音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。前回に引き続き、
取材・
音大受験失敗もギリギリで開けた運命
──地元の福岡で、ライブやDJイベントを通じていい音楽を聴いて吸収していくうちに、ご自身の中でも何かを作りたいという思いが芽生えていったんですか?
クラシックピアノはやめていたんですけど、「セロニアス・モンクって知ってる? ピアノ弾いていたんなら、聴いてみたら?」って教えてくれたのは、当時出入りしていたグラムの小出水さんです。これまで聴いたことがないピアノの音に衝撃を受けて、ジャズピアノを弾きたいって思うようになった。自分にとって大きなきっかけですね。弾きたい気持ちがむくむく大きくなっていって、コード譜を買って練習したり、耳コピしたりするようになりました。でも、一番やりたかったバンドは、まだやっていなかった。
──意外です。
そうですよね。高校の音楽の先生が面白い人で、かつてグループサウンズのバンドでマリンバを弾いてデビューしたことがあるっていう人だったんです。なんとなく家に帰りたくないなと思って、放課後、音楽室でピアノを弾いてたんですね。「ドクター・ジョンって、どうやって弾いてるんだろう?」って左手でリズムをとりながら、右手で見よう見まねで即興みたいにピアノを弾いてたら、ガラッとドアが開いて、「原田! お前こんなピアノを弾くのか」ってその先生に言われたんです。あまりにびっくりしたのと、言われたことが恥ずかしくて、先生のこと無視しちゃった(笑)。「なに勝手に聴いてんだよ?」みたいな態度になっちゃって。当時の私は、そういう面倒くさいやつでした(笑)。
──ははは。でも、その気恥ずかしさが入り混じった気持ち、わかります。
今思えば、下手くそだけど、ブギウギみたいなピアノが聴こえてきて、先生はうれしかったのかもしれないですね。申し訳ない(笑)。
──でもよかった。サボってばかりでもなく、ちゃんと原田さんにも高校生活があった。
女子校に通っていたんですけど、だいたいものすごく遅刻して行って、授業中もずっと寝てて、よく先生に怒られてました。「学校行くのしんどいな、辞めたいな」「留年してもいいや」ってずっと思いながら、ギリギリでなんとか次の学年に上がれるっていう、ほとんど透明人間みたいだったと思うんですけど。でもクラスメイトで私を面白がってくれる人たちもいて、一緒にカラオケに行ったり、公園でダベったり、そういう時間もあったんですよね。クラスの人たちは私よりずっと歌がうまくて、演歌もバリバリ歌える。すごいなーって思っていました。森さんたちのイベントや外に場所ができたことで、ようやくバランスが取れてきたというか、学校の世界を、ここはここ、として受け入れていったという。
──高校卒業後は福岡に残るという選択肢はなかった?
写真部に入っていたので、写真の学校に行って、ピアノは少しずつ勉強しようかなと思ったときもありました。でもそんなに器用じゃないから、いろいろはきっとできない。やっぱり音楽をやりたいと思って、大阪音楽大学のジャズ科を受けることにして、猛勉強を始めました。受験に必要なことは全部。でも大学には合格できなくて、そのまま高校を卒業しました。「ふくおか」っていう雑誌の後ろのほうにライブ情報が載っていて、ジャズクラブもいくつか載っていて、出演してるバンドの名前と楽器の編成がカギカッコで載っていたんですよね。「自分の親ぐらいの歳の人の中に入っていって、アドリブとかできるかな。板前さんみたいにイチから修行して、ソロを弾けるようになるのに、10年ぐらいかかるのかな」ってそんなことをぼんやり思ったりしていました。
──でも、ギリギリで運命が開けます。
卒業式が終わって、ぶらぶらしていて、なんとなく本屋さんに行ったら、全国の専門学校が載ってる分厚い本をたまたま見つけて。ペラペラめくっていたら、東京にジャズ科があるところがあった。日付をみたら、最終募集の三次試験がギリギリまだ間に合うことがわかって、それですぐ親に言って、ダメ元で受けに行ったんです。入試というのは名ばかりで、面接に行ったら先生が2人いて、「好きなピアニストは?」と聞かれて何人か答えて、「ピアノを弾いてみて」と言われたのでドクター・ジョンの曲を少し弾いたんです。そしたら先生同士が黙ってうなずいて、合格(笑)。「えー!」って驚きました。音大の受験の厳しさに比べて、肩透かしにあうぐらいフランクでした。そして、その学校でミトくんと大ちゃん(伊藤大助)に出会います。わー、ここまで長かったですね。
専門学校で出会ったミト&伊藤大助、その第一印象は?
