昆布と干し椎茸は冷蔵庫で水出しにして、いつでも使えるようにしておきます。楽。

前川知大の「まな板のうえ」 第3回 [バックナンバー]

美味しさへの抵抗

速くてわかりやすい味、ぼんやりとやってくる味

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劇作家、演出家でイキウメ主宰の前川知大は、知る人ぞ知る、料理人でもある。この連載では、日々デスクと台所に向かい続ける前川が、創作と料理への思いをつづる。

度を越した美味しさは、資本主義の暴走か

マチネとソワレの間の時間、演出家は手持ち無沙汰になります。そういう時は少し歩いてくるかと、劇場の外に出ます。夕方の少し前、日差しも傾き散歩するにはいい時間です。5年ほど前でしょうか、池袋の東京芸術劇場で公演をしていた時、そんな風に街を歩いていました。いつも人が並んでいるラーメン屋がオフピークの時間なので空いています。小腹も空いたしと暖簾をくぐりました。私はラーメンについては保守的で、鶏ガラと野菜で取った澄んだスープの醤油ラーメン、まぁ昭和のラーメンですね、そういうものが好みです。なので昨今の多様化、進化するラーメンには疎く、語る資格は無いのですが、その時に思ったことが記憶に残っているので書きます。

東京芸術劇場。お世話になってます。次の「奇ッ怪」もこちらのシアターイースト。

東京芸術劇場。お世話になってます。次の「奇ッ怪」もこちらのシアターイースト。

その店は都内に数店舗を持つラーメン店で、豚骨、鶏ガラ、野菜、魚介の出汁を合わせた濃厚なスープが特徴となっていました。店内に入ると豚骨の匂いがほぼしなかったので、店舗ごとに出汁を取っているわけではなく、セントラルキッチン方式かと思います。店内は綺麗に清掃され、センスも良く、女性が一人で入れる雰囲気があります。店員も清潔感があり、滑舌よく受け答え、爽やかな笑顔を絶やしません。ここで働くことが嬉しくて仕方がないというように。……なるほどこういう感じか。コンサルティングが入っているというか、しっかりマーケティングしてブランディングしているという感じ。腐したいわけではなく、頑固オヤジの薄汚いラーメン屋が美味いんだなんて言う気もありません。清潔でホスピタリティがある。最高だと思います。

ラーメンが来ました。食べてみます。まずレンゲでスープを一口。そして麺を手繰り口に入れます。咀嚼……。うん。美味しいです。とても美味しい。なんて美味いんだ。いやいや、嫌味じゃなくて本気で言ってます。実に美味い。美味すぎる。なんなんだこれは。そして思います。こんなに美味い必要ある? 私はその場で立ち上がり、大きなコの字型のカウンターに座る方々に向けて言います。「こんなに美味い必要があるでしょうか?」。私の問題提起に応えようとする人はいませんでした。そう、言ってないからです。でもわかります。美味いんだから問題なかろう、そういう応えが返ってくることを。

美味しさへの抵抗。勝ち目のない戦いを始めてしまったように思いますが、続けます。

スープは本当に美味しかったです。豚と鶏、昆布や干し椎茸、香味野菜、鰹節や鯖節、煮干しなど、あらゆる旨味(グルタミン酸、グアニル酸、イノシン酸)が渾然一体となり、強烈な旨味の塊のようなスープ。長く煮込むことで溶け込んだ動物性油脂、そして強い塩分。美味しいと言わせるには完璧な布陣です。旨味、油、塩、+糖質、この組み合わせは、食材による風味に好みが分かれるとはいえ、およそ全ての人間が美味しいと感じてしまうものです。否応無しに脳が美味しいと感じてしまうのです。

スープを一口飲んだ瞬間、私の脳はその美味しさに一ミリの誤解も無いという判断を下していました。すごいことです。感覚としては、私の心を置き去りにして、脳が美味しいと宣言しているようでした。ちょっと待ってくれ、と私の心は言います。待ってくれ、考える時間をくれ、何が起きているのかわからない。

老舗桂花ラーメン、東京に出て来て初めて食べた豚骨。ここだけはずいぶん食べ続けた。

老舗桂花ラーメン、東京に出て来て初めて食べた豚骨。ここだけはずいぶん食べ続けた。

旨味は掛け合わせることで倍増するのはよく知られています。それに油分、塩分、糖質を組み合わせると更に美味しく、みんなの好きな味になります。みんなが好きな味はよく売れるので、資本が投下され、開発が進み、ますます美味しくなります。日本の外食、中食、加工食品はこの20年でとても、更に、美味しくなったと思います。それは私たち消費者が何を美味しいと感じるか、というのを徹底的に分析し、そこに合わせて開発した賜物でしょう。そういうものが身の回りに増え、当たり前になり、食文化をゆっくりと塗り替えていきました。あらゆるものに旨味が加えられ、強化され、美味しくなったのです。 

