

カップスからSuchmosまで世代を超えて受け継がれるハマのDNA

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横浜の海の玄関口、横浜港が開港したのは1859年のことだった。国際的な貿易港となったこの港からはさまざまな外来文化が輸入され、戦後になると米軍基地および米軍関連施設経由でアメリカのユースカルチャーがダイレクトに輸入された。横浜はそうした背景のもと、不良の匂いのするグループやアーティストを数多く輩出してきた町でもある。1960年代のザ・ゴールデン・カップスやパワーハウス、90年代のダンスホールレゲエやヒップホップ勢、近年のSuchmosに至るまで、なぜ横浜の地からは不良性感度の高い音楽が生まれてきたのだろうか。世代を超えたミュージシャンたちと交流があり、さる8月に横浜不良音楽の最新型ともいえるクレイジーケンバンドの新作「PACIFIC」を完成させた横山剣に、彼の地の不良音楽の変遷について解説していただいた。

取材・文 / 大石始 撮影 / 沼田学

60年代:ザ・ゴールデン・カップスとパワーハウス、そして横浜の不良少年少女たち

横浜の不良音楽史を考える際、原点となるのはやはりザ・ゴールデン・カップスだ。1966年12月に活動を開始した彼らは、グループサウンズ全盛期の中で異端のグループでもあった(当初の名前は「平尾時宗とグループ・アンド・アイ」)。村井邦彦らプロの作曲家による楽曲も歌い、歌謡界にも打って出た彼らだが、グループとしての本質はあくまでもアメリカのR&Bやサイケデリックロック。デイヴ平尾のシャウト、エディ藩のファズの効いたギター、ルイズルイス加部の強烈にドライブするベースは、90年代以降も再評価され続けている。

60年生まれの横山は、8歳の頃このザ・ゴールデン・カップスと出会っている。

「当時は子供にも人気があったし、僕もシングルやアルバムを通じてカップスを知ったんです。ほかのGSグループみたいにおそろいの服を着たりしないところもカッコいいなと思いました。カップスは今で言うとSuchmos的な立ち位置だったんですよ。クリエイティブで、それまでやってきたことをぶん投げてすぐ次にいっちゃう。ポップセンスもあって、そういうところもSuchmos的だったんです。僕より10歳ぐらい年上のいとこがカップスを追いかけていて、当時いろいろ教えてもらいました。彼らがライブをやっていた本牧のゴールデン・カップはすごく小さな店なので、メンバーはカウンターの上に座って演奏していたとか。当時は米兵もいっぱいいたわけで、すごく狭い中で演奏していたんだと思います」

横山によると、60年代の横浜において、文化的中心地となっていたのは本牧と伊勢佐木町だったという。終戦後、米軍住宅施設「横浜海浜住宅地区」として接収された本牧は最先端のアメリカ文化を体験できる町でもあり、60年代以降、米兵および関係者たちも出入りするバーやナイトクラブが立ち並ぶようになった。61年に開店したリキシャ・ルーム、クレイジーケンバンド結成の地となったイタリアン・ガーデン、ザ・ゴールデン・カップスが専属バンドを務めた上述のゴールデン・カップも64年12月にオープンしている。

また、そうした店は横浜の不良少年少女たちの遊び場ともなった。若者たちの一部はナポレオン党などのグループを組織。横山によると「暴走族というより、お洒落なカミナリ族ですね。ダンスパーティをやったり、朝比奈峠で車のタイムアタックをやっていた」そうで、女性だけのクレオパトラ党というグループもあった。こちらは現タレントのキャシー中島やモデルの山口小夜子、浅野忠信の母である浅野順子がメンバーだったという。

ザ・ゴールデン・カップスの活動に迫ったドキュメンタリー映画「ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム」(2004年)の中で、後期のメンバーだった柳ジョージは当時の状況についてこう話している。

「当時は貿易自由化の前で、1ドル360円の頃で。(レコードも)輸入盤ですから、みんなPX(軍隊内で飲食物や日用品などを販売する店)から買ってもらって。『これが今流行ってんのか!』と聴いて。日本ではまだThe Beatlesの時代。横浜のみんなはポール・バターフィールドなんかを聴いていた。東京でもソウルミュージックが流行る前ですね」

同映画の中ではデイヴ平尾もまた「当時の東京なんかすごく田舎だった。音楽にしてもファッションにしても横浜のほうが全然上だった」と話している。横浜だけでなく東京の不良たちとの関わりも深い横山は、横浜と東京を対比しながら、両者の関係性をこのように説明する。