──これまでは原田さんの福岡時代の貴重なエピソードをたっぷり聞きました。ここからは上京編、そしてクラムボン結成からデビューへというヒストリーになっていきます。
上京して音楽の専門学校(尚美ミュージックカレッジ)の「JP」(ジャズポピュラーの略。のちにデビューアルバムのタイトルにもなる)という科に入学しました。最初にクラス全員が集まった日、順番に前に出て自己紹介する時間があったんですけど、ミトくんが「ブルースが好きです。ブルースが好きな人、声かけてください」と言っていて。それで、あるとき、「ブルース好きと?」みたいに、たぶん博多弁で話しかけたと思います。
──それがファーストコンタクト?
そしたらそっけなくて、全然目が合わない。最初のほうは、お互いそんな感じだったと思いますが、何人か言われたミュージシャンを私が知らなかったので、アルバムを貸し借りすることになって。ミトくんからロバート・ジョンソンとベッシー・スミスの2枚組のアルバムを借りて、私はプロフェッサー・ロングヘアとヒューイ・“ピアノ”・スミスのアルバムを貸しました。数日経って、ミトくんから「ありがとう。聴いたけど、これはブルースじゃないよ。ニューオリンズサウンドではあるけど」と言われて、「えーーー!?」ってなりました。でも、そうとは言えず。それが最初のコンタクトだったと思います。
──どういう授業が印象に残ってます?
担任の先生は、ジャズクラブでライブをしているギタリストの清水さんという人でした。最初の授業では、全員外に連れられて、歩いて近くの木を見に行ったんです。「何か感じることあるかー? 触ってもいいし、離れて見てもいいし、何か感じるものがあったら、それはバイブレーションって言うんだけど。音楽にもあるよね」と、そんなことを話してくれました。
──面白いですね。音楽学校の授業なのに、まず木を見るなんて。
あと印象深いのは、ひたすらリズムの練習をしたこと。メトロノームを鳴らして、「タッ、タッ、タッ」って鳴ってるところを頭じゃなくて、「ウウタ、ウウタ、ウウタ」って3連符の3つめのアクセントにして、それに合わせて演奏してみる。これはもうずっと癖になっていて、いまだに車のウインカーとか、なんでも3連に聞こえます。ジャズ科だったので、「Autumn Leaves」「All of Me」「On Green Dolphin Street」などスタンダードを演奏するんですけど、ピアノを弾きたい人たちがピアノの横にずらっと並んでいて、順番に入れ替わって、バッキングを弾いたりソロを弾いたりする。長縄跳びの中に入っていくような感覚で。いきなり「はい、ソロ」となっても、その中で全然“しゃべれない”。これまで聴いてきた音楽と、いざ自分が演奏したときのギャップに愕然としました。
──音楽の言葉で“しゃべれない”、すごくリアルな体感ですね。
あとは、メインの授業に、「クラコン(クラスコンサートの略)」というのがあって。ライブを企画する人、音響、照明、告知などの裏方をする人を募って、演奏したい曲がある人はクラスの中でメンバーを集めて、その日限りのバンドを組んで発表するという授業で、ほとんどのエネルギーをそこに注いでいました。当時はパソコンもケータイもSNSもない。今よりずっとのんびりしていたなあと思います。好きなミュージシャンのアルバムを貸し借りするというのが、名刺代わりでもあったし、クラスメイトが演奏してるところを遠まきに観たり、聴いたりすることが、その人を知る手がかりでした。
