地方出身のアーティストに「上京」をテーマにエッセイを依頼し、東京に“ウブ”だった頃の思い出をつづってもらう本連載。最終回となる今回は特別編として、鹿児島県鹿児島市出身の
今から45年以上前、“誰もが憧れる街”である一方、“だまされる街”というイメージの東京にやってきた長渕さんは、常に孤独を感じながらも「生魂を入れろ!」の精神でこれまで踏ん張ってきたそう。さらに年々強くなる故郷への思いや、これから上京する人へのメッセージなども語っていただきました。
取材・
「お前らとは違う」姿勢が「僕らはこれでいいんだ」という希望を生んだ
──長渕さんはどのような学生時代を過ごしたんでしょうか?
僕が高校生になる直前は情報処理科、いわゆるコンピューターに関する学科が注目されていて、銀行の電算室の管理者などに憧れてその学科を専攻したんですが、卒業間近になっても就職する気になれず、とりあえず大学に行くことに決めました。これといって大きな夢があったわけではないけど、高校時代はずっとギターを弾いていたから、それでプロになれたら……ぐらいの気持ちで、京都か福岡の大学を目指したんです。
──東京の大学に行くつもりではなかったんですね。
京都だとサーカスサーカスや拾得、福岡だと照和というライブハウスが人気で、プロの登竜門として名高かったんです。僕もどこかの会場で演奏したくて、最終的に照和への出演を目指し、福岡の九州産業大学に入学しました。
──具体的にどのような音楽活動を行っていたんでしょうか?
大学に入ってからはプロへの切符を手にするため、ずっと曲を書き続けていました。それから九州全域で何かの1等賞になって、みんなの見本にならなきゃいけないと考えていて。コンテストが盛んな時代だったので、ヤマハの「ポピュラーソングコンテスト」などに挑戦するうち、「東京でプロとして活動する」という目標が定まったわけです。
──長渕さんと同じく、福岡から東京を目指すミュージシャンは多かったのでしょうか?
いや、大阪に行く人のほうが多かった。大阪は関西フォーク発祥の地で、僕が影響を受けた加川良さんや友部正人さん、高田渡さんも関西フォーク出身でしたから、大阪に行く可能性もありました。この頃は井上陽水さんと吉田拓郎さんが大人気で、ファンが派閥に分かれてケンカするぐらいでね。ほかには南こうせつさん、異端児的な存在だと泉谷しげるさんが活躍して、とにかく個性が大事だと叩き込まれた。先輩たちの「お前らとは違う」という姿勢があったからこそ、「僕らはこれでいいんだ」という希望を持つことができる時代でした。
──長渕さんはポプコンで「巡恋歌」がグランプリを受賞したことがきっかけとなり、1978年から東京で暮らし始めましたが、それ以前にも何度か東京に赴いていたそうですね。
20歳から22歳ぐらいまでは東京と福岡を行ったり来たりしていて、目黒のヤマハ本社の横にある宿泊施設をよく借りていましたね。目黒通りの権之助坂に商店街があって、その一角の中華料理屋で、五目チャーハンとレバニラ炒めをよく食ったもんです。
東京はとにかく遠くて、誰もが憧れる街
──当時長渕さんや福岡の周りの人は東京に対し、どのような印象を抱いていましたか?
とにかく遠くて、誰もが憧れる街でしたね。「家の屋根の上を車が走っとるぜ」という話を聞いて高速道路の存在を知ったり、照和でお世話になった先輩たちが東京に出ていって、何百万もの借金を背負わされて「だまされる街やから気を付けんといかんよ」と言い聞かされたのを覚えています。
──照和にはどのようなジャンルのミュージシャンが出演していたんでしょうか?
フォークだけじゃなくロック、パンク、ブルースとさまざまでしたね。僕は遅れてきたフォーク少年みたいな存在だったんで、バンド連中が「お前1人で何しとんね?」「今度『ポプコン』に出るんか?」とか聞いてきて。ジャンルは違えど、みんなで力を合わせ、お互い刺激し合いながら東京を目指しました。
──東京で活動するための手段は、コンテストで結果を残す以外にもあったのでしょうか?
テレビ局のディレクターたちが東京にコネがあるから、その人に気に入られたときは深夜番組にゲストで出演させてもらいました。ちょっとしたことだけど、それがうれしくてね。彼らは地酒が安く飲める立ち食い飲み屋によく誘ってくれて、東京のいろんな噂を教えてくれたんです。今振り返ると、あの3年間はとても仲間に恵まれていました。
田舎もんだったから踏ん張れる
──上京直後はどのような生活を送っていたんでしょうか。
「東京青春朝焼物語」という曲で「井の頭線で五つめの駅で降りた」と歌っていますけど、最初は新代田にあった、木造モルタルのアパートを借りていました。そこから全国120カ所以上プロモーションで回っていたから、ほぼ旅をしているようなものでしたね。何年も活動を続けてライブの集客が増えていくと、それに比例して部屋も1K、2LDKと大きくなっていって。ホームというよりは活動の本拠地、という印象でした。
──その一方で、鹿児島に対する印象は変化しましたか?
故郷への思いは全然変わらなかったね。30代前半の頃に母が倒れたり、家族を持ったり、人生の転機となる出来事が立て続けに起こったあと、ふと「本当の居場所は東京ではない」と思い始めて。そこから自分のルーツであったり、「なぜ鹿児島を蹴飛ばして東京に出て来たんだろう?」とか、いろんなことを振り返ったんです。
──離れていても、故郷である鹿児島がホームだった。
東京で暮らす期間が長くなれば長くなるほど、故郷に寄せる思いはどんどん強くなりました。僕は「いつかの少年」という歌で、鹿児島のことを「ひ弱で不親切で 邪険な街だった」と表現したんだけど、今では「なんでこんな酷いことを書いたんだろう」と思う。鹿児島は保守的であるし、なかなか進歩しない街ではあるんですけど、意地もあれば根性もあるし、誰にも負けない元気がある。僕はそこで18年間育ったから、つらいことも歯を食いしばって踏ん張ることができた。つまり田舎もんであることが、僕が踏ん張ることの唯一の発火点になったわけです。
東京サンキュー、だけどふざけんな
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