参考にしたのはAKB48とマルコム・マクラーレン
アイドルをイチから勉強しようとしたとき、渡辺がまず参考にしたのはAKB48だった。中でも映画「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る」からは多大な影響を受けていると断言する。前田敦子が過呼吸で倒れるシーンが有名な作品である。
「前田敦子ちゃんが倒れるところを観て、多くのアイドルファンは衝撃を受けたじゃないですか。だけど僕は、多くの人が衝撃を受けているという事実に衝撃を受けたんです。だってそれまで自分の周りではあれが普通の世界でしたから。倒れたあと、『フライングゲット』で華麗に戻ってくる場面も含めて、前田敦子ちゃんがかわいそうとはとても思えなかったんです。そもそも彼女たち、ちゃんとしたナースカウンセラーみたいな人も付いているわけですしね。僕からするとそこまで大したことじゃないことが残酷ショーとして衝撃になるんだということが衝撃だったんです。やっぱり大手はすごいな、同じことをやっていたら絶対に敵わないなと思い知りました。同じアプローチをしたところで、地下アイドルのファンにはまったく響かないでしょうしね。同じ土俵で戦えないのなら、どうすればいいのか? 大手と違うことをやるしかない。それで過激なことを
今でこそ柏木由紀をWACKでプロデュースしたり、TBSの人気番組「水曜日のダウンタウン」とタッグを組んで豆柴の大群をデビューさせたりと、音楽シーンでメインストリートをひた走っている渡辺だが、当時の状況はまるで違っていた。第1期BiSでは「大手事務所はバビロン。俺たちはそこに立ち向かう反逆戦士」という気概でいたという。そのためにも、
「話題を切らせてはいけないんだという焦りがありました。特に2013、2014年くらいはアイドルがまだいっぱい出てきていた時期だし、その中で常にニュースソースが一番あるグループにしなきゃいけないんだという考えがあって。たぶん1週間に1個くらいは何かしらニュースを出してたんじゃないかな。『BiSの話、最近は聞いてないな』と思われた瞬間に追われなくなっちゃいますからね。
やっぱりこれも『少女たちは傷つきながら、夢を見る』の話になっちゃうんですけど、アイドルってこんなにもストーリーが大事なんだということをあの映画で学んだんですよ。例えば劇場で数人しかお客さんがいないところからここまでのし上がってきたというエピソードとか。『そうか、アイドルってすごく成長を見守る文化なんだな』といった感じで僕も学習していったんです。ももクロ(ももいろクローバーZ)の物語もそういう要素は強いじゃないですか」(渡辺)
アイドルに物語性が大事だということは、まったくもってその通りである。ただし初期のBiSはAKB48のように地上波で週1回のレギュラー番組を持っていたわけでもなく、自分たちで能動的に話題を提供していくしかなかった。その際、渡辺が大いに参考にした人物がSex Pistolsの名物マネージャーであるマルコム・マクラーレンだった。
「『セックス・ピストルズを操った男‐マルコム・マクラーレンのねじけた人生』(CBSソニー出版)という本がありまして、現在絶版でプレミア化していて1万円くらいするんですけど、僕は本当にこの本を熟読していて(笑)。やっぱり彼がすごかったところってスキャンダルを肥しにするというか、とにかく新聞の1面を取ることが大事という信念があるわけですよ。そのためには捕まってもいいみたいな覚悟。ナメ切ったことを徹底してやっていくという姿勢が、当時の世相に合っていたと思うんです。だって当時のイギリスは失業率も大変なことになっていて、その中で反体制丸出しのバンドがチャート1位を獲得したわけですからね。もっとも、この1位というのもなかったことにされるわけですけど」(渡辺)
この“体制側によって1位が阻止されたシングル”というのは、1977年にリリースされたSex Pistolsの「God Save the Queen」のことを指す。イギリス国歌と同名曲でありながら内容的には痛烈な王室批判メッセージで貫かれており、フラストレーションを抱えた若者たちから絶大な支持を得た。そういったロック本来が持つ危険な魅力に渡辺は心酔しており、BiSでもその方法論を踏襲しようとしていた。世間で物議を醸すのは当然の話だった。
前述した全裸MVだけでなく、握手会ならぬ「ハグチェキ会」の実施、ノイズバンド・非常階段とのコラボ、「メンバーに3時間家政婦をしてもらう権利」をメンバーに内緒でYahoo!オークションに出品、ももクロ街宣車“奇襲”事件、ファンを欺く王道アイドル路線への転向宣言(ドッキリ企画)、デザイナー・コシノジュンコの電撃加入……AKB48(秋元康)とSex Pistols(マルコム・マクラーレン)を参考にした過激な仕掛けの数々が、当時のサブカルチャーのシーンでもエッジの立った音楽ファンに刺さったのは事実だ。当時はそんな表現すら存在しなかったかもしれないが、BiSは「バズらせる」ことに命を懸けて「炎上商法」を全力で貫徹したのだった。何かアクションを起こすたびにメンバーは大きな非難を浴びたものの、アイドル界で確固たる地位を築いていく。
第1期のBiSが一番楽しかった
しかし、そんな業界の風雲児・BiSも2014年には解散の道を選ぶことになる。事実上、グループの発起人であったプー・ルイは、この終幕について「あれはあれでよかったんだ」と冷静に振り返っている。
「そもそもBiSは解散を前提に活動していたと言っていたので、最後の6人体制になる前あたりから『そろそろだろうなあ』と思っていました。だから解散の話を聞いたときも『ついに来たかあ』という感じで特に驚きませんでしたし。