──授業として架空のライブハウスを作って、そこで知り合うような感じですかね。
ドラムの大ちゃんは、自分にとって生まれて初めて会った北海道の人なんですけど、ベラベラしゃべらず、ただ黙って座っていてもなんとなく色気があって、「モテそうだな、たくさん女の人を泣かせてそう」って思っていました。完全なる偏見ですけど(笑)。クラコンで、いろんなバンドをかけ持ちしていて、大ちゃんだけ椅子に座ったまま、メンバーがどんどん入れ替わる。どんなジャンルでも、しなやかに叩いてうまかった。音がうるさくない。大ちゃんの音を「嫌だな」と感じたことは一度もないですね。
──その感じ、すごくイメージできます。
ミトくんは、東京のど真ん中に実家があって、地方から出てきた者とは圧倒的に違っていました。授業の合間にスロットに行って勝って戻ってきたり、封切りになった映画の最初の回を並んで観てから学校に来たり、あちこち動き回って、いつも忙しそう。話してることもほとんど自分には理解できなくて、たとえを交えて話してくれるんですけど、そのたとえがことごとくわからない(笑)。「こいつ、話し甲斐がないな」と思っていたと思います。
──ミトさんもめちゃくちゃイメージできます(笑)。
小学生の頃からベースを弾いていて、弾けるフレーズ、技術やセンスも抜きん出ていました。ミトくんと大ちゃんの2人でリズム隊をやることも多くて、あるクラコンで、ベーシストが体調不良で来れなくなって、その人が演奏する予定だった複数のバンドのベースを一晩で全部さらって、ピンチヒッターを担ったことがありました。あれは本当にすごかったです。
ボーカリストとしての目覚め
──まだ原田さんの音楽に、歌うことが出てきませんね。
1つ上の学年に、
──そこからなぜ歌うことに?
ピアノを自由に弾けるようになるまで、10年? いや、もっと? そこまで突き詰められるかなと早々に壁にぶつかっていたんです。でも、あるときクラコンで、ボーカルとギターのデュオをピアニカで手伝うことになったんです。練習していたら、あるパートを「歌ってほしい」とお願いされて。戸惑いはありましたけど、歌ってみたらそんなに恐ろしくなかったというか、歌がちょっと身近に思えた。それから鍵盤を弾きながらコーラスでハモったり、少しずつ躊躇がなくなっていきました。
──クラムボンも、クラコンという舞台で生まれたんですよね。
キャロル・キングの「You've Got A Friend」という曲が好きで、ダニー・ハサウェイのライブや、彼がロバータ・フラックと2人で作ったアルバムのバージョンをよく聴いていたんです。英語の曲だし自信がなかったんですけど、カバーしてみたいと思って、大ちゃんに「次のクラコン、忙しい?」と声をかけました。「そうでもないよ」ということだったので、2人でリハに入って、そこで「やっぱりベースが必要だね」となり、ミトくんを誘いました。
──その時点ではこの3人でバンドを組んだという意識もなかった?
もちろん、ないです。あくまで授業の一環だったし。本番では「別の曲?」というぐらいアレンジを変えて演奏して。間奏のパートをフリーな展開で演奏したり、すごく面白かったんです。楽器でしゃべっているような感じでした。ジャズというものを目指すのは難しいのかもしれない、と半ばあきらめていたんだけど、別のドアを開けてみたら、「ジャズってもしかしてこういう感覚なのかな」って感じることができたような。
──そんな手応えをバンドとして発展していけたのは、どういういきさつだったんですか?
