音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。前回に引き続き、
取材・
華やかな世界の裏側を冷静に見ていた
──後編では、表現者としての小泉さんのデビューをいろいろ探っていきます。5枚目のシングル「まっ赤な女の子」からディレクターが田村充義さんに替わり、作詞作曲、アレンジ面でもどんどん新しい才能との出会いが生まれます。
田村さんが考えていることは面白いなと思いました。トラックの作り方にも「わかる!」みたいな感覚があったし、歌入れのときも私が笑っちゃったテイクをあえて使ったり。音程がちょっと悪いけどニュアンスが面白いテイクとかもセレクトしていた。「そういうのが私の歌だよね! そうだよね!」とレコーディングで思ったら、ライブでも肩の力を抜いて自然に歌えるようになっていった。お互いに切磋琢磨じゃないですけど、そういう感じで楽しくやっていましたね。
──今、ライブという話が出ましたけど、デビューして、人前で歌うことに緊張はなかったんですか?
あっただろうけど、テレビのほうが緊張する感じはあったかな。ライブでたくさんの人の前で歌うのって、聴いてる人の顔が見えるから、歌を歌う意味がすごくわかった。でも、テレビで歌うときは、カメラを回している人、ケーブルをさばいている人、次の出番をスタンバイしている歌手の人とか、いろんな人がわさわさ働いてて、誰も私を見ていない中で歌っているわけで。しかも、テレビに映っているのは華やかな世界だけど、その裏側は正反対の真っ暗闇な倉庫で、男の人たちがぶわーっと働いてるみたいな(笑)。自分が見ている光景と正反対な世界の中で歌を歌うというのは、すごく変だなと思いました。セットの裏側でスタンバイしているときはベニヤ板しか見えない。やっぱりテレビや映画の世界って、華やかな側だけを見せる仕事なんだな、面白いなという感覚がありましたね。
──それを面白いなと思えるアイドルだったってことですよね。なんでも冷静に見ていた。
そうです。そして考えちゃうっていう、そういうタイプ。だから、ずっと黙っていたんでしょうね。頭の中はものすごくうるさいんですけど、考えているから黙っていたんだなと思います。
──それが解き放たれたのは、小泉さんの思考のデビューとも言える。
そうですね。社会人デビューでもあるし、思考のデビューでもあるし、表現のデビューでもある。そうでした。
──そして田村さんに勧められて、作詞家デビューの機会が訪れます。
そうです。最初は本人名義で出したくなくて、「美夏夜(みかよ)」というペンネームで何曲か書いたんです。
──7枚目のアルバム「Flapper」(1985年)に収録された「Someday」が初作詞ですね。
その曲を作曲した井上ヨシマサくんって同い年なんですよね。井上くんがいたバンド、コスミック・インベンションが解散して作家デビューすることになったとき、私たちまだ19歳だったと思うんだけど、同世代だから一緒に作ったら私も恥ずかしくなくできるんじゃないかって感じだったかな。でも最初、私が恥ずかしがっていたから、田村さんが「ピアノのある小さい部屋を用意するから、とりあえず3人で考えよう」って言ってくれて。その部屋で、田村さんと井上くんと3人で歌詞を考えました。まず田村さんが歌詞を1行考えて、「これに続けるとどうなる?」って聞かれて、「こうかな?」とか、そんな感じで1曲、なんとなく形にしました。井上くんが作家活動40周年を記念して過去の曲をセルフカバーするアルバムを今度出すみたいで、この間、2人でレコーディングで「Someday」をデュエットしました。
──井上さんにとっても思い出深い曲なんですね。
めっちゃアメリカンロックバラードって感じの大味なメロディなので私はちょっと恥ずかしかったんだけど(笑)。でも面白かったですね。
──最初は、家で机に向かって書いて提出する、ではなく、スタジオセッションぽい作業だったんですね。
そうですね。そういう作り方が最初に1、2曲あって、「Phantasien」(1987年)ってアルバムに収録された「Fairy Tale」と「Strange Fruit」という曲からは自分の名前で作詞するようになりました。
──そろそろ私の名前でいいと思えたというか。
ペンネームで何曲書いたか覚えてないけど、全部曲先でしたね。その頃はレッスン期間みたいな感じで田村さんと作詞してました。曲調も、ジャズっぽかったり、アメリカンロック風のバラードだったり、全然自分の中にない感覚で、あえて違う世界に挑戦する授業みたいな感じだったんです。でも「Phantasien」の収録曲は、自分の世界から簡単に言葉を探せる曲調だった。だからここからはちゃんと自分で1人で書く感じになった気がするんですよ。
周防さんは動物的な感覚の持ち主だった
──当時はまだ3カ月に1枚シングルをリリースしていたと思いますし、ハードなスケジュールの中で歌詞を書いていたのはすごいですよね。
そうですね。シングルだけでなく、1年間にアルバムを2枚とか出していて。
──忙しかった時期にスケジュールに飲み込まれてしまわずに、表現に向かう心の余裕を持てたのはなぜだったと思います?