「確かに洋楽に関して横浜はだいぶ進んでいたと思います。一方で僕は(東京・)青山のヒップな人たちも見ていたので、それぞれのセンスはあったと思いますね。原宿にも、もともと(米空軍の兵舎である)ワシントンハイツがあったり、案外横浜との共通点があったんですよ。ただ、横浜のほうが文化的にはより米軍の影響が強くて、基地経由で直接アメリカの文化が入ってきた。ハーフの人が多いというのも横浜の特徴だと思います。横浜と青山~原宿の不良の間でも敵対関係はあったと思いますけど、横浜の中でもいろんなことがあったんですよ。中華街のグループ、コリアンのグループ、ハーフのグループ、セント・ジョセフというインターナショナルスクールのグループ、そういう不良グループがたくさんあって、グループ同士のパーティつぶしもあった。僕はまだ子供だったんで、体験できなくてホッとしてるんですけど(笑)」

時代はベトナム戦争の真っ只中。本牧で遊んでいた米兵たちも、いつ戦地へと送り込まれるかわからない不安を紛らわすように酒に溺れ、音に揺られていたのである。そうしたヒリヒリしたムードが70年代初頭までの横浜には充満していたのだ。

横山が「カップスが表だとすると、裏の存在」と話すのがパワーハウスだ。正式な音源としては69年に「ブルースの新星~パワーハウス登場」という唯一のアルバムを残しているだけだが、“日本初の本格的ブルースロックバンド”とも呼ばれた彼らは、横浜不良音楽史において大きな功績を残したバンドでもあった。メンバーはCHIBOW(チーボー)の愛称でも知られる竹村栄司(Vo)、陳信輝(G)、柳ジョージ(B)、野木信一(Dr)。The YardbirdsやThe Beatlesのカバーも収めた「ブルースの新星」は、本牧の夜のムードが刻み込まれた傑作である。

「カップスもデビューしてからはプロの作曲家による曲もやるようになりましたよね。でも、パワーハウスは反抗的。The Beatlesの 『Back in the U.S.S.R.』をカバーしても原曲の形を留めないブルースにしてしまった。でも、そのほうが原曲よりヒップだったんですよ。CHIBOWさんは(キャンプ横浜が運営していた進駐軍クラブである)シーサイドクラブだとか、外国人会員専用スポーツクラブ、YC&ACのハウスパーティでも演奏していたようですね」

横山は「CHIBOWさんは本牧のつむじみたいな人」と話す。彼は不良ならではの感性と美学を持つCHIBOWから影響を受けてきたことをたびたび公言しているが、60年代から現在までの横浜不良音楽史はCHIBOWを中心に回ってきたと言っても過言ではないだろう。

70年代:ベトナム戦争の終結で静かになった本牧の夜で鳴り響いていたもの

70年代、横浜の不良音楽もニューロックの時代へと突入する。70年のパワーハウス解散後、ギタリストの陳信輝は角田ひろ(現つのだ☆ひろ)らとフード・ブレインを結成。若松孝二監督の映画「新宿マッド」の劇中音楽を手がけたのち、元ザ・ゴールデン・カップスの加部を新たにベーシストとして迎えてフード・ブレイン唯一のアルバム「晩餐」(1970年)を完成させる。陳信輝と加部はその後、ジョーイ・スミス(Dr)とのトリオ、スピード・グルー&シンキでも活動。世界レベルのサイケデリックロックを打ち鳴らした。

「CHIBOWさんは70年にパワーハウスが解散したあと、ドラマーの野木さん、ギタリストの中屋隆さんたちとパワーハウス・ブルース・バンドを始めるんですね。中学生のときに横浜野外音楽堂でイベントがあって、僕は先輩に頼まれてチケットをさばいたりしてたんですが、そのイべントにパワーハウス・ブルース・バンドが出ていて。とにかくカッコよかったですね」

70年代半ば、横山は横浜野外音楽堂や横浜市教育会館で多くのライブを観ている。パワーハウス・ブルース・バンド、エディ潘&オリエンタル・エクスプレス、李世福コネクションなど……柳ジョージ&レイニーウッドのステージも、この野外音楽堂で目撃している。柳ジョージはパワーハウス~ザ・ゴールデン・カップスと横浜不良音楽のど真ん中を歩いてきた人物だが、70年代後半からはソロアーティストとして数多くのヒットを放った。横山はソロアーティストとしての柳ジョージをどのように評価しているのだろうか。

「柳ジョージさんは78年に『雨に泣いてる…』という大ヒットを出しますけど、その頃からまた横浜のロックが盛り返してくるんですよ。TENSAWが出てきたりね。僕も中学生の頃から柳さんのライブは観ていたわけですけど、アルバム単位で初めて聴いたのは79年の『Y.O.K.O.H.A.M.A.』が最初。当時僕は東京に2年間住んでいたのですが、柳さんのアルバムを聴いて横浜に戻ることにしたんです。横浜の盛り上がりが伝わってきて、やっぱり帰ろうと。柳さんはすごく人気があったけど、セルアウトしたわけじゃなくて、それまでと同じブルース色の強いサウンドのままメジャーにいったのがカッコよかったですね」

