市村正親・石丸幹二ら、演劇に“すべてを捧げ”た浅利慶太偲ぶ「母鴨のように」

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2017

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本日9月18日、「浅利慶太 お別れの会」が東京・帝国ホテル 東京 孔雀の間で実施された。

「浅利慶太 お別れの会」より、祭壇に飾られた劇団ロゴマークのモチーフ・ハープ(左)と、浅利慶太の遺影(中央)。

「浅利慶太 お別れの会」より、祭壇に飾られた劇団ロゴマークのモチーフ・ハープ(左)と、浅利慶太の遺影(中央)。

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劇団四季創立メンバーの1人である演出家の浅利慶太は、去る7月13日に東京都内の病院にて85歳で死去。死因は悪性リンパ腫だった。

「浅利慶太 お別れの会」より、祭壇に飾られた浅利慶太の遺影。

「浅利慶太 お別れの会」より、祭壇に飾られた浅利慶太の遺影。[拡大]

会場には市村正親石丸幹二久野綾希子堀内敬子加賀まりこなど劇団四季や浅利にゆかりのある多くの人々が集まった。東京・自由劇場の銅鑼の音を合図に式典が始まると、浅利のインタビューや稽古の様子を収めた約20分間の映像が場内のスクリーンにて映し出される。映像では、脚本と言葉を重視する浅利の演劇論をはじめ、舞台を観て観客に感動を味わってほしいという願い、自身も第二次世界大戦を経験した浅利の戦争と平和への思いなどが語られたほか、ミュージカル「コーラスライン」より「愛した日々に悔いはない」の訳詞にまつわるエピソードが披露された。

「愛した日々に悔いはない」の現行の歌詞では「すべてを捨てて 生きた日々に悔いはない」と歌われているが、映像で浅利は「『すべてを捨てて』より『すべてを捧げ』が適当なのではないか、という意見がかつて稽古で出て、僕はまったくその通りだと思ったので『すべてを捧げ』にしたんです。でも若い俳優たちは、『捧げ』ではピンとこないと言う」とエピソードを紹介。自身と若者の感覚の違いを「昭和27・28年頃の僕らの時代は何もなかったから、自分を“捧げ”るしかないんですよね、演劇に。だけど若い彼らにはあらゆる選択肢があって、それを“捨てて”(演劇に)生きている」と分析しつつ、「金森(編集注:金森馨。劇団四季の舞台美術を担当した。1980年没)くんが亡くなったとき、お葬式で献歌としてこの曲を歌いましたが、そのときは『すべてを捧げ』と歌詞を変えました」と明かし、本楽曲への思いを「舞台に生きる、芸能に生きる人間の心かなと」と語った。

起立して「愛した日々に悔いはない」を歌唱する劇団四季の劇団員たち(後方)。

起立して「愛した日々に悔いはない」を歌唱する劇団四季の劇団員たち(後方)。[拡大]

涙をこらえながら「愛した日々に悔いはない」を歌う久野綾希子(中央)、市村正親(右)。

涙をこらえながら「愛した日々に悔いはない」を歌う久野綾希子(中央)、市村正親(右)。[拡大]

映像が終わると、献歌として「愛した日々に悔いはない」が斉唱される。今回は上述の浅利のインタビュー映像を受け、歌詞の「すべてを捨てて」を「すべてを捧げ」と変更して歌われた。後方に並んだ劇団四季の俳優たちが起立して歌唱する中、最前列に着席していた市村、久野ら元劇団員たちもその場で立ち上がり、時折涙をこらえる様子を見せながら高らかに同楽曲を歌い上げた。

「浅利慶太 お別れの会」より、野村玲子。

「浅利慶太 お別れの会」より、野村玲子。[拡大]

その後は親族を代表し、浅利の妻で劇団四季出身の野村玲子(本名は浅利玲子)が挨拶する。野村は「主人は人間が好きでした。仲間が好きでした。役者の新しい才能を見出し、その成長する姿にいつも目を細めて喜んでおりました。そのまなざしは20歳で劇団を創立したその当時から少しも変わらない純粋な演劇青年の瞳そのものだったように思います」と故人を偲び、「これからも主人が大切にしてきた演劇への思いを受け継いで活動を続けてまいりたいと思っております」と胸の内を語った。

「浅利慶太 お別れの会」より、献花を行う出席者たち。左から吉井澄雄、野村玲子、劇団四季の吉田智誉樹代表取締役社長。(撮影:荒井健)

「浅利慶太 お別れの会」より、献花を行う出席者たち。左から吉井澄雄、野村玲子、劇団四季の吉田智誉樹代表取締役社長。(撮影:荒井健)[拡大]

