忌野清志郎

音楽偉人伝 第11回 [バックナンバー]

忌野清志郎(RC時代後編)

すべてを“歌”にした男

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日本の音楽史に爪痕を残すアーティストの功績をたどる本連載。今回は忌野清志郎のRCサクセション(RC)時代後編だ。1980年代にピークを迎えたRCは、事務所への不信やレコード会社との騒動などを通して、“ロック”を体現していく。しかし一度始まったものはいつかは終わる。RCが無期限活動休止に入る91年までを追ってみたい。書き手は、80年代にRCの衣装係やマネージャー、ファンクラブ会報誌の編集などを務め、彼らのごく身近で過ごしてきた片岡たまき。

/ 片岡たまき 編集 / 木下拓海 画像提供 / ユニバーサル ミュージックジャパン

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事務所独立への機運

1980年、「トランジスタ・ラジオ」のヒットによって一気に日の当たる場所に踊り出たRCサクセション。その後、「PLEASE」「BLUE」「BEAT POPS」と3枚のアルバムに続き、83年7月、初の海外レコーディングアルバム「OK」がリリースされた。

1983年7月にリリースされた7枚目のオリジナルアルバム「OK」。

1983年7月にリリースされた7枚目のオリジナルアルバム「OK」。

83年春、ハワイのオアフ島、山側のスタジオで始まったレコーディングは、曲ができていない状態のままスタートした。清志郎はカンヅメになって曲作りをし、煮詰まりまくったという。体調を崩し始めた時期でもあり、辛い録音作業となった。事務所のお偉方がリゾートでゴルフに興じる姿を目にした清志郎は、この構図に心底落胆。数年後に事務所を独立するその種が撒かれたのが、常夏の楽園、ハワイ録音だった。

【83年6月、渋谷公会堂で行われたライブの様子。DVD「SUMMER TOUR’83 ~KING OF LIVE COMPLETE~」より】

83年は、例年の100本を数える全国ツアーから激減、全国7大都市を中心にしたライブとなった。積年の不摂生や、ブレイク後の急激な忙しさによって、清志郎がひどく体調を崩したことに起因する。人間ドックの結果、「君の肝臓は一生治らない」と、医者から釘を刺された。清志郎は東洋医学に傾倒し、漢方で病に立ち向かう。事務所は今が稼ぎ時だと大規模の全国ツアーを譲らなかったが、清志郎は単独でのCM出演を飲むことでなんとか事務所を説得した。

当時、私の目に映っていたのはこんな光景だ。RCの楽屋はコーヒーの香り。衣装部屋はお灸の匂いが漂っている。清志郎は“もぐさ”を小さく丸め地肌に据えていた。清志郎とお灸の切っても切れない仲は、ファンの間でも広まった。もぐさ名産地のコンサートでは、ファンからの贈り物が“もぐさ”。薬局に“もぐさ”を買いに走ったこともある。衣装部屋で必ず毎回繰り返されるお灸を見ていると、何かを味わうような姿に思わず興味を抱いてしまう。約1年後、甲斐あって肝臓は完治、人間ドックの医者に「奇跡だ」と言わしめた。

ハワイ以降も、メンバーに承諾のないオムニバスアルバムのリリース問題などが起こり、事務所はますます不信感の対象となっていく。84年、怒りに満ちたアルバム「FEEL SO BAD」リリース後、事務所をあとにする。

事務所への怒りが伝わってくるアルバム「FEEL SO BAD」。1984年11月リリース。ジャケットの股間の切れ目から男性器が飛び出す仕掛けになっている。

事務所への怒りが伝わってくるアルバム「FEEL SO BAD」。1984年11月リリース。ジャケットの股間の切れ目から男性器が飛び出す仕掛けになっている。

85年、「うむ」設立。新天地となる新しい事務所は、渋谷の山手線脇にあった。小さな公園に面するマンションの一角。2部屋の手狭な事務所だった。1部屋には私たち、事務所移籍組のスタッフ4人のデスク、もう1部屋に社長のデスクとミーティングテーブル。これで部屋はいっぱいだった。まざまざと目に浮かぶのは、このテーブルでメンバーがミーティングをしていた光景である。コンサート会場の大規模なステージと、天井の低いこの部屋。どちらにもいるメンバーが私には不思議に思えた。

