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會田茂一

渋谷系を掘り下げる Vol.5 バックナンバー

“裏番”會田茂一が語るアナザーストーリー

「それぞれが自分たちの価値観でカッコいい音楽を模索していた」

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ジャンルを超えたミクスチャーな交流

──1991、92年頃は、フリッパーズ・ギターに端を発する渋谷系の動きが活性化していく時期ですが、會田さんはそれをどう捉えていましたか?

フリッパーズ・ギターとは同世代なんですけど、当時は接点がなかったですね。The Smithsは好きでしたけど、フリッパーズのネオアコは違って聞こえたし、Fishboneの影響で、イキがってバンダナを巻いたりしてたんで(笑)。自分がボーダーのカットソーを着てベレー帽を被るのは小っ恥ずかしいというか、僕のいた場所からはネオアコシーンは見えてこなかった。でも、「DOCTOR HEAD'S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-」(1991年)は、当時聴いて衝撃を受けましたけどね。あのブレイクビーツやサンプリングのセンスは引っかかりました。

──のちにThe Cornelius Group、Neil and Iraizaで活躍する堀江博久さんもACROBAT BUNCHに参加していたそうですね。

堀江くんは黒田マナブさん率いるモッズバンド・THE I-SPYにいたんだけど、ACROBAT BUNCHでは正式メンバーというより、「今度こんなライブがあるから来れたら来て」みたいなユルい感じで。ちょうどBeastie Boysの「Check Your Head」がリリースされた頃だったから、「マニー・マークみたいな鍵盤弾いてよ」なんて言って呼んでましたね(笑)。僕や堀江くんは当時からシーンをまたいで、いろんなセッションに参加するタイプでした。

──ACROBAT BUNCHが参加したコンピレーション「OMNIBUS#1~玄人はだし」(1993年)はロック×ヒップホップの先駆けとなった作品ですね。

90年代に入ると、ジャンルを超えたライブやイベントが増えて、僕らもCOKEHEAD HIPSTERS、Hi-STANDARDと対バンする一方で、ヒップホップのECDやキミドリとも一緒にライブをして刺激を受けていたんですよ。それで、ACROBAT BUNCHにラップアーティストをフィーチャーしてアルバムを作ってみようということになった。何か新しい音楽の流れが生まれつつあって、それがどうなっていくのか誰もよくわからない、演奏はかなり荒っぽいけど、その混沌とした感じがよく出ていましたね。「SHAKE A MOVE」(1992年)というコンピには僕らとHi-STANDARDやシアターブルックも入っていたし、90年代前半に恒ちゃん(恒岡章 / Hi-STANDARD)とかその後つながってゆく人たちと出会っているんですよね。

アシッドジャズシーンに図らずも参入

──同時期にEL-MALOも本格的に動き始めていますね。柚木さんは、ラテンユニットの東京リズムキングスの周辺にいたとか。

柚木さんは当時、ウィリー柚木と名乗って、トロンボーンで参加していたんです。東京リズムキングスは僕らより世代も上で、イラストレーターやクリエイターを擁した大人のクラブ系の人たちという感じがしましたね。柚木さんの家にはもう録音機材があったし、持ってるレコードの量も僕らとは比べものにならないくらい多くて、それまで自分の周りにいた先輩たちとも違う、まあ年齢不詳の不思議な大人でした。

──S-KENさんプロデュースのアシッドジャズ系のコンピレーション「Jazz Hip Jap」(1992年)にMonday満ちる、DJ KRUSH、DJ タケムラ(竹村延和)と並んでEL-MALOが参加しているのも興味深いです。

あれは柚木さんが持って来てくれた話だったんですけど、僕も柚木さんもクールなアシッドジャズコンピっていうのがどうにも落ち着かなくて。そのイメージからはみ出たくて、いきなりギターのフィードバックから始めてみたりして、そのときからけっこうひねくれていました。

──でも、その作品が93年には「Jazz Hip Jap Project」としてイギリスのMo'Waxレーベルより海外でもリリースされて、トイズファクトリーが設立したレーベル・bellissima!に発展してゆくわけですね。