70年代というと、キャロルと矢沢永吉を横浜不良音楽の文脈で語るべきかどうかという問題がある。矢沢が故郷である広島から夜行列車で上京し、横浜の地に降り立ったのが68年。ヤマトなどいくつかのバンドを経て、72年には川崎出身のジョニー大倉たちとキャロルを結成する。矢沢はこの時代、本牧のゴールデン・カップなど横浜不良音楽の中心地でライブもやっており、横山も「ある時期の矢沢さんが横浜と接点があったのは確かだと思います」と話す。ただし、横浜に対する矢沢のスタンスはあくまでも外部者としてのもの。「チャイナタウン」に象徴されるように、横浜を舞台とする彼の楽曲には、そこに幻を見るかのような客観的眼差しがある。そして、それは横山が受け継いだものでもあるだろう。

「生まれ育った場所ではないからこそ描けるものはあると思いますね。僕も一時期東京に住んでいたりと、横浜と東京のハイブリッドなので、そういうところはあると思う。横浜のミュージシャンはあまり横浜について歌わないですから。僕もずっと横浜にいたら歌ってないと思いますね」

また、75年にベトナム戦争が終わり、米兵たちが本国に帰還したことで、横浜の風景は一変。特にそれまで賑わっていた本牧の夜は途端に静けさに包み込まれた。

「70年代後半は僕も本牧のガソリンスタンドで働いていたので、その頃のやるせない空気は覚えています。イタリアン・ガーデンも夜になるとネオンが点いて若干のお客さんは来るけど、寂しい感じでしたね。でも、リンディというディスコだけは、横須賀や厚木から黒人の米兵が遊びにきてギラギラしていました。僕と一緒にENJOY RELAX DELIGHTというバンドをやっていたアイク(・ネルソン)はそこのDJで、黒人音楽を知るにはリンディが一番早かった。道路を挟んだ反対側にはロイヤル・ホテルというもともとは船員さんのためのホテルがあって、その地下にラヴ・マシーンというディスコもありましたね」

70年代後半、横浜の元町には「ハマのロックンローラーの拠点」となる古着店クリスタルミンツがあった。そこにはのちに横山らがグループ名を受け継ぐことになるR&Bグループ、ダックテイルズのメンバーが出入りしていたという。

「ダックテイルズのライブは何度か観ましたね。関内のダイアナだったり、日比谷野外大音楽堂でシャネルズと対バンしたときも観に行きました。クリスタルミンツ周辺の人たちはロックンローラーといっても原宿とはちょっと違っていた。アイビーを崩したようなファッションで、CHIBOWさんが若かった頃みたいなスタイルですね」

横浜不良音楽において、80年代の幕開けを飾ったのもやはりCHIBOWとその仲間たちだった。

「82年にCHIBOWさんがCHIBO & THE BAYSIDE STREET BANDを結成してから新しい形の横浜のロックが始まるんです。このバンドは82年に『BAYSIDE STREET』というレコードを出しているんですけど、あまりハイフィデリティじゃない音が逆にカッコよくてね。CHIBOWさんの歌には本当にコクがあって、ロックンロールをやってもR&Bをやっても、うねりがあるんです。グルーヴィなミディアムやスローテンポの曲で客を興奮させられるのはCHIBOWさんと矢沢さんぐらいだと思います。CHIBOWさんは客を踊らせることにもこだわりがあるんですよ。それはパワーハウスの時代から変わらない。あと、新しいもの好きですね。ビートのことを常に追求していて、80年代前半から『スネアの音は常にその時代を表している』と言ってました。CHIBOWさんはそういうことを感覚的に理解していたんです。不良のアンテナですね」

80年代に入り、横山は本格的な音楽活動をスタートさせる。クールスRCのリーダー、佐藤秀光が経営する原宿のブティック・CHOPPERに通い出したことをきっかけに、81年にはクールスRCに加入。自作曲「シンデレラ・リバティ」がシングルとしてリリースされるなど、順調に活動を展開させていくが、84年には脱退。元ラッツ&スターの山崎廣明らと共に第2期ダックテイルズを始動させる。90年代には廣石恵一や小野瀬雅生らとZAZOUやCK'sで活動。97年にはクレイジーケンバンドを結成し、翌年にはアルバム「PUNCH!PUNCH!PUNCH!」でデビューを飾った。以降の活躍は皆さんもよくご存知のことだろう。

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80年代後半~現在:MIGHTY CROWN、OZROSAURUS、Suchmosら新世代の登場

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