日本の音楽史に爪痕を残すアーティストの功績をたどる本連載。今回は
文
事務所独立への機運
1980年、「トランジスタ・ラジオ」のヒットによって一気に日の当たる場所に踊り出たRCサクセション。その後、「PLEASE」「BLUE」「BEAT POPS」と3枚のアルバムに続き、83年7月、初の海外レコーディングアルバム「OK」がリリースされた。
83年春、ハワイのオアフ島、山側のスタジオで始まったレコーディングは、曲ができていない状態のままスタートした。清志郎はカンヅメになって曲作りをし、煮詰まりまくったという。体調を崩し始めた時期でもあり、辛い録音作業となった。事務所のお偉方がリゾートでゴルフに興じる姿を目にした清志郎は、この構図に心底落胆。数年後に事務所を独立するその種が撒かれたのが、常夏の楽園、ハワイ録音だった。
【83年6月、渋谷公会堂で行われたライブの様子。DVD「SUMMER TOUR’83 ~KING OF LIVE COMPLETE~」より】
83年は、例年の100本を数える全国ツアーから激減、全国7大都市を中心にしたライブとなった。積年の不摂生や、ブレイク後の急激な忙しさによって、清志郎がひどく体調を崩したことに起因する。人間ドックの結果、「君の肝臓は一生治らない」と、医者から釘を刺された。清志郎は東洋医学に傾倒し、漢方で病に立ち向かう。事務所は今が稼ぎ時だと大規模の全国ツアーを譲らなかったが、清志郎は単独でのCM出演を飲むことでなんとか事務所を説得した。
当時、私の目に映っていたのはこんな光景だ。RCの楽屋はコーヒーの香り。衣装部屋はお灸の匂いが漂っている。清志郎は“もぐさ”を小さく丸め地肌に据えていた。清志郎とお灸の切っても切れない仲は、ファンの間でも広まった。もぐさ名産地のコンサートでは、ファンからの贈り物が“もぐさ”。薬局に“もぐさ”を買いに走ったこともある。衣装部屋で必ず毎回繰り返されるお灸を見ていると、何かを味わうような姿に思わず興味を抱いてしまう。約1年後、甲斐あって肝臓は完治、人間ドックの医者に「奇跡だ」と言わしめた。
ハワイ以降も、メンバーに承諾のないオムニバスアルバムのリリース問題などが起こり、事務所はますます不信感の対象となっていく。84年、怒りに満ちたアルバム「FEEL SO BAD」リリース後、事務所をあとにする。
85年、「うむ」設立。新天地となる新しい事務所は、渋谷の山手線脇にあった。小さな公園に面するマンションの一角。2部屋の手狭な事務所だった。1部屋には私たち、事務所移籍組のスタッフ4人のデスク、もう1部屋に社長のデスクとミーティングテーブル。これで部屋はいっぱいだった。まざまざと目に浮かぶのは、このテーブルでメンバーがミーティングをしていた光景である。コンサート会場の大規模なステージと、天井の低いこの部屋。どちらにもいるメンバーが私には不思議に思えた。
“ライブの王様”と呼ばれた円熟期
独立後の数年を、清志郎はどう捉えていたのだろうか。1986年の東京・日比谷野外大音楽堂での4日間ライブ「4 SUMMER NITES」。これを収録したライブ盤「the TEARS OF a CLOWN」は、ライブの王様、RCの集大成と言えるだろう。この期間、RCとしてのオリジナル盤は「ハートのエース」「MARVY」の2タイトルのみで、間をぬってチャボ(ギター、仲井戸麗市)のソロアルバム、清志郎のソロアルバムがリリースされる。2人がそれぞれ独自の世界をのびのびと表現できたのも、バンドが安定していたからこそかもしれない。数多くのロックイベントでは、どの会場でも“トリ”として祭り上げられた。清志郎は、「トリはほかのバンドに任せてさ、早く帰ろうぜ」と、本音ともジョークともつかない発言で周囲を笑わせていた。一方でレコードセールスは、82年の「BEAT POPS」を最大値として徐々に落ちている。
