あの人に聞くデビューの話 第15回 前編 [バックナンバー]
クラムボンの原田郁子が多感な10代を過ごした地元・福岡時代
彼女の音楽的ルーツを育んだ「60年代研究所」とは?
2026年4月15日 19:00 4
音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第15回は、
取材・
ミュージシャンの猪野秀史さんに以前インタビューしたとき、1990年代の福岡で「60年代研究所」という集団があって、そこに高校生だった原田郁子さんが出入りしていたと聞いた。上京してクラムボンを結成する以前である福岡時代の原田さんの話って、まだ語られていないことが多いのかもしれない。さらに言えば、クラムボンというバンドも不思議だ。1999年に突如デビューした記憶はあるが、例えば下北沢や新宿のライブハウスを賑わせていた、みたいなインディー時代の逸話はほとんど聞いたことがなかった。もしかしたらクラムボンには、一般的なバンドが歩むヒストリーとは違うデビューの物語があるのかもしれない。というわけで、最近は細野晴臣さんのサポートをユニット、くくく(原田郁子+角銅真実)として務めるなど多忙な中、原田さんにバンド結成以前の福岡時代からじっくり話を聞くことにした。
ヤンキー文化になじめなかった中学時代
──幼少時を過ごした千葉から福岡に引っ越したのは小学6年生だったそうですね。
はい。夏休みに父親の転勤で。新しい学校になじめない、なじみたくない、なじむもんか!みたいな気持ちで、完全に心の中でシャッターが下りちゃいました。引っ越したくなかったから親にも怒りが向かう、でもどうしようもない。一気に思春期と反抗期に突入した感じです。
──反抗期と環境の変化が重なるとしんどい。
中学生になると、だんだんとクラスの中が色めき立つ。それがものすごく苦手で、「〇〇くんは〇〇ちゃんが好きなんだって」みたいな話題にはできるだけ入らないように距離をとるようになりました。特にヤンキーの人たち、目立つグループの人たちはそういうことに積極的だった。自分の体の変化にもすごく戸惑って、その感覚は、言葉で説明しづらいんですが、性別がぐらぐらしてるっていうか、あいまいな時期がずっとあったんです。それこそ、クラムボンでデビューしてからも。男子が男っぽく、女子が女っぽくなっていく、って今思うと、とても本能的で大事なプロセスなんですけど、完全にその流れから外れていって、心を閉じていくというか、こじらせていきましたね、おそらくは。
──ピアノは小学生から弾いていたそうですが、今につながるような音楽体験はいつ頃から?
上にお兄ちゃん、お姉ちゃんがいたわけじゃないので、ごくごく普通にテレビやラジオで流れてる音楽、歌謡曲やドラマの主題歌、そういう流行りの音楽を聴いていたんです。そういう中で、ザ・ブルーハーツの「TRAIN-TRAIN」が「はいすくーる落書」(1989年)というドラマの主題歌で流れてきて。まずは歌声と、あとやっぱりピアノの音が好きでしたね。そのドラマはヤンキー学校の生徒と先生の話で、現実の世界で、自分はそういう環境になじめていないんですけど、フラストレーションみたいなものはあったのでドーンとくるものがありました。うちにソニーのウォークマンがやってきて、カセットに落としていろんなところに持ち運んで聴いていました。音楽が隠れミノになったというか……目をつけられると呼び出されるので、できるだけ気配を消す、ホントに隠れてる感覚に近かったと思います。
──それって、趣味として楽しく音楽を聴く体験とは違いますよね。
そうですね。音楽を聴くということが、もうちょっと切羽詰まったものだったというか。「どうしよう……嫌だな、ここにいたくないな」っていう気持ちを外に出さずにいると、平常心を保つための何かが必要じゃないですか? それが私の場合たまたま音楽だったんだと思う。
──ザ・ブルーハーツ以外にも、心をとらえた音楽は?
