日本の音楽史に爪痕を残すアーティストの功績をたどる本連載。今回はロックシンガー、どんとの後編を公開する。どんとはローザ・ルクセンブルグでの活動を経て、新バンド
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BO GUMBOS誕生
1987年に入った頃、どんとと永井利充は岡地明(現・曙裕)に声をかけてセッションをやり始めた。岡地は吾妻光良 & The Swinging Boppersのドラマーでもあるがライブを行うのは年に数回ほどで、もう1つの所属バンドであるブレイクダウンが活動休止中だったこともあり、彼らのセッションに付き合っていた。ローザ・ルクセンブルグにキーボードで参加していたDr.KYON(現・Dr.kyOn)は、どんとから連絡が来て二つ返事で新バンドへの参加を決めた。彼らはサウンドの方向性をダイレクトに示した“THE BO GUMBOS”という名前のもと、ローザ解散の3カ月後に初ライブを行っている。
バンド名に込められた“GUMBO”とは、ニューオリンズの地元料理ガンボと、セカンドラインと呼ばれるこの地で生まれたリズムの音楽を“ガンボ”と呼ぶことから来ている。そしてロックンロールの始祖の1人とされるボ・ディドリーに敬意を評して、彼らは自らを正式にBO GUMBOSと名乗ることにした。ちなみに“GUMBO”の発案者はDr.KYONで、そこに「BOを付けよう」と提案したのは、どんとだったという。BO GUMBOS結成の経緯を永井は、「どんとと僕が、“祭り”“ダンス・ミュージック”への欲求を抑えきれずに、ローザを脱退して新たな道を選んだということ」(ミュージック・マガジン増刊「どんとの魂」)と語っているが、その欲求はローザを始めたときと通じるものだったのではないかと思う。制約なしにセッションを繰り返し祝祭的なライブを楽しむのが、どんとたちにとってのバンドだったのだろう。デモテープを作って段取りよく音源を制作して粛々とバンドを続けていくなんてことは念頭になく、つまりそれは全エネルギーを好きな音楽に注ぎ込みたいという初期衝動にほかならない。
ローザ時代からのファンクやアフロビートといった音楽的要素に、ニューオリンズのセカンドラインのリズムが加わりよりグルーヴィなサウンドになったのは、どんとと永井がThe Metersの音源に触発されたことに加え、もともとその方面に造詣が深いDr.KYONの影響も少なくなかった。結果、ローザよりもサウンドの方向性は明確になり、加えてローザ時代に曲作りの経験を積んだおかげで、楽曲のクオリティは上がっていった。どんとのボーカリストとしての力量が上がったこともあり、個人的にはローザ時代より楽曲と歌の親和性が高くなっていると思う。バンドで取り上げる曲の幅も広がり、ダンサブルな「泥んこ道を二人」や「トンネルぬけて」のような名バラードがライブの定番となっていくのに、そう時間はかからなかった。
こうして動き出したBO GUMBOSは、1988年になるとさっそく全国ツアーを行い、INKSTICK芝浦FACTORYでマンスリーライブを開始する。この時期の彼らのライブはとにかく熱量が高く、一度見たら取り憑かれたように見たくなるものだった。勢いづいているバンド特有の魔法めいたパワーがあり、私も足繁く彼らのライブには通ったものだ。
当時を振り返ってDr.kyOnは言う。「本当にあのまま続くと死ぬでしょうぐらいの(笑)。(中略)理知的に4人が集まった感じではないので、探しながらもっといけるんじゃないかという作業が、しばらく途切れなかった。これでええやん、というのがなかった」(「どんとの魂」ミュージック・マガジン増刊)。ひたすらセッションを繰り返し、その勢いでライブをやっていた、という感じだろうか。ライブの動員はうなぎ上りに増えていき、バンドへの注目は否が上にも高まる。折しもバンドブームがピークに達し、レコード会社はこぞって彼らに声をかけたが、丸2年もの間、BO GUMBOSは一切音源を発表せずこの1年で100本を超えるライブをやり続けていた。
満を持してメジャーデビュー
満を持してEPIC・ソニーと契約したBO GUMBOSは、メジャーデビュー前の大仕事として、89年2月1、2日に中野サンプラザホール2DAYSを成功させ、デビューシングルを都内でレコーディングする。アルバム未収録曲をデビューシングルにしたいというどんとの希望で「時代を変える旅に出よう」がA面に、カップリング曲はライブで定番になっていた「もしもし!OK!!」が選ばれた。このシングルと同時に、浅草常盤座で撮影した超サイケデリックなビデオ作品「宇宙サウンド」をリリース、シングルにもアルバムにも未収録の曲が入っており、彼ららしい混沌とした祝祭色の濃い映像が話題になった。