“ライブの王様”と呼ばれた円熟期

独立後の数年を、清志郎はどう捉えていたのだろうか。1986年の東京・日比谷野外大音楽堂での4日間ライブ「4 SUMMER NITES」。これを収録したライブ盤「the TEARS OF a CLOWN」は、ライブの王様、RCの集大成と言えるだろう。この期間、RCとしてのオリジナル盤は「ハートのエース」「MARVY」の2タイトルのみで、間をぬってチャボ(ギター、仲井戸麗市)のソロアルバム、清志郎のソロアルバムがリリースされる。2人がそれぞれ独自の世界をのびのびと表現できたのも、バンドが安定していたからこそかもしれない。数多くのロックイベントでは、どの会場でも“トリ”として祭り上げられた。清志郎は、「トリはほかのバンドに任せてさ、早く帰ろうぜ」と、本音ともジョークともつかない発言で周囲を笑わせていた。一方でレコードセールスは、82年の「BEAT POPS」を最大値として徐々に落ちている。

1986年10月にリリースされたライブアルバム「the TEARS OF a CLOWN」。

1986年10月にリリースされたライブアルバム「the TEARS OF a CLOWN」。

RCの評価に、ライブと比較してレコードのクオリティが芳しくないというものがある。ライブの音響については、78年にロサンゼルスの“A1オーディオ”という会社からPAシステムをいち早く輸入するなど、事務所は革新的だった。日本の音楽プロダクションでPAシステムを持っていたのは当時で3社ほど。その中でも群を抜いていた。巨大アンプが内蔵されたスピーカーを、80年の東京・虎ノ門にあった久保講堂のライブから使用。日本中のPA会社から注目を集めていた。

レコーディングに関しては、86年、単独渡英してミックスダウンを行ったミニアルバム「NAUGHTY BOY」の素晴らしいサウンドに、清志郎の不満も消え去った。また、87年、もともとRCとして海外レコーディングする予定が、メンバーが興味を示さなかったため、清志郎のソロレコーディングにすり替わって録音した「RAZOR SHARP」は、すべての面で高い評価を得た。リンコ(ベース、小林和夫)は「RCと同じような編成のレコーディングメンバーで、これだけ違うんだぞと言ってるみたいだった」と、笑いを含め、のちにインタビューで語っている。ここ数年の“安定期”は、このあとの“激動期”につながっていく。

87年12月25日、東京・武道館で開かれた「TOUR OF LOVE (7TH HEAVEN)」の楽屋で、清志郎はメンバーに、レコード会社の社販で買った過去のロック名盤CDをこれみよがしに何枚も見せて自慢していた(折しもLPがCDに移行した頃だ)。リハーサルを終え、ステージを前に各自のポジションで静かにくつろいでいたメンバーは、突然やって来る清志郎に苦笑しながらも、ファッツ・ドミノ、エディ・コクランなど50年代~60年代の名盤を懐かしがっていた。当時、出始めのCDプレイヤーを持っていなかったリンコは、「プレイヤーごと貸してくれ」と清志郎を笑わせた。迷惑そうな顔をしながらもCDに見入るメンバー、おかまいなしの清志郎、まるで1軒1軒を回る訪問販売のようでおかしかった。私はその写真を4コママンガ仕立てにしてファンクラブの会報に載せた。今思えば、これはカバーアルバム「カバーズ」につながる1コマではないか……。

突然の「カバーズ」発売中止

洋楽ヒット曲に日本語歌詞を付けたアルバム「カバーズ」。そのうち「サマータイム・ブルース」には、原子力政策に対する痛烈な批判が込められた歌詞が付けられ、レコード会社である東芝EMIから出せなくなってしまう。物議を醸したこの作品は、オリコン週間アルバムチャート1位を獲得した。

洋楽ヒット曲に日本語歌詞を付けたアルバム「カバーズ」。そのうち「サマータイム・ブルース」には、原子力政策に対する痛烈な批判が込められた歌詞が付けられ、レコード会社である東芝EMIから出せなくなってしまう。物議を醸したこの作品は、オリコン週間アルバムチャート1位を獲得した。

RCは、年が明けて間もなく、「カバーズ」のレコーディングに入る(曲は、メンバーにとって懐かしい洋楽曲をセレクトした)。清志郎はRCへのカンフル剤を渇望していたのだろうか。1980年~81年に感じた“勢い”を取り戻そうとしているようにも思えた。しかし、所属レコード会社である東芝EMIから突然の発売中止を言い渡され、何回か持たれた話し合いの結果、物別れに終わってしまう。出口を失った「カバーズ」は、当初の発売予定から9日遅れの88年8月15日、古巣であるキティレコードよりリリースされた。

「カバーズ」がもたらした騒動によって、88年8月、恒例のRC野音ライブは、異様な緊張感に包まれた。何かスキャンダルを探すために、清志郎がどんなカゲキなことを言い出すのかと、大挙してマスコミが集まったのだ。すべてを見透かした清志郎は皮肉たっぷりに、新曲「軽薄なジャーナリスト」という曲を演奏し、この騒動に区切りを付けてみせた。

