スーパーで買ってきた見切り品のカツオたたきだけど、おいしいよ

前川知大の「まな板のうえ」 第4回 [バックナンバー]

料理も木口木版も、味を深めるのは“自然の無作為と作家の作為”

干し野菜の美味さを地球に感謝

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劇作家、演出家でイキウメ主宰の前川知大は、知る人ぞ知る、料理人でもある。この連載では、日々デスクと台所に向かい続ける前川が、創作と料理への思いをつづる。

お遍路、お接待、カツオの味

大学の夏休み、四国でお遍路をしていた時のことです。夕方、高知県の海岸沿いを歩いていると、元気のいいおばさんに声をかけられました。カツオを食べさせてやる、ついてきな、と言います。お接待です。お接待とは四国の文化で、お遍路さん(八十八ヶ所霊場巡りする人)を労うこと。食事や物品、時には現金をもらうこともありました。お遍路さんはいつでも弘法大師(空海)と一緒なので一人でも同行二人。お遍路さんを労うことは弘法大師をお接待することなのです。そして日々に忙しい自分の代わりに巡礼をしてくれている、という考えもあります。

土佐のカツオ! 断る理由はありません。というかお接待は礼儀として断ってはいけないルールなのです。すぐそこだからと、おばさんの自宅へ向かいます。彼女はカツオの行商だというから、道々期待は高まります。ご飯を炊くから楽にしていなと、少し散らかった居間に通されました。彼女はぶっきらぼうだけど愛嬌があってエネルギッシュ、掃除していない部屋に人を上げることも気にしません。オープンな態度で、一緒にいると心がほぐれるような人でした。部屋に飾ってある絵を見ていると、全て同じ人の絵です。それは見たこともない木版画でした。彼女はその人の作品集を本棚から数冊出してくれ、日和崎尊夫の作品だと教えてくれました。今回はこの人の木版画を話の入口としてみたいと思います。

いやいや、料理の連載なんだからカツオの話だろ、という声が聞こえてくるので、まずはカツオの感想の書くことにしますか。出てきたのは炊きたてご飯と大量のカツオのお刺身。ぶつ切りのように一切れが大きい。それが乱暴に盛り付けられ、漁師めしという風情。さすが行商という感じです。食べ方はにんにくと塩だけ。醤油もポン酢も生姜も玉ねぎもありません。スライスのにんにくと塩、それだけです。そんなふうにカツオを食べたのはこれが初めてでした。本当に美味しかった。ねっとりとした味の濃いカツオに塩、これだけも美味しいのに、生にんにくの香りと辛味が口の中で弾けてカツオと混じり、もうご飯を掻き込まずにはいられない。そして冷たい麦茶。歩いて歩いて塩をふくほど汗をかいた日の最後に食べるものとして、完璧な一品でした。歩いているだけでこんなものを食べさせてもらえるなんて、四国最高。感謝。毎年カツオの時期にはこの時のことを思い出します。

木口木版に感じた自然の無作為と作家の作為

木口木版の影響か切り株に惹かれ、散歩ルートの切り株の朽ちをウォッチしています。

木口木版の影響か切り株に惹かれ、散歩ルートの切り株の朽ちをウォッチしています。

さて、日和崎尊夫は高知出身の版画家で、1992年に50歳の若さで亡くなっています。独特の緊張感と迫力のある作風で、太古の昔から私たちに繋がる、原始的な生命のようなものを感じました。作品タイトルからも、無や無限といった概念を表現しようとしているのが分かり、興味をそそられます。じっと見ていると深淵に引きずりこまれそうな怖さもあります。私は作品集を数ページめくっただけで、これは好きなやつだ、とわかりました。

特に印象的なのは、木口木版の作品です。木口木版とは木を輪切りにした断面を版木とした版画です。必然的に作品は切り株のような形になります。真ん丸、楕円、豆のような形や凸や凹があるもの、乾燥してひび割れのあるもの、完全に割れて大きな欠損のあるもの。キャンバスのような定型の上の自由はなく、木の個性に従うしかありません。作品のかたちを、出会った木に委ねるやりかた。木の形を表現に取り込んだ作品。そういった木口木版のありかたが面白く、心に残りました。日和崎尊夫の木口木版は、自然の無作為と作家の作為が調和していて、樹木の断面に隠された自然の神秘を見るようでした。