「夜のヒットスタジオ」にザ・タイマーズが出たときは、とてつもなく衝撃でした。生放送で、テレビの中が明らかに騒然としていて、ヘンテコな人たちがバンドをやっている。「なんじゃこれ!」って、すぐ次の日、貸しレコード屋さんに行ってザ・タイマーズとRCサクセションの「COVERS」のレコードを借りてきました。家族で晩ごはんを食べるときも「Hey Hey We're THE TIMERS タイマーを持ってるー」って、もちろんどういうことかわかっていないんですけど、口ずさんだり、何回も繰り返し聴いてました。なので、忌野清志郎さんとの出会いは“タイマーズの人”でしたね。あとは、原マスミさんの「ピアノ」という曲をずっと聴いていました。異質なものに惹かれる、というのはあったかもしれないです。もちろん当時はそういうことを自覚したり言語化できたりはしてはいなかったですけど。
高校をサボり音楽好きの溜まり場に出入りする日々
──原田さんは高校入学がちょうど1990年代の始まりなんですよね。
そうなんですよね。自宅から高校に通うには天神駅で乗り換える、ちょうど天神という地区が通学路だったんです。本当は軽音楽部で自分もバンドをやりたかったんですけど、私が入ったときにはたばこが見つかって廃部になっていました。ガーンとなって、でも自分で部活を作るようなガッツはなく、途中からだんだん授業をサボるようになって。学校に行くとしてもすごく遅刻して行くようになりました。学校に行くのも嫌だし家にいるのも嫌、みたいな状態で天神をぶらぶらするようになって。大名(天神の西に位置する、飲食店とカルチャーが混ざり合うエリア)のあたりを歩いていると、古着屋さんとか中古レコード屋さんがポツポツあって、そういうところに入ってみるのが、宝探しみたいで面白かった。お金がないからいろいろ買えるわけじゃないけど、行くと何かある。そうやって、ぶらぶらしてるとき、たまたま見つけた場所があって、そこに出入りするようになったんです。
──平日の昼間に。
セーラー服で(笑)。そこはグラムっていう美容室だったんですけど、そのお店を見つけたときの衝撃は今もよく覚えてます。古いビルのガラス窓に「g」っていう切り抜きの文字が貼ってあって、中を覗いても何屋さんだかよくわからない。窓枠に黄緑のたばこが置いてあって、「ゴールデンバット」って書いてある。もちろん知らない銘柄で、「なんだろう? ここ」って。それでしばらく様子をうかがう時期があって、看板もないし、中も暗くてよく見えないんですけど、ときどき人がいて、壁に寄っかかったり、座り込んだり、たばこを吸ってしゃべったり、音楽がかかったりしている。意を決して入ってみたら、小出水(こいずみ)さんという美容師さんが迎えてくれて。そこから髪を切りにいったり、立ち寄ったりするようになりました。
──誰かに誘われたとか教わったとかじゃなくて、その「g」という小文字と両切りのゴールデンバットがきっかけだった。
そうですね、嗅いだことがない匂いがぷんぷんしていました。今日、グラムの前で撮った写真を実家から持ってきたんですけど、見てもらってもいいですか?(笑) 高1のときですね、隣が小出水さんで、後ろにいるのはパックマン。
──え! スペースインベーダーズ(伝説の九州パンクバンドThe Swanky'sのボーカリスト、Watchがバンド解散後に結成したユニット)のパックマンさん?
そうです。いろんな人が中継地点的にふらっと来てたんですよね。この写真、よーく見ると「g」の周りに「HAIR CUT」って書いてあるかもですね。今、気がつきました! そっかあ、当時は全然意味がわかってなかったですね。こんな怪しい美容院があるわけないと思っていたかもです(笑)。ガバガバヘイっていうお店とか、チクロマーケットっていうレコード屋さんも奥が美容院になっていたり。美容院が溜まり場みたいな、発信基地みたいな、そういうコミュニティの1つだったのかな。グラムはもうずいぶん前になくなっちゃったんですけど。
──いいですね。原田さんを中心にした群像劇が見えそう。
チクロ、ボーダーライン、カメレオンレコード、田口商店、ジュークレコード、といくつか立ち寄るレコード屋があって、チクロの店長だった森さん(のちにイベント制作会社BEAに入社し、NUMBER GIRLの全国ツアー、ライブ制作を担う。福岡の野外フェス「CIRCLE」の主要スタッフでもあった。2023年死去)との出会いも、自分にとって大きかったですね。とにかく片っ端から試聴させてくれたんです。「あー、この人好きなら、このアルバムもきっと好きですよ」と言って、ドクター・ジョン、プロフェッサー・ロングヘア、ニッキー・ホプキンス、レオン・ラッセルなど、それまで聴いたことがなかったピアノサウンドをたくさん教えてもらいました。あそこは学校の保健室みたいな場所だったのかも。制服で時間帯的に明らかにサボってるんですけど、「そろそろ学校に行ったほうがいいんじゃない?」とかそういうことは言わずに、ほっといてくれた。
──むしろ、そういう場所こそが学校の代わりみたいな感じですね。
ときどき、店内にカッコいいデザインのチラシが置いてあって、「FREAK OUT!」と書いてある。森さん、小出水さんたちが自分たちでイベントをやっていたんです。アルバイトを始めて、お小遣いをライブにあてられるようになってきたので、行ってみよう!と。夜中、家を抜け出して、電車がもうないので、1時間ぐらいかけて自転車で天神まで通うようになりました。
──自転車を飛ばして1時間!