ラーメンという料理はそういう流れを尖ったかたちで見せてくれるように思いました。美味しいものだけが勝つのだと、もっと旨味を旨味を旨味をと、このラーメン屋のセントラルキッチンで巨大な寸胴鍋を前に髪を振り乱すマッドサイエンティスト料理長を私は幻視します。私は彼に走り寄り優しく抱擁して言う「もう充分だ、もう充分に美味い。そこまでする必要は無いんだ」。恐らく、彼はわかってくれないでしょう。彼は私を振りほどき、バケツいっぱいの豚骨を寸胴鍋に投げ入れるでしょう。

このラーメンの度を越した美味しさは、資本主義の暴走のように私には思えました。

わかりやすい美味しさと料理の奥行きについて

前回、旨味調味料のことを、舌から脳へ直行するような速くわかりやすい美味しさ、と書きました。このラーメンも同じように一口目から素早くわかりやすく脳を直撃する美味しさでした。もちろんこのラーメンはちゃんと厳選した食材から作っているでしょう。そして容赦なく旨味を積み上げていった結果、添加物並の速度と輪郭を手に入れたのだと思います。あるいは添加物が見事にこの効果を再現していると言ったほうがいいのかもしれません。

さて、ラーメンを食べ進めましょう。刺激というのは慣れがくるものですから、脳は落ち着きを取り戻し、心も追いついてきます。資本主義という暴走機関車をひとまず見送り、少し冷静になって味わいます。うん、美味しい。それは否定しません。肉、魚、野菜それぞれの旨味を感じます。ただその速さとわかりやすさゆえに、そのラーメンのピークは最初の一口目でした。後半に向けて変化や展開は訪れません。新しい発見は無い。ただひたすら、のっぺりとした美味しいの道が続くだけです。飽きさせてもくれないのが怖いところで、箸は止まりません。美味しいからです。脳がハックされている。恐ろしい。マッドサイエンティストの薄ら笑いがフラッシュバックします。完食し、私はカウンターに両手をついて重くなった体を持ち上げます。ふらふらとした足取りで店を出ようとすると、店員たちが私に一斉に怒号を浴びせます。ありがとうございましたぁ!

私は店の外に出て、池袋の汚れた空気を胸いっぱいに吸い込みます。そして思いました、「こういうのはもう終わりにしよう」。それ以来私は外食でラーメンを食べていません。

味変という言葉が当たり前に使われるようになりました。そのラーメン屋にもカウンターに薬味や調味料が味変用に並んでいました。私はそういったものを使う習慣がありません。必要を感じなかったからです。この時に思ったのですが、一口目ではっきりと美味しいと感じるように作られた味は、その強固な味ゆえに変化に乏しく、後半に味変を求められるようになったのではということです。

テレビの食レポなんかを見ていると、一口目で「美味しい!」というリアクションが出ることが正解のようになっているので、作る側もそこに合わせていくのはしょうがないことなのかもしれません。どうしても濃い味付けになってしまう。私も友達を招いて料理を振る舞う時、つい不安になっていつもより濃いめの味付けにしてしまうことがあります。確実な美味しいがすぐ欲しいからです。急いでしまうのです。その結果、料理の奥行きを消してしまったり、風通しの悪い味になることがあります。

迷い込んだ森のイメージ。去年の秋に登った釈迦ヶ岳です。曇りで頂上の絶景は見れず。

迷い込んだ森のイメージ。去年の秋に登った釈迦ヶ岳です。曇りで頂上の絶景は見れず。

前回のカブのポタージュで描写したように、ゆっくりと遠くからやってくる美味しさもあります。昔は良かった、というのは好きじゃないのですが、昔のラーメンはそういう素朴さがありました(今もそういう店はあります)。今回例に出したラーメンは旨味を最大限に強化したような、完成された美味しさがありました。その強固な味ゆえに、変化に乏しい。この変化とは、料理の味が変わることではなく、食べながら受け手がゆっくりと変化していくことです。それは食べながら、その料理の奥へ入り込んでいくような、迷い込んでいくような感覚です。霧の立ち込める森をさ迷うようして、そんな味が隠れていたのかと、出会い、発見をします。強固な完成された味は、私たちが入り込む余地が無いのです。それはまるで完璧な絵画のように、いつどこで誰が観ても同じ様に完璧な美しさで、壁のように私たちを圧倒します。一方の絵画はどこか不完全で、見る人によって、観る時の状態によって印象が変わります。絵画の中に誘い込むような不思議な余白を感じるのです。そしてそこで鑑賞者は、作者の意図を超えた何かを発見するのです。