学校とは別に大事な場所があって、その話をしてもいいですか? 当時、ミトくんの実家がお店をやっていたんです。SWING MATES CLUB Kという会員制の音楽クラブなんですけど、分厚いリクエストブックが各テーブルに置いてあって、お客さんがリクエストした曲を、ミトくんのご両親が生演奏してくれて(ミトの両親はフォークデュオ「カコとカツミ」名義で1970年代にデビュー。クラムボンはのちに「何も言わないで」をカバーしている)。そのお店でミトくんがバイトしていて、クラスメイトがときどき、通っていたんです。
──なるほど。それは音楽がすごく身近な環境ですね。
本当に。お店の営業が終わるのが夜中の1時ぐらいだったので、クラスメイトが終電でぱらぱら集まってきて、始発までいさせてもらう。店内には、信じられないぐらいビンテージなギターとベースがずらっと並んでいて、キーボードやドラムもあって。音響設備も整っていて、それをミトくんはパパッと使いこなしたり、弾いたりする。「すごいなあ」と思っていました。「これ聴いたことある?」「めちゃくちゃカッコよくない?」とか、CDを聴きながらしゃべることもありました。それでまた誰ともなくセッションが始まったり。そこで「この曲いいね、今度やろう」みたいに盛り上がった人たちが、次のクラコンで演奏する、といった形でフィードバックされていくこともあったし。
──授業が本番で、夜に練習。1日中、音楽をやれていた。
そうですね。音楽を聴くのと演奏するのが両方できる、なんて恵まれた場所だったんだろうって。あの場所がなかったら、クラムボンはバンドになってなかったと思いますね。ミトくんのお母さんに練習を聴いてもらって「歌がよく聞こえないわね」と言われて、アドバイスをもらったこともありました。腹式呼吸の練習、壁にティッシュを1枚置いて、息を長く吹き続けて落とさないようにするとか。そういう練習を、ミトくん付き添いのもと、やっていましたね。
──ある意味、プロになるために必要なトレーニングを自然ななりゆきで受けていたような。
そうですね。ただ、こうして振り返ってみても、学校でコンサートをやっていたことと、バンドになってデビューするということは、私の中で、あまりにもかけ離れていた。楽器を弾くことは好きでしたけど、テレビやラジオから聞こえてくる音楽や、自分たちがデビューして人前に出ていくっていうイメージはまったく持てなかったんですよね。そういうことは選ばれた人がやるもので、自分にできるはずないと。ただ、黙々と何かに取り組む、打ち込めるものができたことはうれしかった。
<後編に続く>
プロフィール
原田郁子(ハラダイクコ)
クラムボンのボーカル&鍵盤奏者。同じ専門学校に通っていたミト(B)、伊藤大助(Dr)と1995年にバンド結成。1999年にシングル「はなれ ばなれ」でメジャーデビューを果たす。自由で浮遊感のあるサウンドとポップでありながら実験的な側面も強い楽曲、強力なライブパフォーマンスで人気を集め、コアな音楽ファンを中心に高い支持を得る。バンド活動と並行して、ソロ活動、さまざまなミュージシャンとの共演、共作、舞台音楽、CM歌唱、ナレーション、歌詞提供、執筆、ドローイングなど、活動は多岐にわたる。2026年1月にクラムボンのカバーアルバム「LOVER ALBUM」「LOVER ALBUM 2」がアナログで発売。「LOVER ALBUM」は即完売で只今再プレス中となっている。
クラムボン公式サイト
クラムボン(@clammbon_jp) | X
クラムボン(@clammbon_official) | Instagram
- 松永良平
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1968年、熊本県生まれ。リズム&ペンシル。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。
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松永良平の仕事 @randpworks
【web】音楽ナタリーでの連載「あの人に聞くデビューの話」第15回、原田郁子中編が公開されました。
最終回となる後編は明日4/17公開! 昨日書き忘れましたが、撮り下ろし写真は小財美香子。#あの人に聞くデビューの話 https://t.co/u82qMAIaiz https://t.co/UF18p7JAo7