2010年代のアイドルシーン Vol.1 [バックナンバー]
“アイドル戦国時代”幕開けの瞬間(前編)
吉田豪、川上アキラ、山田昌治らが振り返る伝説のイベント
2020年5月26日 20:00 157
“アイドル戦国時代”という言葉が生まれてから約10年が経った。2010年代、アイドルシーンでは運営規模の小さなライブアイドルや地域密着型のローカルアイドルを含め、数多くのグループが誕生。アイドルを名乗るタレントの数が日本の芸能史上最大になったと言われている。ビジュアル、楽曲、パフォーマンスなどあらゆる面でアイドルの定義を広げたこのブームは、それまでアイドルカルチャーに興味がなかった層をも巻き込み、その市場規模を拡大させた。
音楽ナタリーではこの10年間のアイドルシーンを多角的に掘り下げる連載企画をスタートさせる。第1回となる今回は
取材・
2010年が一番面白かった
2010年、エンタテインメントの世界で地殻変動が勃発した──アイドル戦国時代の幕開けである。この2010年を機に数多くのグループが世に出て、国民はアイドルの動きを注視するようになり、結果として業界地図は塗り替えられることになる。とはいっても、すべての音楽的ムーブメントがそうであるように、このアイドル戦国時代も突然変異的に始まったものではない。そこには一定の必然性があったのも事実である。
日本の女性アイドルを振り返ってみると、1970年代にキャンディーズやピンク・レディー、そして山口百恵が一世を風靡。80年代に入ると松田聖子と中森明菜の2大巨頭を筆頭に、河合奈保子、小泉今日子、松本伊代、早見優、堀ちえみらが才能を開花させ、アイドル黄金時代へと突入する。グループでは80年代半ばのおニャン子クラブ旋風、そして2000年前後のモーニング娘。フィーバーが大きなうねりとなって時代の空気を支配した。
しかし、浮き沈みが激しいのが芸能界の常だ。上記のスターたちも多くは全盛期が短命に終わり、モーニング娘。が所属するハロー!プロジェクトが大規模な組織改編を行った2002年あたりから徐々にアイドル全般の人気が陰りを見せ始める。その間、AKB48が2005年に結成されるものの、国民的な存在となるのはもう少しあとの話。また歌手活動ではなく写真集や雑誌を主戦場とするグラビアアイドルが台頭してきたのもこの頃の特徴だが、本稿のテーマとは外れるため割愛させていただく。
アイドル文化に造詣が深く、これまで多くの取材を重ねてきたプロインタビュアーの吉田豪は「この20年くらいのアイドルシーンを振り返ってみて、一番面白かったのは確実に2010年」と断言する。この年、アイドル界では3つの大きな動きが同時多発的に起こった。ニッポン放送が主催するアイドルフェス「アイドルユニットサマーフェスティバル2010」、NHKの人気番組「MUSIC JAPAN」のアイドル特集回、そして記念すべき1回目の「TOKYO IDOL FESTIVAL」(TIF)である。一体、これらの舞台裏で何が起こっていたのか? 吉田は関係者から話を聞きつつ、当事者にぶつけて言質を取るという作業をライフワークとして続けているのだという。
「それまで絡みがなかった人たちが同じ土俵に立つ……この構図が面白かったんですよね。あとは明らかにプロレス心を持った人たちが運営側にそろっていた。そこで“事故”が起こったというわけです。事故とはどういうことかというと、交流戦をやっているつもりなのに、交流戦だと考えていない人たちが混じった状態。つまり『仕掛けろ!』という発想を持った一派がいたんです。ももいろクローバー(のちのももいろクローバーZ)の川上アキラさんしかり、スマイレージ(のちのアンジュルム)の山田昌治さんしかり……もちろん、そういった過激な考え方じゃない人もその場にいましたけど」(吉田)
アイドルブームへの“疑い”が“確信”に
今も語り継がれる伝説のイベント「アイドルユニットサマーフェスティバル2010」は、8月30、31日の2日間にわたって開催された(参照:最後にサプライズも!アイドル4組が渋谷で夏フェス)。出演者はSKE48、スマイレージ、ももいろクローバー、bump.yという気鋭のグループ4組。しかし、開催されるまでにはさまざまな思惑が交錯していたようだ。まずは吉田の解説に耳を傾けてみよう。
「『アイドルユニットサマーフェス』はニッポン放送が主催で、吉田尚記アナが司会をやったりもしてたんですけど、かなり絶妙なチョイスだったと思うんですよね。ハロー!プロジェクトと48グループという当時は禁断だった絡みに、若手ながらもやたらギラギラしていた6人時代のももクロを加えて、それだけだと殺伐としすぎちゃうから、そこにbump.yも混ぜる。あれはなんのためのブッキングかというと、ステージで平和に朗読とかやり始めるbump.yはなんの対立構図もない、永世中立国のスイスみたいな存在。bump.yを混ぜることで“三つ巴の闘い”という構図が露骨にならないで済むというわけです。そして実はこのイベントには重要なキーパーソンが深く絡んでいた。それは当時『B.L.T.』の編集長だった井上朝夫さん(現HUSTLE PRESS社長)です」(吉田)
唐突に登場したようにも感じられる井上の名前だが、奇しくもニッポン放送側の担当者・増田佳子からも同じように上がってきた。どうやら「B.L.T.」の井上がアイドル戦国時代の黎明期において重要な役割を果たしたことは間違いなさそうである。以下の証言はニッポン放送の増田が音楽ナタリーのメール取材に応じてくれたもの。10年当時の増田が置かれていた状況を整理すると、前年の09年秋に制作ディレクターからエンターテインメント開発部に社内異動があった。そこで上司から「夏休み最後の2日間に渋谷公会堂が取れたから、何か企画して」と言われたのだという。
「何を企画するか悩んでいるときに、『来年の夏はアイドルが熱くなる』という情報があちこちから入ってきました。当時はまだ『アイドルブームがくる!』という感じでもなかったのですが、誰もやったことがないアイドルフェスというものにチャレンジしてみたくなって企画しました。
企画に際してはアイドル情報にもっとも詳しい『B.L.T.』井上編集長(当時)に勢いのあるアイドルを推薦していただきました。そこで『ハロー!プロジェクトはほかの事務所とライブをしたことがない』という情報もいただき、4組に絞って実施することになったのです」
新しい環境で右も左もわからず困惑する中、井上のサジェスチョンに救われた様子が文面からも伝わってくる。と同時に前代未聞のことに挑戦する以上、「アイドルユニットサマーフェス」は増田にとっても一種の賭けだった。克明なレポートは続く。
「アイドルフェスを企画してからは、社内外で『本当にアイドルブームなんて来るの?』と疑いの目をかけられていました。しかしチケット発売を開始すると即完売し、周りの人たちのアイドルブームへの“疑い”が“確信”に変わったことを感じました。特にハロー!プロジェクトのライブにしか出演したことがないスマイレージが参戦したのは、大きな話題となりました。それからSKE48も地元・名古屋での人気が爆発する中での東京進出でしたから、期待感はすごいものがありました。
チケットが即完売したことは業界内でも話題となり、あちらこちらからアイドルフェスの企画書が出回るようになりました。実際に開催日当日を迎えて印象に残っているのは本番前の囲み取材。マスコミの数の多さが話題の高さを物語っていました。翌日の取材露出の数も多く、まさに“アイドル戦国時代の幕開け”を肌で実感しました」
あからさまに明暗が分かれた
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吉田光雄 @WORLDJAPAN
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