RCの評価に、ライブと比較してレコードのクオリティが芳しくないというものがある。ライブの音響については、78年にロサンゼルスの“A1オーディオ”という会社からPAシステムをいち早く輸入するなど、事務所は革新的だった。日本の音楽プロダクションでPAシステムを持っていたのは当時で3社ほど。その中でも群を抜いていた。巨大アンプが内蔵されたスピーカーを、80年の東京・虎ノ門にあった久保講堂のライブから使用。日本中のPA会社から注目を集めていた。
レコーディングに関しては、86年、単独渡英してミックスダウンを行ったミニアルバム「NAUGHTY BOY」の素晴らしいサウンドに、清志郎の不満も消え去った。また、87年、もともとRCとして海外レコーディングする予定が、メンバーが興味を示さなかったため、清志郎のソロレコーディングにすり替わって録音した「RAZOR SHARP」は、すべての面で高い評価を得た。リンコ(ベース、小林和夫)は「RCと同じような編成のレコーディングメンバーで、これだけ違うんだぞと言ってるみたいだった」と、笑いを含め、のちにインタビューで語っている。ここ数年の“安定期”は、このあとの“激動期”につながっていく。
87年12月25日、東京・武道館で開かれた「TOUR OF LOVE (7TH HEAVEN)」の楽屋で、清志郎はメンバーに、レコード会社の社販で買った過去のロック名盤CDをこれみよがしに何枚も見せて自慢していた(折しもLPがCDに移行した頃だ)。リハーサルを終え、ステージを前に各自のポジションで静かにくつろいでいたメンバーは、突然やって来る清志郎に苦笑しながらも、ファッツ・ドミノ、エディ・コクランなど50年代~60年代の名盤を懐かしがっていた。当時、出始めのCDプレイヤーを持っていなかったリンコは、「プレイヤーごと貸してくれ」と清志郎を笑わせた。迷惑そうな顔をしながらもCDに見入るメンバー、おかまいなしの清志郎、まるで1軒1軒を回る訪問販売のようでおかしかった。私はその写真を4コママンガ仕立てにしてファンクラブの会報に載せた。今思えば、これはカバーアルバム「カバーズ」につながる1コマではないか……。
突然の「カバーズ」発売中止
RCは、年が明けて間もなく、「カバーズ」のレコーディングに入る(曲は、メンバーにとって懐かしい洋楽曲をセレクトした)。清志郎はRCへのカンフル剤を渇望していたのだろうか。1980年~81年に感じた“勢い”を取り戻そうとしているようにも思えた。しかし、所属レコード会社である東芝EMIから突然の発売中止を言い渡され、何回か持たれた話し合いの結果、物別れに終わってしまう。出口を失った「カバーズ」は、当初の発売予定から9日遅れの88年8月15日、古巣であるキティレコードよりリリースされた。
「カバーズ」がもたらした騒動によって、88年8月、恒例のRC野音ライブは、異様な緊張感に包まれた。何かスキャンダルを探すために、清志郎がどんなカゲキなことを言い出すのかと、大挙してマスコミが集まったのだ。すべてを見透かした清志郎は皮肉たっぷりに、新曲「軽薄なジャーナリスト」という曲を演奏し、この騒動に区切りを付けてみせた。
軽薄なジャーナリストにはなりたくない 軽薄なジャーナリストにはなりたくない いくら落ちぶれてもなりたくはない
軽薄なジャーナリストはいい服を着て なにも知らない人にうそをつく そして安全なところからただ見ているだけ
軽薄なジャーナリズムにのるくらいなら 軽薄なヒロイズムに踊らされるくらいなら そんな目にあうくらいなら あの発電所の中で眠りたい
(「軽薄なジャーナリスト」より)
その一方で、清志郎は土木作業員の出で立ちでゼリー・ビーンズと名乗り、トッピ、ボビー、パーをバンドメンバーにTHE TIMERSを結成し、89年、ロンドンでのレコーディングアルバム「THE TIMERS」をリリース。ライブでもやりたい放題歌う。RCのほかのメンバーは清志郎の姿をどう捉えていたのだろうか。また、この時期は長男である竜平くんの誕生を控え、「父親になったら曲ができないのではないか」と焦って曲を量産(これは取り越し苦労だった)。竜平くんを抱いてRCのステージに立ったり、曲も披露した(プライベートでも、忌野家の年賀状と暑中見舞いが子供の写真に変わった)。「カバーズ」からTHE TIMERS、そしてRC、形を問わず走り回る清志郎がいた。
