「キネマ旬報シアター応援独奏会」は、折坂が音楽活動を本格化させる前にアルバイトしていた千葉県柏駅前の映画館・キネマ旬報シアターで行われた一夜限りの特別公演。同シアターが空調設備や配管といった基幹部分の老朽化によるリニューアル工事のためにクラウドファンディングをスタートさせたことを受け、その取り組みを広めるべく企画されたものだ。
この公演の実施が決まった際に発表された折坂によるステートメント(参照:折坂悠太がかつてのバイト先で独奏会、柏市の映画館・キネマ旬報シアター支援に向けて)は、「元スタッフとして、表現者として、近隣の者として、今だけは声を大に。協力お願いします!」といつになく強い言葉で締めくくられている。なぜ彼は、声を大にしてまで、ライブに出向いてまで、キネマ旬報シアターを守ろうとするのだろうか。元スタッフとして、というつながりはもちろんあるものの、おそらくそういった愛着や“地元愛”を超えた思いがそこにあるはず。そう考えた音楽ナタリー編集部は、ライブ本番前の折坂を取材し、「応援独奏会」開催に至った経緯や、表現者として受けてきた映画館からの影響などについて話を聞いた。
なお撮影は、かつて折坂と同じくキネマ旬報シアターで映写技師として働いており、当時Ykiki Beatのメンバーとして活動していたKoki Nozueが担当した。
取材・
表現者として感じる“身に迫るような危機感”
定刻を迎え、シアター内の明かりがふっと暗くなる。ここキネマ旬報シアターで何万回と繰り返されてきた景色だが、この日は少し様子が違った。会場を埋め尽くす観客の視線の先にあるのはスクリーン……ではなく、いくつかの楽器にマイク、譜面台。そこに折坂悠太が姿を現し、マンドリンを手に「さびしさ」を奏で始める。こうして一夜限りの「キネマ旬報シアター応援独奏会」が幕を開けたのだった。
キネマ旬報シアターは、映画専門誌「キネマ旬報」を発行するキネマ旬報社が運営する、3スクリーンを有するミニシアター。1992年開業の柏ステーションシアターの施設を居抜く形で2013年にオープンし、以来10年余り、ロードショーの終わった新作や過去の名作を上映してきた。柏駅から徒歩1分、大型商業施設に紛れながら、大資本の波にささやかに抵抗するかのように営業を続けるこのミニシアターは、柏というベッドタウンの文化的な豊かさを保つうえで大きな役割を果たしてきたと言えるだろう。かつてあった柏松竹や柏シネマサンシャインは閉館し、柏駅前で営業している映画館はキネマ旬報シアターただ1つ。きっと多くの周辺住民が“最後の砦”とも言えるこのシアターに強い愛着を持ち、いろんなものを託してきたに違いない。柏で生まれ、20年以上を過ごし、今も近郊に住んでいる筆者もまたそのうちの1人である。
そして、そんなキネマ旬報シアターで映写技師として働いていたのが、幼少期から現在まで柏に住み続ける折坂悠太だ。彼は同館が存続の危機に晒されていると知り、何を思ってライブを行うことにしたのだろうか。そこには、近年感じていた柏という街の変化が関係しているのだという。
「駅前から本屋がなくなったり、個人的に『いいな』と思っていた林が消えてしまったり。極端に言えば“なくてもいいもの”が、本当にどんどんなくなっているように思えるんです。そこに、表現の仕事をしている者として、身に迫るような危機感を感じるんですよね。やっぱり都心から離れた郊外から、こうやって徐々に文化が削られていくんだなという。そういうことを、ここ最近身をもって感じていて。そんな中でキネマ旬報シアターが存続の危機に直面していると知ったので、何かやれることはないかと考え、ライブをすることにしました」
折坂は10代の頃から柏のシネコンで映写技師として働いており、ちょうどその仕事を辞めたタイミングでキネマ旬報シアターがオープン。「この機会を逃す手はない」と、同館の求人に映写技師として応募した。しかし、シネコンとは設備や環境などあらゆる面で勝手が違い、当時の人手の少なさも相まって困難の連続だったという。それでも、実際にフィルムに触れる映写技師ならではの体験は、貴重なものとして胸に刻まれているようだ。
「フィルムを編集してつないだりとか、そういう仕事もしていたんですけど、実際にフィルムを触るのってすごく面白い体験で。普段はあくまで投影されたものを観ているのであって、平面の映画しか知らないじゃないですか。そこに手で触れるのは、体験としてすごく立体的というか。“映画に手で触れた”という感覚があるんですよね。フィルム上映は、映像にも“物が持つ気”が込められている気がして。スクリーンの奥にある空間的な広がりとか、匂いみたいなものを感じるんです。映画とそういう形で関われたというのは、自分にとってすごく大切な経験ですね」
コントロールできない環境で何かを感じる大切さ
家で、電車で、休憩中のオフィスで、配信サービスを使えばいつでもどこでも、邪魔されることなく1人で映画を観ることができるこの時代。それでも、映画館で映画を観ること自体に大きな価値があるのだと、多くの人がわかってくれることだろう。そんな“映画館で映画を観る”という体験の価値は、折坂にとってはいったいどこにあるのだろうか。
「1人で配信で観るのとは違って、“映画館で映画を観る”という体験は、自分だけのものじゃないんですよね。隣の人のリアクションを感じたり、いろんなものが総合されて自分の体験になっていく。そういう、自分がコントロールできない環境で何かを感じたりするのって、とても大切なことだと思うんです」
映画館で映画を観るのと同じくらい、“ライブで音楽を聴く”という体験も、自分でコントロールできない要素が多くあるものだ。この日のライブでも、思わぬところで誰かの手を叩く音が鳴り、時折幼い子供が笑い声を上げていた。みんなが同じものを観ていても、それぞれの在り方は決して同じではなくバラバラ。そういった状態に価値を見出す姿勢は、彼が以前野外フェスについて語った言葉とも重なる部分があるかもしれない。
「もちろんライブハウスやホールで全員が集中して聴いている状態もそれはそれでよさがあるけど、音楽の在り方として自然なのは、もしかしたら野外フェスのような形なのかもしれないと思うんです。吸い寄せられるように来て、立ち尽くして、自分のタイミングで離れて、また戻って来て、みたいなことを自由にできる状態こそ、音楽の在り方、ひいては表現の在り方として自然な気がするし、私はそういう空間が好きなんですよね」(参照:折坂悠太が考えるフェスの自由さ、音楽の在り方|「FUJI & SUN '25」開催記念特集)
そして、そういったアンコントローラブルな要素は、折坂の奏でる音楽自体にも多分に含まれている。それこそが、何かを表現するうえで映画館から学んだことなのだと彼は語ってくれた。
「音楽においても、いろんな雑音が入っているというのはすごく大事なことだと思っているし、自分の作品にも“コントロールできない要素”を入れるようにはしていて。偶然入った音とか、『この人とやると、なんかわかんないけどこういう音楽になるよね』という“ヨレ”や揺らぎ……簡単な言葉になってしまうけど空気感みたいなものですよね。そういうものを大事にしたいし、それは映画館という特殊な空間で学んだことなのかなと思います」
映画館は実験の場
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キネマ旬報シアター @kinejun_theater
【折坂悠太 キネマ旬報シアター応援独奏会】
その模様を音楽ナタリーさんに取材していただきました
クラウドファンディングをきっかけに実現した特別な一夜。ぜひご覧ください。 https://t.co/1u16hq4BCC