挨拶ののち、野村をはじめ、劇団四季の創立メンバーで照明家の吉井澄雄、劇団四季の吉田智誉樹代表取締役社長が、ミュージカル「エビータ」より「アルゼンチンよ泣かないで」の生演奏をバックに献花を行った。

「浅利慶太 お別れの会」囲み取材より、市村正親。

「浅利慶太 お別れの会」囲み取材より、市村正親。[拡大]

その後の囲み取材には、市村、加賀、石丸らが出席した。1973年から90年まで劇団四季に在籍していた市村は、「俳優としての0歳から浅利先生に育ててもらいました。彼は僕を含め、多くの“子供”を俳優として世に送り出してくれた」と故人を振り返る。さらに「演劇人として僕は、僕なりの肉体をもって(浅利の言う)生きる素晴らしさを表現していかなければと思っています」と意気込んだ。

「浅利慶太 お別れの会」囲み取材より、加賀まりこ。

「浅利慶太 お別れの会」囲み取材より、加賀まりこ。[拡大]

1965年に「オンディーヌ」のタイトルロールを務めた加賀は「オンディーヌをやってから今まで女優の仕事を続けてこられた」と浅利への感謝を口にする。加賀は浅利の思い出として、「オンディーヌ」の初日に加賀が舞台上で鼻血を出してしまい、それが白い衣装にかかってしまったというエピソードを紹介し、「そのときの浅利さんの慌て方……(笑)。袖へすっ飛んでいらして『早く引っ込め!』と。日頃の浅利さんは紳士で落ち着いていらっしゃったので、すごく印象に残っています」と微笑みを浮かべ、「これからも四季の作品を観ていきたい」と締めくくった。

「浅利慶太 お別れの会」囲み取材より、石丸幹二。

「浅利慶太 お別れの会」囲み取材より、石丸幹二。[拡大]

続いて石丸は「改めて、感謝の気持ちでいっぱい」と謝辞を述べつつ、浅利の印象的な言葉として「人の時計を見ないで自分の時間で動け」を挙げて「台本をもらった途端に覚えてしまう人もいましたが、私はじっくり型で……我慢して待っていてくださった」と劇団時代を回顧する。また東京藝術大学在学中に劇団四季「オペラ座の怪人」でデビューした石丸は「自分にとって四季は、初めてプロの社会を見せてくれた場所。浅利先生の姿は自分にとって“母鴨”のように印象に残っていて……その思いはずっと一生忘れません。のちの“子鴨”たちにも受け継いでもらいたいと思います」とメッセージを送った。

浅利は1933年3月16日生まれ。53年に慶應義塾大学、東京大学の学生を中心に10名で劇団四季を結成する。以後、劇団の代表としてほぼ全作品のプロデュースや演出を手がけ、「ウェストサイド物語」「コーラスライン」「ライオンキング」など海外作品の翻訳上演をはじめ、「夢から醒めた夢」「ユタと不思議な仲間たち」「昭和の歴史三部作(「ミュージカル李香蘭」「ミュージカル異国の丘」「ミュージカル南十字星」)」などオリジナルミュージカルも製作した。

14年に代表を退いてからは浅利演出事務所を設立し、“浅利慶太プロデュース公演”として計12公演の演出を担当。最後の演出作品は今年4月に東京・自由劇場で上演された「ミュージカル李香蘭」、最後に企画・準備を手がけたプロデュース作品は今年9月12日まで同劇場で上演された「アンドロマック」となった。

野村玲子(浅利玲子)コメント全文

本日はお忙しい中、お別れの会にご参列くださいましてありがとうございました。
遺族を代表いたしましてひと言ご挨拶申し上げます。
主人は85年の人生を演劇に捧げ抜き、未来への夢を持ちながらこの世を去りました。
生きる勇気と感動をお客様にお届けする。これが主人の変わらぬ思いでした。今日ここにご参列くださいました皆様には、その理念にご賛同くださり、長年にわたって多大なお力をいただいてまいりました。改めて心から感謝申し上げます。
主人は人間が好きでした。仲間が好きでした。役者の新しい才能を見出し、その成長する姿にいつも目を細めて喜んでおりました。そのまなざしは20歳で劇団を創立したその当時から少しも変わらない純粋な演劇青年の瞳そのものだったように思います。
これからも主人が大切にしてきた演劇への思いを受け継いで活動を続けてまいりたいと思っております。今後も変わらぬお力添えを賜りますようお願い申し上げます。
本日は誠にありがとうございました。

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