それよりも、目標としていた場所でライブができないということを告げられたことのほうがつらかったですね。研究員(※BiSファンの呼称)との約束を守れないショックが大きかったです。でも、その後は渡辺さんをはじめとしたスタッフの皆さんががんばってくれたおかげで、最初の目標よりも大きい会場を借りてくださって! 当初描いてたイメージとは違う終わり方だったけど、そのおかげでその先の夢も持てるようになりましたし。いろんな人たちのいろんな気持ちの詰まった、幸せな解散だったと思います」(プー・ルイ)
ここでプー・ルイが触れている「目標としてきた場所」とは日本武道館を指す。そして「当初の目標よりも大きい会場」とは横浜アリーナのこと。なぜ武道館公演が頓挫したかという理由については当時からさまざまな憶測が飛んでいたが、いまだに渡辺はこの点に関して「それだけは言えない」と口を閉ざす。なんにせよ、2014年7月8日、6人は「BiSなりの武道館」と銘打った解散ライブを横浜アリーナで決行したのである(参照:さらばBiS!怒涛の解散ライブで49曲熱唱)。
武道館で行われたモーニング娘。・高橋愛の卒業公演にプー・ルイが感動し、「自分たちも人気絶頂のときに解散したい」と決意。結果的にその会場は横浜アリーナに変更されたものの、メンバーもファンも最後に燃焼し尽くした──。しかし、このBiS物語について個人的には腑に落ちないものを以前から感じていた。
まず引っかかるのは「2014年が本当に人気絶頂だったのか?」という点である。第1期BiSの3年半では集客に苦しんだ公演もあったものの、基本的に観客動員数は増え続けていた。だとすれば、本当のクライマックスは2015年以降にやってくると考えるのが当然であろう。少なくとも2014年段階で「もうやり尽くした」と決めつけるのは時期尚早ではなかったのか。
さらにもう1点。渡辺は書籍「アイドルをクリエイトする」(著:宗像明将 / 出版ワークス)の中で「BiSはコストをかけないから、ずっと黒字だった」「最後の年商は2億円くらいあったと思う」といったことを語っている。この時点で一介のサラリーマンに過ぎない渡辺が「BiSを解散させます」と決めたところで、会社の上層部が「はい、そうですか」とすんなり納得する図が想像できない。何せBiSは会社にとってドル箱的な存在になっていたのだ。
「本当のところ、BiSはどうして解散する必要があったんですか?」
改めて渡辺に問い質した。「もう単純に持たなかったんですよね、体力的に。メンバーも僕も……」というのがその答えだった。
「終わりがあったからこそ全力で突っ走れたものというのが、どうしてもあって。もしあの横浜アリーナのあとも続けていたとしたら、それはもうボロ負けの歴史になっていたと思う。結局、BiSというのは完全に内輪向けのパーティを続けていただけなんですよ。でんぱ組と違っていたのは、まさにその点なんです。僕たちだってファンに向けてめちゃくちゃがんばっていたのは同じなんだけど、その方向がどんどんコアに向かっていった。マスに向かっていかなかった。これは本当に今だからこそ、しみじみわかることなんです。つまり当時のBiSのアプローチでは横浜アリーナの7000人が限界値だった。そのことを勉強させてもらったのが、あの解散ライブだったというわけです」(渡辺)
研究員と呼ばれるファンとの内輪向けパーティ。仲間内の悪ふざけは抜群に面白く、仲間たちの人数も右肩上がりで増えていった。だが、やがてその限界に突き当たる日を迎える。それは青春という季節の挫折でもあった。
「クラスの文化祭を横浜アリーナでやった感じなんです。クラスなので、みんなが対等。僕も若かったし、僕より年下のファンもみんな僕のことは呼び捨てでね(笑)。『おい、淳之介!』なんて話しかけてくる仲。それこそ下北沢SHELTERとかでやっていた時代から友達みたいに酒を飲んだり、一緒に遊んだりしていましたからね。ベロベロに酔っぱらったりもしていたし。でも……やっぱり楽しかったんですよ、純粋に。今のメンバーたちには失礼ですけど、今までで何が一番楽しかったかというと、僕はやっぱり第1期のBiSが一番楽しかった」(渡辺)
「ファンの人たちと、いろんなことが共有できていた気がするんです。少なくとも横浜アリーナに来ていた7000人のうち、1000人とは気持ちが通じ合っていた気がする。僕はその感じが気持ちいいタイプの人間なんですよ。ある意味、最後に横浜アリーナに集まった7000人全員がBiSだったのかもしれません。研究員もBiSの一員ということで。
僕は高校を中退したから文化祭とかを斜に構えるような男だったんですけど、そうやって歩んできたことの後悔も同時にすごく持っていて。その恨みというか自己投影的な願望を横浜アリーナにぶつけたところもありました。『みんなで一緒になって文化祭をブチ上げてやろうぜ!』といった感覚。研究員の中にはBiSにハマったことで離婚して家庭が壊れた人もいるし、職場で居場所がなくなり借金まみれになった人もいる。内輪向けの悪ふざけがきっかけで、人生が転がり続けたということなのでしょう。それだけのパワーがBiSにはあったんです」(渡辺)
しかし、もうパーティの時間は終わりが迫っていた。次のステップに進むため、ここに留まることができない。そう考えた渡辺はBiS解散を決意すると同時に、会社にも辞表を提出する。そうすることで自らに対する落とし前をつけようとしていたのだ。
<後編に続く>
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- 小野田衛
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出版社勤務を経て、フリーのライター / 編集者に。エンタメ誌、週刊誌、女性誌、各種Web媒体などで執筆を行っている。著書に「韓流エンタメ日本侵攻戦略」(扶桑社新書)、「アイドルに捧げた青春 アップアップガールズ(仮)の真実」(竹書房)がある。芸能以外の得意ジャンルは貧困問題、サウナ、プロレス、フィギュアスケート。
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