この年の恒例クリスマスコンサートをもって、実質上、5人がそろったRCサクセションのステージを観ることはなくなった。
90年、約10年前に新生RCのメンバーが埋まったように、今度はメンバーが1人、2人と外れていき、とうとう清志郎、チャボ、リンコの3人になってしまった。メンバー間に生じた音楽性のズレが原因で、G2(キーボード、柴田義也)、新井田耕造(ドラム)が脱退。同時期にレコーディングは始まった。清志郎が自ら指名し来日したレコーディングエンジニアは、サウンドの問題を浮き彫りにし、バンドは難題を山積みにしながらレコーディングを続けた。ついにRCに溝が生まれた。埋まるまでの年月を計ることすらできないほど深い溝だった。結果、音楽を一番に優先した清志郎の強さに、改めて私は恐れ入った。9月、「Baby a Go Go」リリース。難産だったアルバムは温かく柔らかい音をしていた。皮肉にも、この素晴らしいスタジオアルバムには、楽曲もサウンドも、最後のRCが手にした豊かな収穫を感じる。
91年1月、RC無期限活動休止
無期限活動休止へ向かう河は、逆らいようがない流れであり、周囲の誰もが納得する流れでもあった。濁流で、急流で、混沌とし、渦を巻いていたが、今思えば自然な流れだったと言える。1つの時代が終わり、始まる。後年、清志郎は「失恋をした気分だった」と回想している。大きな軸をなくした喪失感。清志郎はそれまで大切に温めてきた“RCサクセション”という金看板を失った。事務所は閉じられ、メンバーはそれぞれ独立した。私は“RCサクセション”を忘れようとした。1990年のヘビーな体験は、いつまでも胸につかえていたし、私の喪失感を打ち消すにはそんな方法しか思いつかなかった。
翌91年からの清志郎のソロワークは、RCのタガが外れたように“極彩色の光”を放ち始めた。Booker.T&MG'sと作り上げた名盤「Memphis」(92年3月)。少年時代から憧れていたミュージシャンと来日公演を果たしたのだ。清志郎がまた新たな一面を見せたことに驚いた。しかし、それ以降はライブに足が遠のきつつ、次々と結成される新しいバンドに、もの足りなさも感じた。
時は流れた。この間の10年、私は、時々、ファンクラブ会報の原稿を依頼され、ライブレポートを寄せたり、インタビューをまとめたりしていた。2004~09年に、奇しくも衣装係に返り咲いた。80年代に戻ったかのような気持ちで、清志郎の最期の5年間を過ごすことができた。清志郎は、RCの頃から変わらずの奇抜さとユーモアが層をなすように厚味を増し、何よりもRCの原点、ソウルショースタイルのステージがキマっていた。そして、手の焼ける年頃2人のお父さんでもあり(型破りな父親は、逆に手を焼かれる側だったか)、柔らかな穏やかさにあふれていた。
80年代、私はRCの近くで過ごし、白昼夢を見ていたような錯覚を抱く。清志郎は、そんな世界を大勢のファンに見せてくれたのかもしれない。
<忌野清志郎RC編おわり>
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- 片岡たまき
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RCサクセションのマネージャー、衣装係、ファンクラブ会報誌の編集を担当。1980年代の10年間をスタッフとして支える。1990年代、RCサクセションの活動休止以降は、金子マリのマネージャーとして活躍。2004年以降、ソロになった忌野清志郎の衣装係に復帰して、2009年の永眠まで担当。著書に「あの頃、忌野清志郎と ボスと私の40年」(宝島社)。現在、14人編成のアコースティックオーケストラ「パスカルズ」のスタッフとして活動中。
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