美味しいの代わりに失ったもの

息子のリクエストで、鶏ガラスープを取って作った自宅ラーメン。さっぱりだね、という感想。そんなもんだよ。

息子のリクエストで、鶏ガラスープを取って作った自宅ラーメン。さっぱりだね、という感想。そんなもんだよ。

私たちが関与する余白を残してくれているか。ここは重要な点です。私の心を置き去りにして、脳に美味いと言わせるような味を作ることは可能です。ただその美味しさは、私の外にあるような気がしてなりません。

それが美味しいかどうか、急いで決めたいとは思わない。ゆっくり味わい、食べ終わったあとにどう思うか、それでもいいじゃないか。沢山の登場人物がいるんだろう、それぞれに仕事をさせてあげたらいい。旨味というのはその中から自然と立ち上がってくるものじゃないだろうか。そこは一つ、受け取る私たちに任せておいてくれないか。ん? なんだこれは? と興味を誘われ、自ら一歩を踏み出すことが楽しいのだ。その為には余白が必要だし、急いで美味しさを届ける必要はないんだ。あんたが美味しいものを作れるのはわかった。でもどうか私たちを信じてくれないか。ま、そうもいかないんだろうな、ビジネスってやつは。

旨味重視、この傾向は食品全体のものです。ことさらラーメンを悪者にしたいわけではないんです。旨味は、酸味、甘味、塩味、苦味に続く5つ目の味として出汁文化の日本で発見された味です。なので日本人は特に好きなのです。

馴染んできた美味しさを「旨味」として再認識した我々は旨味を化学的に合成することに成功しました。先のラーメンのように大量の素材を投入しなくても、今は安く簡単に添加物で旨味を強化することができます。外食は表示義務が無いので何とも言えませんが、中食、加工食品、お菓子、調味料などは、ほぼ全て旨味強化されています。ラベルを見てください。調味料(アミノ酸等)、酵母エキス、タンパク加水分解物、だいたいこの3つが旨味を強化するアミノ酸混合物です。添加物の健康への影響はここでは問いません。旨味強化によって何が隠されてしまったのか、美味しいの代わりに何を失ってしまったのか、そこについて話しています。

いろんなものが美味しくなった。と先に書きました。要因はいくつかあるでしょう。食文化の成熟、技術の進化、そして添加物の洗練です。旨味を強化すれば、美味しさが一段階上がります。本来旨味を持たない料理にも添加して、美味しくすることができます。もちろん昆布粉や魚粉のようにシンプルな天然素材によるものや、出汁を素材に浸透させたりして旨味を強化する技術は昔からあります。それはあくまで素材をいかし、引き立てることが目的で、旨味そのものではないはずです。ラーメンを例にあげたのは、それが旨味そのものを目的として、旨味だけを素材から取り出し、合わせ、重ね、濃縮するような方向へ進化していってるのが、旨味重視の傾向を病的に表現しているように思えたからです。

本当の味ってなんだろう。スーパーで買ってきた安い竹輪をかじって思います。美味しいなぁ、でも竹輪ってこんなに美味しかったかな。こんなに安く売れるくらいの材料で普通に作ったら、大した味にはならないものです。でも美味しい。添加物で旨味を強化しているからです。商品開発者の努力を無駄にするようなことを言って申し訳ないのですが、旨味強化してない、きっと大して美味しくもない竹輪を、食べてみたいなぁと思うんです。4本百円で買える竹輪の本当の味を知りたい。質の悪い白身肉やかさ増し用に入れたデンプン、そういうものをダイレクトに味わいたい。大して美味いもんじゃねぇな、なんて言うかもしれません。そしたらこう言い返してください。そりゃ安くしろってんだからこんなもんだよ。ですよね。今ある竹輪は、消費者の安くて美味いものを、という無理難題に応えてくれているわけです。隠されているのは素材の真実で、それを望んだのも私たちというわけです。でも私は言いたい。そんなに美味しくなくてもいいんです、本当の姿を見せてください。美味きゃいいじゃん。ごちゃごちゃうるせぇな。すいません。でも、続けます。