森さんたちが順番にDJをやって、一晩中音楽がかかっていて、ときどきライブもやっていて。森さん、猪野さん、グラフィックデザイナーの大原さんたちがやっていたラブライツというバンドや、The Hairというモッズバンドのライブを観ました。CAPSULE GIANTSのレオ(横溝礼央)くん、にゃんこ先生って呼ばれてる人とか、カッコいい人やハミ出し者みたいな人が集まってきていて。そういえば、ある日、森さんに「〇月〇日、空いてますか?」って聞かれて、「白いタートルネックと、下は黒い服で来てもらえますか?」と言われて、おばあちゃんの服を借りて行ったら、私と何人かの女子がゴーゴーガールっていう、ラブライツのライブの後ろで踊る女の子役で出ることになっていて、「えええ⁉」ってなりながら、ステージに立ったこともありました。
──原田郁子のゴーゴーガール時代(笑)。
(笑)。好きだなって思う曲が流れたら「この曲なんですか?」ってDJの人に聞きに行って、ジャケットを見せてもらって、メモして帰る。次の日に、TRACKSっていうCD屋さん(1998年閉店)に行って、「これかー」ってジャケットを眺めて、でも買えなくて帰ってきたり、まだタワーレコードとかそういうレコード屋さんがなかったので、マニアックなCD、輸入盤を探しに行くときはそこに行ってました。
──まさに音楽の学校。
知らなかった世界が一気に広がっていった時期でもありました。ある日、新聞に「ピアノが愛した女」という言葉を見つけて、それは、矢野顕子さんのドキュメンタリー映画「SUPER FOLK SONG」(1992年)の告知だったんです。中学の頃、仲がよかった近所の友達がTHE BOOMが大好きな人で、矢野さんが彼らの「釣りに行こう」という曲で一緒に歌っていた人だとわかり、「あの高い声の人だ」って、迷ったけど行ってみようと思いきって観に行きました。モノクロの映像だったんですけど、レコーディングというものの厳しさ、ヒリヒリした空気とか、弾けたときの喜びとか、生々しくて、今もすごく印象に残っています。
60年代研究所の先輩たちから受けた音楽的英才教育
──当時、猪野さんや森さんは「60年代研究所」というコミュニティを作っていて、DJイベントやライブを企画して、好きな音楽で交わっていたと聞きます。
60年代というものを意識したことはないんですけど、90年代のリアルタイムの音楽より、古い音楽をどんどん好きになっていった時期だったので、そういう音楽を知れるのがうれしかったんです。ある日、チクロに行ったら、森さんが「今度、レオン・ラッセルが来るんですよ。チケットが1枚余っているんですけど、行きますか?」って誘ってくれた。私は「tight rope」というアルバムをチクロで買って愛聴していたので、「行きます!」と即答しました。それで、猪野さんと森さんと3人で、郵便貯金会館(現・メルパルクホール福岡)に観に行きました。
──そのエピソード、以前の取材で猪野さんもしゃべってました。
ええ! 本当ですか? うれしい! あの日は夢のようで、真っ白い髭のレオン・ラッセルが目の前でピアノを弾いて、ダミ声で歌っている。本当に感動しました。リサイタルみたいに、最後にお客さんが演者さんに花束やプレゼントを渡すっていう風習があったんですけど、なぜか私もちゃっかり花束を買って行ってたんです(笑)。アンコールが終わって拍手が鳴る中、最前列のファンの人たちが花束を渡していて。森さんたちが「行け! 今しかない!」って背中を押してくれて(笑)、めちゃくちゃ後ろのほうの席だったんですけど、タタタって降りて行って、花束を受け取ってもらえました。それでさらに感動してしまって。
──そういえば、猪野さんが持っている金延幸子の「み空」のオリジナル盤は、さっき話に出てきた、にゃんこ先生と交換したものだと言ってましたよ。ニーナ・シモンのレコードと交換した、って。
わー、そうなんですね! なんか、鳥肌が立ってくる。そういうこと、ですよね。あのとき誰に借りたアルバムとか、誰に教えてもらったとか、きっかけになった人や場所が音楽とくっついてる。スピーカーでドーンって大きな音で鳴ってたなあって、その気持ちよさも記憶とくっついていたりしますよね。そういえば、あとから知った話なんですけど、会場のサウンドシステムの音が気に入らなくて、森さんはうちからオーディオ機材をクラブに持ち込んで、セッティングして、DJをしていたそうです。だから、ドンシャリじゃないというか、その時代のサウンドが気持ちよく響くような音だったんじゃないかな。