それから私は、気づくと版画が好きになっていました。自分は版画の何が好きなんだろうと考えると、やはり木目などの自然の無作為が作品に入り込んでしまうところかと思います。作者の意図やこだわり、熱量が全面に出ている絵画も好きなのですが、家の壁に飾るにはそういうものはちょっと疲れる。版画は印刷という側面があり、刷りによって濃淡に違いがあるし、版の素材の表情が出る。木版なら木目がはっきりと出ることもあります。ある程度作者のコントロールを離れた部分を含むというか、肉筆画に比べて作者の手から少し距離ができる。そういう部分を含むものが私は好きなようです。特に家に飾って生活の一部に取り入れるものとしては。

前回出てきた余白ということに通じるのですが、単なる余白よりは版やインクなど素材の質感が介入していた方が好みで、料理で言うなら素材の雑味のようなものが残っている状態でしょうか。それは消すこともできるけど、残すとそれなりに主張してくるもので、単に残るというより介入的です。作品を自分のコントロールできる範囲に収めず、作者の意図を超えて介入してくるものに扉を開き、それとどう折り合いをつけるのか。自分の意図に取り込んでいくこともあれば、委ねるより仕方のないこともあるでしょう。拮抗して生まれた緊張感がいい効果になったりもします。

作者の作為(意図やコントロール)と自然の無作為(作品を構成する要素、素材の雑味)の関係は創作や料理、それ以外の多くのことにも見てとれます。農業や子育てなんかにも。

“自分を超えていくもの”が生み出される喜び

日本酒は伝統的には大吟醸が高級です。大吟醸は精米歩合50%以下、半分を削った米で仕込み、雑味のない透明感のある味わいになります。水のごとし、という味が流行った時期もありました。その後、日本各地で若い杜氏が伝統に囚われない酒造りで、日本酒を更新していくようになっていきます。中には大吟醸の逆を行き、米をあまり削らず、雑味の元になりかねない糠を残して仕込んだ酒もあります。私も飲んだことがありますが、とても複雑で奥行きのある味でした。好みは分かれると思います。日本酒に限らず雑味を個性として残すものは一定の支持があるようです。シンプルで飲み(食べ)やすいものと、複雑で癖のあるもの。売上ナンバーワンのアサヒスーパードライのようなスッキリ喉越しに対して、クラフトビールのブームが続いていますし、定番の真っ白い食パンに対して、じわじわとファンを増やす全粒粉のハード系パンとか。

我が家の壁から版画を一枚。透明感のある寿司を木版画で作り続ける宮本承司さんの作品。

我が家の壁から版画を一枚。透明感のある寿司を木版画で作り続ける宮本承司さんの作品。

もう一つ絵の話をすると、ドイツの抽象画家、ゲルハルト・リヒター。存命する画家の中でも最も影響力のある一人で、世界中にファンがいる素晴らしい芸術家です。2022年に日本でも大個展があって、そこで見たことを思い出します。リヒターは戦後まもない東ドイツ社会主義の中でリアリズム絵画を学びました。その後西ドイツへ移り、それまでとは全く違う作品を生み出していきます。リヒターの初期を代表するシリーズとしてフォトペインティングという手法があります。雑誌や新聞の写真をキャンバスに写し、それを絵画に落とし込んでいくものです。写真を介することで、意図が強く出ることや主観的な感情などが表現に入り込むのを避けたのです。また、アブストラクトペインティングという抽象画のシリーズでは、木やガラス、金属の板に絵の具を塗り重ね、それを大胆に削っていくようにして描いています。そこには一貫して、自分の外にあるものを介在させることで、偶然性や無意識を作品に取り込もうとする姿勢があります。そうすることで、自分を超えたものを作ろうとしていたのだと思います。

私も戯曲を書いていて一番嬉しい瞬間というのは、作品が自分を驚かせてくれた時です。自分では思ってもみなかったことが書ける時があります。無意識で思っていたのかもしれないけど、言語化されていなかったもの。そういうものが作品の中で形を取って現れる。そんなふうに無意識と上手く繋がれていると、自分を超えたものを作れるような気がします。自分のイメージ通り、設計図通りのものができた時は、満足しつつもどこか物足りない。上手い作品ではあるが、すごい作品にはならない気がする。いい商品にはなるが、芸術作品とは違うような気がする。ちっぽけな私の中に収まるものではなく、自分を超えていくものを生み出せたら嬉しい。

