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會田茂一

渋谷系を掘り下げる Vol.5 バックナンバー

“裏番”會田茂一が語るアナザーストーリー

「それぞれが自分たちの価値観でカッコいい音楽を模索していた」

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1990年代に日本の音楽シーンで起きた“渋谷系”ムーブメントを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。第5回は、木村カエラをはじめとする数多くのアーティストへの楽曲提供やプロデュースを手がけるギタリスト、會田茂一へのインタビューを掲載する。かつて“渋谷系の裏番”の異名を取った2人組がいた。柚木隆一郎と會田によって結成されたEL-MALO(エルマロ)のことだ。1993年にメジャーデビューを果たし、小山田圭吾をプロデューサーに迎えたアルバムで注目を集めることになった彼らは、なぜ“裏番”と呼ばれるようになったのだろうか。渋谷系前夜にバンド活動をスタートし、ロックシーンが変容してゆく怒濤の90年代を駆け抜けたアイゴンこと會田は、「あの頃はどこからもはみ出そうとしていた」と振り返る。その反骨精神と天の邪鬼ぶりはEL-MALOの一筋縄ではいかない面白さでもあった。ここでは彼の音楽的変遷と人脈をたどりながら、混沌と乱調の中で新たな価値観を見つけようとしていたアイゴンの視点から見た渋谷系のアナザーストーリーをお届けしたい。

取材・文・編集 / 佐野郷子(Do The Monkey) 撮影 / 相澤心也

モッズ~ネオGSシーンとの出会い

──會田さんのミュージシャンとしてのキャリアはいつから、どのように始まったのでしょうか?

僕は高校時代にTHE BARRETTというバンドにいて、新宿LOFTに出たり、「YAMAHA EAST WEST 86'」のジュニア部門のグランプリとベストギタリスト賞をもらったりしたんですが、好きな音楽がMUTE BEATや「TOKYO SOY SOURCE」(JAGATARAやMUTE BEAT、TOMATOS、s-ken & hot bombomsらが出演していたライブイベント)周辺に変わってきたこともあり、大学1年のときにやめちゃったんです。ちなみに僕がやめたあとにギタリストとして加入したのが現The Birthdayのフジイケンジ(藤井謙二)くんでした。で、その頃から僕は、お茶の水の楽器店で知り合ったTHE COLLECTORSの(古市)コータローくんとのつながりでネオGS界隈に出入りするようになったんです。

──かといって東京モッズ~ネオGSシーンにどっぷりというわけではなかった?

そうなんですよ。その中にはGREAT3の片寄(明人)くんもいたし、モッズの音楽もファッションも好きでしたけど、僕はもっとユルかったから、その時点でもう道を外れていたとも言えるんですよね(笑)。それにネオGSの中核をなすバンドは僕より少し上の世代で、ワウ・ワウ・ヒッピーズにいた(高桑)圭くんなんて、すごく年上だと思っていたら、1歳しか違わなかったとあとでわかるんですけどね。ただ、これから音楽をやっていくなら、今までのロックバンドとは違う方向に進みたいと思って、メンバーを探したり、いろんなイベントに顔を出したりしていました。コータローくんとの縁で、GO-BANG'Sのオーディションを受けて、そこでプロデューサーだったMUTE BEATの朝本浩文さんに出会うことができたのも大きかった。

──朝本さんがMUTE BEATを経て、Ram Jam Worldを結成する前ですね。

朝本さんには音楽的にもシンパシーを感じていたんですよ。僕もバンド一辺倒から、いろんなジャンルの音楽がどんどん面白くなってきて。あれもやりたい、これもやりたいという欲求が高まっていたんですが、80年代後半は、イカ天・ホコ天の時代で、なかなか同じ志向の仲間を見つけられなくて。大学にはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTやフィッシュマンズのメンバーも同じ時期にいたみたいなんですけど。のちに仲よくなるウエノ(コウジ)くんや欣ちゃん(茂木欣一)は、キャンパスですれ違っていたような気がしないでもないけど、僕はサークルに入っていなかったし、高校から上がってきたので、なんとなく環境が違ったんですよ。

ギタリストとしてクラブカルチャーに接近

──ようやく仲間を見つけて、自分の目指す音楽で活動するようになったのはLOW IQ 01さんも在籍していたバンド、APOLLO'Sからですか?

そうですね。イッちゃん(LOW IQ 01)とは高校時代から地元の仲間で、APOLLO'SにはのちにGREAT3や小沢健二さんのバックでパーカッション奏者として活躍する高校の同級生のおいちゃん(及川浩志)もいたんです。初めは2トーン系だったんですが、Fishboneの影響もあって、ミクスチャースタイルのバンドになっていった。ライブは代々木チョコレートシティでやることが多かったかな。代チョコには、ヒップホップやレゲエ界隈の人たちも出演していて、エマーソン北村さんがPAをやっていたり、いわゆる邦楽のロックとは違う志向の人たちが集まっていましたね。

──80年代後半から90年代初頭のアンダーグラウンドシーンでは、従来の邦楽とは違う音楽が生まれつつあったと?

そうだと思います。当時はそんな新しい流れの中にいたバンドやアーティストをコンパイルしたアルバムがたくさんリリースされて、APOLLO'Sも「See Ya! MUSICA SERIES#1」(1991年)や「A TRIBUTE TO GODZILLA」(1991年)という作品に参加したんですよ。

──その「A TRIBUTE TO GODZILLA」にはAPOLLO'Sと並んで、すでにEL-MALO with Ska Flames名義での曲も収録されています。

柚木(隆一郎)さんとはもう知り合いだったんですけど、そのアルバムのレコーディングで、レコ社の人が「ゴジラのテーマをスカでやってほしい」的なことを言ったんで、2人で作ったのが最初でした。

──そのコンピのために決めたユニット名がEL-MALOだった?

そうなんです。ただ、僕はAPOLLO'Sから発展したバンド、ACROBAT BUNCHでも活動していたし、Ram Jam WorldやCutemenにも参加していたから、同時期にいろんなところに首を突っ込んでいた感じだったんですよ。どこからがプロかという線引きは微妙ですが、僕の場合は90年頃からなんとなく始まった感じですね。

──バンドをやりつつ、會田さんはセッションギタリストとしてクラブミュージックにも接近していったわけですね。

サンプリング全盛時代に、ギタリストとして呼ばれる機会が増えていったんですよ。朝本さんがプロデュースをしていた縁で電気グルーヴのレコーディングに遊びに行ったり、「Dance 2 Noise 003」(1992年)というコンピに収録された石野卓球さんと渡辺省二郎さんの変名ユニット・Jamaican Zamuraiの曲(「恋のダイヤル0990」)にも呼ばれたりして。そういう新しい音楽シーンにいるのは僕もすごく楽しかったし、そこで自分にしかできないことを探っていこうとしていましたね。

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“ジャンルを超えたミクスチャーな交流

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