軽薄なジャーナリストにはなりたくない 軽薄なジャーナリストにはなりたくない いくら落ちぶれてもなりたくはない

軽薄なジャーナリストはいい服を着て なにも知らない人にうそをつく そして安全なところからただ見ているだけ

軽薄なジャーナリズムにのるくらいなら 軽薄なヒロイズムに踊らされるくらいなら そんな目にあうくらいなら あの発電所の中で眠りたい

(「軽薄なジャーナリスト」より)

その一方で、清志郎は土木作業員の出で立ちでゼリー・ビーンズと名乗り、トッピ、ボビー、パーをバンドメンバーにTHE TIMERSを結成し、89年、ロンドンでのレコーディングアルバム「THE TIMERS」をリリース。ライブでもやりたい放題歌う。RCのほかのメンバーは清志郎の姿をどう捉えていたのだろうか。また、この時期は長男である竜平くんの誕生を控え、「父親になったら曲ができないのではないか」と焦って曲を量産(これは取り越し苦労だった)。竜平くんを抱いてRCのステージに立ったり、曲も披露した(プライベートでも、忌野家の年賀状と暑中見舞いが子供の写真に変わった)。「カバーズ」からTHE TIMERS、そしてRC、形を問わず走り回る清志郎がいた。

THE TIMERS

THE TIMERS

この年の恒例クリスマスコンサートをもって、実質上、5人がそろったRCサクセションのステージを観ることはなくなった。

90年、約10年前に新生RCのメンバーが埋まったように、今度はメンバーが1人、2人と外れていき、とうとう清志郎、チャボ、リンコの3人になってしまった。メンバー間に生じた音楽性のズレが原因で、G2(キーボード、柴田義也)、新井田耕造(ドラム)が脱退。同時期にレコーディングは始まった。清志郎が自ら指名し来日したレコーディングエンジニアは、サウンドの問題を浮き彫りにし、バンドは難題を山積みにしながらレコーディングを続けた。ついにRCに溝が生まれた。埋まるまでの年月を計ることすらできないほど深い溝だった。結果、音楽を一番に優先した清志郎の強さに、改めて私は恐れ入った。9月、「Baby a Go Go」リリース。難産だったアルバムは温かく柔らかい音をしていた。皮肉にも、この素晴らしいスタジオアルバムには、楽曲もサウンドも、最後のRCが手にした豊かな収穫を感じる。

1990年9月にリリースされた「Baby a Go Go」。RCとしてこれが最後のオリジナルアルバムになった。

1990年9月にリリースされた「Baby a Go Go」。RCとしてこれが最後のオリジナルアルバムになった。

91年1月、RC無期限活動休止

無期限活動休止へ向かう河は、逆らいようがない流れであり、周囲の誰もが納得する流れでもあった。濁流で、急流で、混沌とし、渦を巻いていたが、今思えば自然な流れだったと言える。1つの時代が終わり、始まる。後年、清志郎は「失恋をした気分だった」と回想している。大きな軸をなくした喪失感。清志郎はそれまで大切に温めてきた“RCサクセション”という金看板を失った。事務所は閉じられ、メンバーはそれぞれ独立した。私は“RCサクセション”を忘れようとした。1990年のヘビーな体験は、いつまでも胸につかえていたし、私の喪失感を打ち消すにはそんな方法しか思いつかなかった。

翌91年からの清志郎のソロワークは、RCのタガが外れたように“極彩色の光”を放ち始めた。Booker.T&MG'sと作り上げた名盤「Memphis」(92年3月)。少年時代から憧れていたミュージシャンと来日公演を果たしたのだ。清志郎がまた新たな一面を見せたことに驚いた。しかし、それ以降はライブに足が遠のきつつ、次々と結成される新しいバンドに、もの足りなさも感じた。

時は流れた。この間の10年、私は、時々、ファンクラブ会報の原稿を依頼され、ライブレポートを寄せたり、インタビューをまとめたりしていた。2004~09年に、奇しくも衣装係に返り咲いた。80年代に戻ったかのような気持ちで、清志郎の最期の5年間を過ごすことができた。清志郎は、RCの頃から変わらずの奇抜さとユーモアが層をなすように厚味を増し、何よりもRCの原点、ソウルショースタイルのステージがキマっていた。そして、手の焼ける年頃2人のお父さんでもあり(型破りな父親は、逆に手を焼かれる側だったか)、柔らかな穏やかさにあふれていた。

80年代、私はRCの近くで過ごし、白昼夢を見ていたような錯覚を抱く。清志郎は、そんな世界を大勢のファンに見せてくれたのかもしれない。

<忌野清志郎RC編おわり>

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片岡たまき

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若狹 眞礼城 WAKASA Mareki @能代べらぼう屋 @marekingu

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