アーティストの音楽履歴書 第48回 [バックナンバー]
中田裕二のルーツをたどる
「新しさをつかみたい」チャゲアスやイエモンに感化された少年が椿屋四重奏サウンドを生み出し、ソロで思いを解放するまで
2023年8月25日 18:30 56
アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回は、かつて
取材・
CHAGE & ASKAの歌詞を噛み締める小学生
小学校に上がる前ぐらいの頃、「ものまね王座決定戦」(フジテレビ系)を観るのが大好きで。放送は夜9時近くまでやっていたので、VHSに録画したものを兄貴とよく観ていたんです。その番組で衝撃だったのが、
親がカラオケ好きだったので、小学生のときからカラオケスナックによく連れられて、歌わせられたりしてましたよ。歌ってたのは全部大人の歌。五木ひろしとか、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」とか。お店の人に「うまいねえ」なんて言われてね。たぶん、本当にうまかったと思うんだけど(笑)。
初めてCDを買ったのは10歳のとき。CHAGE & ASKAの「僕はこの瞳で嘘をつく」と「SAY YES」が入ってるアルバム「TREE」(1991年発表)ですね。そのあとに「SUPER BEST II」(1992年発表のベストアルバム)も買ってもらって、この2枚はとにかくずっと聴いてたし、歌詞も読み込んで、歌ったりもしました。歌詞を噛み締めて「大人だなあ……」と思いながら。まあ、恋愛の歌が多いので、小学生の僕はよくわかっていなかったですね(笑)。「恋人はワイン色」とか、ソロになってからカバーさせてもらいましたけど(2014年発表「SONG COMPOSITE」収録)、子供だった当時は「好きな子とこういうシチュエーションだったら……」みたいなことを想像しながら聴いてました(笑)。なまじ子供の頃からこういった音楽を聴いてしまったがために、その後の自分の音楽の趣味趣向だけでなく恋愛観にまで影響を受けてますね。人一倍“型”みたいなものに囚われるというか「男には色気がないとダメだ」みたいな、過剰にロマンを求める感じ。
THE YELLOW MONKEYの“美輪明宏的”世界観に衝撃
1つ転機になるのが、中学校に上がった頃。相変わらずチャゲアスは大好きでしたけど、その頃流行ってた
ギターを買ってもらってから、さっそく作曲を始めました。コピーするよりもオリジナルの曲が作ってみたくて、まずは4つぐらいコードを覚えて。恋愛の曲が作りたかったんですよ、恋愛知らないのに(笑)。その頃、兄貴の影響でAerosmithとかMotley Crueとか、ぼちぼち洋楽も聴き始めていて。ゆくゆくエレキギターが欲しくなり、MTRと一緒に買って宅録みたいなことを始めました。14歳のときにはそれなりのデモテープを作ってて、椿屋四重奏の「薔薇とダイヤモンド」というアルバムに入ってる「朱い鳥」という曲の原型は15歳のときに作ったものです。
エレキギターのディストーションの歪んだ音とかが好きになってきた矢先に、友達のお姉さんから
引きこもり時期を経て仙台へ、椿屋四重奏の始まりは路上の出会い
バンドメンバーはみんな高校に進学して、それでもしばらくは一緒に続けていたんだけど、やっぱり学業優先なので1人抜け、2人抜けっていう感じで、結局ひとりぼっちになっちゃって。そんな頃、父親の出向で僕以外の家族が仙台に引っ越したんですよ。僕は熊本に残ってもうちょっとバンド活動をがんばりたいと言って、一人暮らしを始めました。1年半ぐらいかな。その間に引きこもりになっちゃってね。引きこもり中には本をたくさん読んだり、曲を作ったり、深夜ラジオもよく聴いてた。NHKの「ラジオ深夜便」は中3の頃から聴いてたけど、そこで特集されていた昔の洋楽とか、グループサウンズとか、そういうものがすごく自分にフィットしたんです。同世代の人とは違う流行というか。この頃から「世の中と合わないな」と思い始めて現在に至りますね(笑)。それでまあ引きこもっているうちに、曲を作っても外に出ないと人に聴いてもらえないという単純なことに気付き、熊本にいても埒があかないだろうと親に言われ、18歳のときに仙台に引っ越しました。