学校に行ってなかったからじゃないかな(笑)。もちろん2時間しか寝れない日も何回かありました。徹夜で次の日のお昼まで働くとかね。そういうことも時々あったけど、トータルで見れば全然休めてました。みんなは芸能活動をしながら学校に通って、卒業するために授業時間を稼がないといけなかったから。私の場合、事務所と親が話し合って「あの子に学校の教育は必要ないんじゃないか」ということになったんです。私、デビューしてからしばらく地元の高校を休学してたんですけど、そのうちきっと堀越学園とか明大中野に編入するのかなって思ってたんですよ。
──芸能コースがあるような学校に。
ある日、父親に「私、学校どうなってるの?」って聞いたら「退学届けを出したよ」と言われて。「え? 退学なの?」って(笑)。「社長さんに、あの子には学校の教育は必要ないと言われて、俺もそう思ったからさ」って言うから、さすがに「まあ別にいいんだけど、ひと言言ってもらってもいいよね」と答えました。父は「そうだよね~、ごめんね~」って感じだったけど(笑)。でも、確かに、学校の時間がなかったから人よりも使える時間があったなと思います。大人はすごいなって感じ。私のことを見抜いていた。周防郁雄さんという人は動物的な感覚の持ち主だったと思うんです。周防さんには当時の私は大人っぽい子供に見えたみたいで、この子がどう育つのかを見たかったのかもしれないですけど。
──そのあともいろんなデビューがありますけど、小泉さんが、これは初めてやったとき面白かったなと思い出すのはなんですか?
演技のお仕事ですかね。俳優デビューは、どの作品が最初だったかな。「十階のモスキート」(1983年 / 崔洋一監督が手がけたATG作品)が先か、NHKの大河ドラマ(「峠の群像」)が先か?
──その2つが俳優デビューとして並んでいるのがすごい(笑)。
「十階のモスキート」は内田裕也さん、「峠の群像」は緒形拳さんが主演。大河では、何もわかってないのに京都弁とかしゃべってました(笑)。演技の訓練なんて一切受けてないから「いきなりやるんだな!」って思いました。教えてくれる人もいなくて、いきなり次のページが開くんだって感じ。「十階のモスキート」では、事務所に行ったら「制服に着替えろ」って言われて、写真を撮られて「これを劇中写真で使うから。あと、この日に千葉にロケに行くから、このセリフを覚えておくように」って。監督が崔洋一さんだということもわかってないんですよ。誰が監督かもわからないまま演技して帰ってきた(笑)。でも、それも周防さんの動物的な感覚なんですよ。私が最初に出る映画が「十階のモスキート」だったり、1話だけの出演だった大河の「峠の群像」や久世光彦さん演出の「あとは寝るだけ」(1983年、テレビ朝日系)だったり、何かその後に私がこうなることをわかって周防さんがキャスティングしたんじゃないかって思ったりします。何かを感じてつないでるんだろうなって毎回不思議でした。大人になればなるほど不思議ですね。まだしっかりしてない子を、そういう世界に連れていくのって危ないじゃん、本当だったら。その世界を理解できるかってところも含めて。
──すごいですね。周防さんって人は。
それをみんなにしていたわけじゃないんですよ。見抜いているんですよね、それぞれの人を。不思議な人です。そういえば、「あなたに会えてよかった」(1991年)というシングルができたとき、田村さんと私は「これ意外といいんじゃない?」って思っていたのに、「こんな曲売れるわけないじゃないか」って周防さんに言われたことがありました。それで私が「じゃあ売れたらどうしますか?」って言い返したら、「売れたら言うことなんでも聞いてやるよ」って。結果的に私の最大のヒット曲になりました(笑)。なので、そこからあまりいろいろ言わなくなりました。ライブの楽屋に来ても、ファッション関係とかいろんな人が私のゲストで来ているのを眺めて、「もうお前らには付いていけないことがわかったから、どんどんやっちゃって」とか言って。自分の常識とは全然違うところで私が結果を出しているからもういいや、みたいな(笑)。
株式会社明後日を設立、新たなフェイズに
──そして、長年所属されたバーニングプロダクションから独立し、御自身の事務所、株式会社明後日を設立されます。自分で会社をやってみてわかる大変さや面白さはあると思うんですけど。
社長なんかやると暇が一切なくなるんだなっていうのが単純な実感としてありますね。
──いろいろ理由はあると思うんですけど、独立したのは自分のやりたいことを形にするためですか?