干し野菜の美味さを地球に感謝

台所にあった豆たち。小豆、ひよこ豆、うずら豆、手亡。手亡は見た目も味も名前も好き。

台所にあった豆たち。小豆、ひよこ豆、うずら豆、手亡。手亡は見た目も味も名前も好き。

豆が好きでよくあんこや煮豆を炊くのですが、茹でこぼしという手順があります。沸騰したら豆をザルにあけて、水を換えるのです。最初に出るアクを捨てるんですね。えぐ味を嫌い、2回3回と水を換えるレシピもあります。そして大量の砂糖で甘く味付けする。和食や和菓子の伝統は、先の日本酒と同じで、澄んだ上品な味を良しとするので、基本的な煮豆のレシピはそうなっています。でも日常的に煮豆を作っていると、そういう味は飽きてくるし、山盛りの砂糖に毎回怯んでしまう。我が家では茹でこぼしはせず、なるべく砂糖の量を減らし、塩を強めにしています。雑味もあるし、あまり甘くもない。でも小豆、金時豆、手亡、花豆、それぞれの個性が出ます。煮豆は甘いものという先入観があるから、「なんか違う」と思うかもしれない。でも甘いだけで誰か分からないような煮豆より私は好きです。豆に出会える。なるほどお前がウズラ豆か、そこにいるのはササゲ、え、前川金時、そんな豆いたんだ。いただきます。

もちろんしっかり甘い煮豆も美味しいのですが、日々食べるならこういうもので良いかと思っています。手をかけすぎない、ということでしょうか。版画のところで書いた「作者の手から少し距離がある」状態、コントロールしすぎないこと。そういうものを好ましく思ってしまいます。

ベランダで干す。多少のごみは気にしない。梅雨時はやめておこう。

ベランダで干す。多少のごみは気にしない。梅雨時はやめておこう。

干し野菜のことを思い出しました。随分昔ですが、料理家の有元葉子さんの「干し野菜のすすめ」を読んでから、干し野菜は我が家の料理の選択肢にあり続けています。干すと言っても、乾物にするわけではありません。カットした野菜を、晴れた日にベランダで半日くらい干すのです。大根、茄子、ピーマン、蓮根、なんでもいいです。表面はしっかり乾いているが、中はまだ水分がある半干しの状態、かさは半分から7割くらいになります。それをごま油やオリーブ油で、強火でさっと炒めます。味付けは塩だけ、それか器に盛ってから醤油を一回し。これが美味しい。干すことで野菜の味が凝縮されるのと、炒めても水分がほぼ出ないから味もぼやけず、歯ごたえもいい。カットした断面が乾いて、一つ一つのピースが全面皮付き野菜のようになって旨味を閉じ込めているからです。こんなふうに野菜を下ごしらえできるのは太陽と風だけです。

野菜の旨味と一緒に、雑味も凝縮されるのか、野菜によっては土臭いような野性味のある味になります。この干し野菜の炒め物なんかは、日和崎尊夫の「自然の無作為と作家の作為」の調和のような味に思えます。それがどんなに美味しくても、私は自分を褒めようとは思えません。「大根ってすげぇなぁ」と思うだけです。私は自らの意志で干し大根の炒め物を作ろうと思い、当然出来上がりをイメージして作るわけですが、出来上がったものに驚くのです。大根ってすげぇなぁ。半日干しただけでなんでこうなる? 太陽ってすげぇなぁ。地球ってすげぇなぁ。とポリポリコリコリ大根を食べながら、何故か宇宙に感謝している自分がいます。「泣いてるの?」と妻が聞きます。「いや、泣いてない」と私は答えます。ヤバいやつと思われるからです。

また自分を超えたものを作ってしまった……。日和崎尊夫やリヒターみたいな偉大な芸術家を引き合いに出して語るほどの料理ではないと思うかもしれませんが、でも私にはそう感じるのです。

古い本だけど今読んでも面白い。

古い本だけど今読んでも面白い。

この話はもちろん私が演劇を作る時に心がけていることと通じるものです。がそれを書き始めるとまた長くなるので今度にしましょう。

最後に「干す」ということについて少し。玉村豊男の『料理の四面体』という本で、干物についてのところでこんなことが書かれていました。焼き魚の基本は遠火の強火とされるが、干物はまさにそれなんだと。太陽という最強の強火を、1億5000万kmの遠くからあてている。確かに、って思いません?

干し野菜もしかり。宇宙からくる遠火の強火。このスケールの大きさはやっぱり、自分なんてあっさり超えていますよね。ちなみにこの本、とても面白いのでおすすめです。それではまた。

プロフィール

前川知大(マエカワトモヒロ)

1974年、新潟県生まれ。劇作家、演出家。目に見えないものと人間との関わりや、日常の裏側にある世界からの人間の心理を描く。2003年にイキウメを旗揚げ。これまでの作品に「人魂を届けに」「獣の柱」「関数ドミノ」「天の敵」「太陽」「散歩する侵略者」など。2024年読売演劇大賞で最優秀作品賞、優秀演出家賞を受賞。8月から9月にかけて「イキウメ『奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話』」が東京・大阪にて上演される。

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池谷のぶえ @iketaninobue

またもや面白い。 https://t.co/br3MyS1Kp8

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