強化された旨味は私たちの好奇心を削ぎます。分かりやすい旨味は私たちにある程度の満足を与え、その料理の奥へと入り込んでいく動機をなくします。探す必要がないんです。すぐ美味しいから。速くて分かりやすい味に慣れてしまうと、じっくりと分からなさに向き合う舌を、ゆっくりと失ってしまうのです。食育という観点からも、問題だと感じます。小学生の息子には分かりやすい味ばかりでなく、ゆっくり味わうものも意識的に食べさせています。毎日ご馳走である必要はないんです。

言葉や、言葉にならない何かが生まれる味 / 演劇

外食や加工食品、ビジネスの世界では沢山売るために、旨味を強化し、もっと食べたいと思わせる工夫を凝らしてきました。レポーターには一口食べて「美味しい!」をもらわないと話になりません。メディアの発達した現代では、食文化をリードするのは外食産業や食品業界、料理家やインフルエンサーなどです。そういう人たちを通じて、強い旨味は家庭料理に入り込んでいます。本来食文化とは庶民の生活に根ざしたもので、野放図に旨味を求め、美味しさだけを追求するものではなかったはずです。早くてわかりやすい味はビジネスの世界で育ってきた味で、家庭料理ではその必要はありません。ゆっくりと、遠くからぼんやりとやってくる味があってもいいのです。

旨味重視によって見えなくなるものというのは、前回に書いた、全員の顔が見える料理という話の延長にあります。子供の感想をみてもわかるのですが、旨味の強いものの感想はシンプルで、「美味しい!」で終わりです。でもゆっくり味わう必要のあるものは、言葉を探します。「後にのこる苦味はなに?」「なんかキシキシする」「◯◯みたいな味する」「醤油かけたい」などなど。美味しい、をもらえないことも多々ありますが、家庭料理はそれでいいんです。

食べ物と出会いたいのです。美味しいんだからいいじゃないか、という意見に私はこう言います。美味しいだけの料理はもういらない。

特に関連は無いが、近所の公園の切り株に咲いたキノコが見事だったので。

特に関連は無いが、近所の公園の切り株に咲いたキノコが見事だったので。

ああ、こんなことを書いていると、誰もご飯に誘ってくれなくなりそうだ。

料理について長く書きましたが、この議論は創作にも当てはまるところがあると思います。面白いだけの演劇はもういらない。とまでは言いませんが、商業主義とアマチュアリズムの境界が曖昧な演劇では、わかりやすい「面白さ」だけを頼りに創作を続けることは難しい。お客さんもそれを望んではいないはずです。

余白を作る、という点でも共通点があります。演劇に限らずですが、全てを説明するより観客の想像に任せる部分を残す方が、創造的です。お客さんを想像の世界に誘い込み、お客さん自身が自分だけの真実を発見するのです。それは一方通行の誤解不可能な美味しさ/面白さの押し付けではなく、不確かなままの交流があります。美味しいと言われなくても、他の沢山の言葉や、言葉にならない何かをお客さんの中に生み出します。そこに美味しいが加わればこれ以上の喜びはありません。

ところで、槍玉にあげてしまったあのラーメンみたいな作品ってなんだろう。すごく面白いだけで何にも残らない作品。ありますね。でもそういう作品って実はとても難しい。作っている人を尊敬します。成功している作品はごくわずか。「旨味」のように狙って抽出できる「面白さ」なんて演劇にも映画にも当てはまるものがないし、添加物も存在しませんから。強いて言えば、なんでも面白くしちゃう俳優さんでしょうか。プロデューサーがそういう添加物を投入したくなるのもわかるような気がします。失礼、添加物なんて言って。

さて、議論が続いたから、次回は料理エッセイっぽくレシピ紹介とかやってみますか。やらないかもしれないけど。

プロフィール

前川知大(マエカワトモヒロ)

1974年、新潟県生まれ。劇作家、演出家。目に見えないものと人間との関わりや、日常の裏側にある世界からの人間の心理を描く。2003年にイキウメを旗揚げ。これまでの作品に「人魂を届けに」「獣の柱」「関数ドミノ」「天の敵」「太陽」「散歩する侵略者」など。2024年読売演劇大賞で最優秀作品賞、優秀演出家賞を受賞。8月から9月にかけて「イキウメ『奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話』」が東京・大阪にて上演される。

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前川知大 Tomohiro MAEKAWA @TomoMaekawa

ほい、第3回です。 https://t.co/PALUlJtWmU

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