仙台ではコンビニでバイトしながら、バイト先の楽器やってる仲間と一緒にスタジオ入ったりしてました。当時はRadioheadとか、あとメロコアとか流行ってたんで、そういうのがやりたいと仲間から言われて、自分はどれもちょっと違うなと思ってて。で、夜中の路上で1人で歌い始めたんです。そこで出会った子とまあ話が合って、「バンド組もう」という話になり、楽器屋さんにメンバー募集の張り紙を出してドラムを探して。そして女の子から加入希望の電話があり「よし、このメンバーでバンド組もう」となったのが椿屋四重奏の始まり。いずれ見つかったらもう1人ギターを入れようという余剰を持たせて「椿屋カルテット」と当時は名乗ってましたね。ライブハウスはまだちょっと怖かったので、最初は学生さんたちが企画してたりする野外イベントみたいなのに出てました。
その頃、The Policeにも影響を受けていて、「ああいう洋楽のサウンドに日本人らしい歌詞を乗せた音楽をやりたい」みたいなことを考えてたんです。そんな中でバンドのMVを紹介している仙台ローカルの深夜テレビ番組で知ったのが、
心に再び火を付けてくれた「安全地帯II」
仙台に住んでいる頃に、とあるメジャーのレコード会社の新人開発セクションの方と知り合いになりまして。その人が東京に戻るからって、その人を頼りにして僕もバンドメンバーと一緒に上京したんです。それが20歳のとき。最初の2年近くは全然パッとしませんでしたね。例のレコード会社の人がバンド活動の面倒を見てくれてたんですけど、その人が原宿、高田馬場、池袋とかでライブをブッキングするんですよ。地域と音楽性が合っていなかったんだと思うんですけど、お客さんが全然増えないので、バンドのメンバー(ベースの永田貴樹、ドラムの小寺良太)が固まった頃に「すみません、下北沢とかで活動したいんで」って、その人とは離れました。
なんかね、「下北沢でやったら売れるんじゃねえか」みたいな自信があったんですよ。そしたら案の定、「すげえ変なバンドがいるぞ」と噂になったみたいで。レーベルの人とかもライブを観に来るようになったんだけど、個性がありすぎたのか、なかなか契約しようと手を挙げてくれるところがなかったんです。で、ようやく声をかけてくれたのがUK.PROJECTでした。そのときには自分たちで焼いてたCD-Rを下北沢のハイラインレコーズっていうインディ専門のお店で取り扱ってもらってまして。今は
ミニアルバムが予想以上に売れて、非常に幸先がよかったんですが、8カ月後に1stフルアルバム「深紅なる肖像」を出したあと、ちょっと行き詰まっちゃったんです。「やべえ、曲ができない! このままだと終わるぞ」と思って。そのとき、心に再び火を付けてくれたのが
80年代の陽水さんみたいな自由なスタンスで
椿屋ではインディで約4年、それからメジャーに移って4年近く活動して。メジャーでの3枚目、最後のアルバムを出すときにはもう、ギター中心のロックバンド形態でやるっていうことに限界を感じてましたね。打ち込みとかも始めてたし、「シンデレラ」(2009年のアルバム「CARNIVAL」のリード曲)ぐらいから「ポップスがやりたい」「ブラックミュージック的な要素も忍ばせたい」などと思うようになりました。その頃、めちゃめちゃ聴いてたんでね。椿屋でもやりたいことには挑んでたんですけど、コーラスをもっと厚くしたいとか、曲作り自体がロックバンドのフォーマットで考えられなくなっていました。
ソロになってからその思いを解放して、やりたいことを突き詰めようとしています。
ソロになってからはホント、リスナーとしてものすごくたくさんの音楽を聴くようになって。それこそシンガーソングライター系の人、ジェームス・テイラーとかね。あとはAORだったりクラシックソウルだったり。
※Motley Crueの「o」と「u」はウムラウト付きが正式表記。
中田裕二を作った10曲
中田裕二(ナカダユウジ)
1981年生まれ。熊本県出身。2000年に宮城県仙台にて椿屋四重奏を結成する。2003年にインディーズデビューを果たし、2007年にはメジャーシーンへ進出。歌謡曲をベースにしたサウンドでファンを獲得したが、2011年1月に突然の解散を発表した。同年3月に楽曲「ひかりのまち」を中田裕二名義で配信リリースし、本格的にソロ活動を開始。最新作は2023年4月発表のアルバム「MOONAGE」。椿屋四重奏のデビュー20周年を記念し、2023年の夏限定で、「椿屋四重奏二十周年」の名の下に“椿屋四重奏ライブ”を開催する。
椿屋四重奏二十周年記念公演 “真夏の宵の夢”
2023年8月27日(日)東京都 昭和女子大学人見記念講堂 ※チケット完売
椿屋四重奏二十周年記念公演 “続・真夏の宵の夢”
2023年9月4日(月)大阪府 GORILLA HALL OSAKA ※チケット完売
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永田 貴樹 @uoshige
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