SILENT POETS、Spiritual Vibesと共になぜかEL-MALOにもbellissima!から声がかかったんです。90年代前半はメジャーのレコード会社も新しいレーベルを立ち上げて、クラブ系の音楽の可能性を探っていたんでしょうね。でもコンピに参加したとはいえ、自分たちが日本のアシッドジャズシーンにいるつもりも全然なくて。それに、bellissima!と聞いて思い浮かぶのは、やっぱりピチカート・ファイヴだったから、俺らみたいなのが入っていいのかなって。

──柚木さんは、「メジャーのレコード会社と契約したら1億くらいもらえるかと思っていた」そうですが(笑)。

それは残念ながら(笑)。レーベルに所属してもアーティスト契約という形ではなかったし、EL-MALOとして本格的に活動していくことはあまり考えていなかったんですが、アルバムを作ることには興味があったんです。堀江くん、おいちゃん、ベースのキタダマキくんが結成したSTUDIO APESのメンバーと一緒に新しい音を作ってみたい気持ちも強かった。

──1stアルバム「STARSHIP IN WORSHIP」(1993年)は、日本国内より海外での評価が高かったそうですね。

日本でも一部のクラブミュージック好きには受けたんですけど、ダブ、ラテン、ロックといろんな音楽の要素を詰め込んだもんだから、レコード店でもモンドミュージックのコーナーに置かれたりして(笑)。よく言えばエクスペリメンタルではあったんだけど、わかりやすいジャンルには入れてもらえなかったし、自分たちでそうしたところもあったんですよね。

──簡単にはカテゴライズされない音楽をやろうとしていた。

そういうことですよね。1stアルバムをリリースしたあとだったかな? レーベル主催のイベント「bellissima! night」があったんですけど、EL-MALOはライブを想定していなかったから困っちゃって、開き直ってThe Rolling Stonesやフランク・ザッパのカバーをやったんですよ。しかもSonic YouthのTシャツを着て(笑)。

──最初から、人を喰ったようなことをしていたんですね(笑)。

ずいぶんフザけたことをやってましたね。自分たちの柄とは相容れないおしゃれなレーベルカラーが照れ臭かったというのもあったし、先のことはまったく考えていなかったんですよ。

小山田圭吾との出会い

──ところが、94年には小山田圭吾さんをプロデューサーに迎え、ミニアルバム「Blind」、2ndアルバム「THE WORST UNIVERSAL JET SET」をリリース。暫定的なユニットではなく、本格的に活動していくようになります。

1stアルバムがわりと好評だったので、2枚目も作ることになったんですが、次のステージに進むためには、インストではなく歌の入った記名性のある音楽のほうが可能性があるんじゃないかって。それで小山田くんなら、日本語で歌うときにアドバイスをもらえるかもしれないし、お互いに面白がれる部分もありそうだと。ただ、プロデューサーが小山田くんだと聞いて、レコード会社の方は驚いていましたね。

──小山田さんのプロデュースはレーベルサイドからの提案ではなく、お二人の考えだったんですね。

そうなんですよ。小山田くんは1stを聴いて、EL-MALOを面白いと思ってくれて、ライブを観に来てくれたんです。西麻布YELLOWのステージに全身迷彩の服で出たときに紹介されたのが最初だったかな。その頃からカヒミ・カリィの曲をEL-MALOでプロデュースしたり(1994年リリースの2ndシングル「GIRLY」に収録された「Lolita Go Home」)、渋谷系と呼ばれるミュージシャンの方々と距離が近くなっていったんです。

──小山田さんもCorneliusとしてデビューして、1stアルバム「THE FIRST QUESTION AWARD」(1994年)をリリースした頃ですね。

渋谷系がブームになったのって、その頃でしたよね? 僕らが渋谷系の枠でギリギリ語られるのは、小山田くんのプロデュースと、カヒミ・カリィの仕事、あとは2ndにラヴ・タンバリンズのELLIEちゃんがボーカルで参加していることくらいかなと思うんですけど……そういえば小山田くんがプロデュースすることになって、レコード会社の制作スタッフが邦楽セクションの人たちに変わって、「Blind」がいきなり大阪のFM802のヘビーローテーションに決まったんですよ。そこからですね、マネージメントオフィスにも入り、いろいろ動き出したのは。

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““渋谷系の裏番”として快進撃

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