──福岡に1990年代のある時期に存在した、60年代研究所を中心としたつながりって、今までほとんど文字化されていないんですよね。
ええ、ぜひしてください。生き字引のような方たちに当時の話を聞いて、残してほしいです。
──それは、めんたいロックとも違う、福岡のアナザーストーリーですよね。猪野さんや森さん、instant cytronの片岡知子さんや松尾宗能さん、Small Circle Of Friendsもそこにはいて、こういうレコ屋やクラブにみんなが集まっていて、とか。その渦中に原田さんもいた。
いえいえ、渦中なんていうほどではなくて、一番歳下でその界隈に入り込んだ感じでした。スモサのさつきさん(武藤さつき)はpictureというお店の店長さんで、セレクトショップがまだそんなになかった頃からすごいセンスと審美眼の持ち主だったんです。スモサの音楽は福岡のクラブシーンから生まれていて、憧れの存在でした。この時点ではまだ出会ってないですけど、NUMBER GIRLの向井(秀徳)くんも、ときどき出入りしていたそうです。遊び場がそんなにたくさんなくて、細分化されていなくて……あの空気感を言葉にするとしたらなんだろう、薄暗くて混沌としてましたね。オルタナティブ、そういうことになるのかな。
──当時足しげく通っていて、ほかに記憶に残っている場所は?
チケットぴあですね! 日曜日の朝10時に開くんですけど、電話してもつながらないから、とにかく並ぶ。取れそうにないチケットは前の晩から並んで、天神ビブレの裏に段ボールを敷いて、寝たりしてました。隣のクラスにLAUGHIN' NOSEが好きな友達ができて、その人と一緒にライブハウスに行ったり。東京スカパラダイスオーケストラ、LÄ-PPISCH、THE BOOMの3組が福岡で一緒にやった「よか de SKA Night」というイベントにも行きました。そういえば、福岡にブルーノートができた頃に、父に引率してもらってジミー・スミスのライブを観にいったこともあります。間近で指と足のベースさばきを見ることができて、ものすごく感動しました。嫌な女子高生ですか?(笑)
──音楽的な英才教育を学校以外で受けていた感じですよね。
うーん、ひと回りぐらい上の人たちに出会って、確かにすごいきっかけになったと思うんですけど、「どうもどうも」みたいに気安く話す感じでもなく。クラブに入ったらすぐにスピーカーの前に直行していました。そんなに人付き合いが得意じゃなかったので、自分なりに壁を作っていたのかも。他人とは距離があって、音楽はどんどん吸収したいけど、周りの人たちのプライベートな会話には入らずに帰る。わりとひっそり、ポツンとしてる感じでしたね。
<中編に続く>
プロフィール
原田郁子(ハラダイクコ)
クラムボンのボーカル&鍵盤奏者。同じ専門学校に通っていたミト(B)、伊藤大助(Dr)と1995年にバンド結成。1999年にシングル「はなれ ばなれ」でメジャーデビューを果たす。自由で浮遊感のあるサウンドとポップでありながら実験的な側面も強い楽曲、強力なライブパフォーマンスで人気を集め、コアな音楽ファンを中心に高い支持を得る。バンド活動と並行して、ソロ活動、さまざまなミュージシャンとの共演、共作、舞台音楽、CM歌唱、ナレーション、歌詞提供、執筆、ドローイングなど、活動は多岐にわたる。2026年1月にクラムボンのカバーアルバム「LOVER ALBUM」「LOVER ALBUM 2」がアナログで発売。「LOVER ALBUM」は即完売で只今再プレス中となっている。
クラムボン公式サイト
クラムボン(@clammbon_jp) | X
クラムボン(@clammbon_official) | Instagram
- 松永良平
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1968年、熊本県生まれ。リズム&ペンシル。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。
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吉田光雄 @WORLDJAPAN
高校時代の原田郁子×パックマン(Space INVADERS~THE ROBOTS)。
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