20代からずっと「仕事辞めたい」「会社辞めたい」ってうわごとのように言い続けてきたんですけど、実際には辞めてないのがカッコ悪いと感じていた部分があったんです。それで、40代に入ったときに「50歳になったら、普通の会社ならあと10年15年しか働けない。だから50歳が最後のチャンスだな」とインタビューでもわざと言うようにした。有言実行みたいに自分で追い込まないと面倒くさくてやらなくなるから。自分で自分を追い込んでいった感じですね。以前は会社の中にいて、ルール違反にならない中で遊ぶのがすごく楽しかった。「これはルールからすり抜けられるアイデアだ」みたいなことが私の発想の源だったから、会社の中にいた経験はすごくよかったと思う。だけど、ルール自体がなくなったときに自分が何をしたいと思うんだろうとか、どんな行動をとるんだろうっていうのを死ぬ前に自分が見ておかないといけないなという感覚があったんですね。その最後のチャンスが50歳かなと思ってました。
──明後日は形式としては小泉今日子の個人事務所なんですけど、小泉さんをマネジメントするというより、小泉さんそのものが運動体というか、株式会社明後日というのが1つの人格に見えます。
もともと制作会社として立ち上げた会社だったんです。ライブや舞台を作るための。2015年に会社を作って2018年に独立という感じ。それからはマネージャーを立てずに自分の仕事は自分でマネジメントするスタイルです。私のライブとかも明後日とレコード会社とイベンターさんと3社で作ったりできる。全然ストレスがないですね。
──株式会社明後日が生まれて、21年には上田ケンジさんとのユニット、
60歳までは今抱えているものをやっていくという目標があるんです。それがあって、60歳になった山の上から見たときに何がしたいと思うんだろうって、そういうことを考えるのが今の一番の楽しみ。そしたらまた違うデビューをするかもしれないですよね。
──楽しみですね。60歳の山から何が見えるのか。
そうなの。たぶん60歳になる2026年までやることがほぼ決まってるんで忙しいんですけどね。でもその眺めを早く見たいからすごくがんばれている感じ(笑)。
──楽しみですね。
いよいよ高齢者デビューですからね(笑)。
──そういう意味ではデビューというのはどんなタイミングにもある。その都度、自分をどんどんアップデートすることなのかもしれません。
アップデートできないと本当に歳を取ったときにマズいと思ってるんです。自分自身をアップデートしないと変なおばあちゃんになっちゃう。私はいいおばあちゃんデビューをしたい。今はそういう努力をしないといけないなって感じですね。
小泉今日子(コイズミキョウコ)
1966年生まれ、神奈川県厚木市出身。1982年にシングル「私の16才」で歌手デビューし、「なんてったってアイドル」「学園天国」「あなたに会えてよかった」「優しい雨」など数多くのヒット曲を連発。俳優としても映画、舞台などに多数出演している。2015 年に株式会社明後日を立ち上げ、舞台・映像・音楽・出版など、ジャンルを問わずさまざまなエンタテインメント作品のプロデュースを手がける。2021 年には上田ケンジとともに音楽ユニット、黒猫同盟を結成。2022年にデビュー40 周年を迎えた。
株式会社明後日 asatte Inc.
小泉今日子 _ ビクターエンタテインメント
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※「Phantasien」の2つ目の「a」はアキュートアクセント付きが正式表記。
- 松永良平
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1968年、熊本県生まれの音楽ライター。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。
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松永良平 / Ryohei Matsunaga @emuaarubeeque
昨日公開の前編もたくさん読んでいただいてますが、後編も面白いです! 小泉今日子は何度も“デビュー“を繰り返す。
【連載】あの人に聞くデビューの話 第3回(後編) https://t.co/nlfcU0FZZT https://t.co/B8z5AjnoM8 https://t.co/4uILGmVKVG