そしてBO GUMBOSは1stアルバムのレコーディングのためニューオリンズに向かった。彼の地で、ボ・ディドリーとレコーディングしたいというメンバーの希望をレーベル側が飲んだ形である。3月18日に成田を発ち20日にスタジオに入っている。のちに発売されたデビュー25周年ボックス作品「1989」のライナーノーツに、当時のどんとが書いた文章が掲載されている。
「おれたちはニュー・オーリンズで音を出したかった。行く前はどんな所か何も知らず、ただ何かえぐいものがあるような気がしてた。10年前に京都に行きたくてたまらなくなった気持ちにも似てニュー・オーリンズは俺のソウルを引きつけた。音が欲しい色が欲しい。おれたちはいつも飢えている」
ボ・ディドリーと念願のレコーディングを果たして親交を結び、ニューオリンズファンクのファミリーバンド、The Neville Brothersの一員シリル・ネヴィルの参加も得て、1stアルバム「BO & GUMBO」が完成、7月にリリースされる。
アルバムの発売直前には、日比谷野外大音楽堂で凱旋ライブを行い、9月に2ndシングル「BO GUMBOS」(表題曲はボ・ディドリーが彼らのために書き下ろしたニューオリンズ録音曲)とニューオリンズで撮影したビデオ作品「Walkin' to New Orleans」をリリース、9月にはボ・ディドリーをゲストに迎えたツアーを行った。10月から中野サンプラザホールでのマンスリーライブを軸に全国各地でもライブをやり、年末には日本レコード大賞の「アルバムニューアーティスト賞」も受賞した。
90年2月に中野サンプラザホールでのマンスリーライブの総集編をNHKホールで行い、3月にシングル「ナイトトリッパー・イェー!! / 最後にひとつ」、9月にはシングル「誰もいない」と2ndアルバム「JUNGLE GUMBO」をリリースした。レコーディングは都内で行ったがミックスダウンはジミ・ヘンドリックスが設立したニューヨークの伝説的なスタジオ、エレクトリック・レディ・スタジオで行った。さながらロックの聖地巡礼だ。「なまずでポルカ」で始まりサルサやメレンゲも取り入れた多彩な音楽性の作品はニューオリンズサウンドになじんだファンには少々戸惑いも感じさせたが、BO GUMBOSの勢いは衰えることはなかった。
バンドの活動は順風満帆に見えていたが、前年のボ・ディドリーとのツアーあたりから、どんとは喉の調子を悪くしていて、高いキーで歌うのに苦労していたようだ。だが、どんとはメンバーにその苦悩を伝えることなく、むしろバンドを加速させていく。9月に代々木公園野外音楽堂で開催したフリーコンサート「HOT HOT GUMBO '90」では山口冨士夫をゲストに迎え、その映像を年末にリリースした。2ndアルバムの収録曲が1曲しか演奏されていないのが、なんともBO GUMBOSらしい。
91年のBO GUMBOSは、ほぼライブ活動に明け暮れる。前年末からのホールツアーが終わると新曲メインで春にファンクラブ限定ライブを実施、7月にはエストアニア共和国でのイベント、8月には各地のフェスに参加し、「HOT HOT GUMBO '91」を伊豆の下田で開催、その模様が年末にビデオでリリースされた。ライブ音源を元に制作したアルバム「ULTRAVELIN' ELEPHANT GUMBO」が発表されるのは、明けて92年2月。トラックダウンは、ロンドンのアビー・ロード・スタジオで。ロックの聖地巡礼が続いていた。
その一方で8月にはバンドゆかりの地・京都で「HOT HOT GUMBO '92」を開催する。京都市内をトラックで練り歩き、京大西部講堂前でライブをするという画期的なイベントだった。このライブがバンドの頂点だとDr.kyOnは言う。
バンドを始めたときに思い描いたことを彼らはここでやり尽くしたのではと思う。憧れの地で憧れのアーティストと録音し、ロックの聖地を巡礼し、故郷に錦を飾るというマンガのようにシンプルな夢はここで、ほぼ形になってしまったのだ。
試行錯誤のBO GUMBOS後期
商業的な成功がまったくなかったとは言わないが、バンドの方向性に対する具体的なビジョンなどはなかった。バンドは必死であがき、ディレクターの名村武氏も行き詰まってきたバンドをなんとか立て直そうとアイデアを出した。1993年には、録り貯めていた音源をベースにラジオショー仕立てにした「BO GUMBO RADIO SHOW "Gris Gris Time"」、どんとの歌を前面に打ち出したフォークロック的な快作「GO」と、オリジナルアルバムを2作発表。その後も、六本木PIT INNで行った「HOT HOT GUMBO '93」でのカバー企画が端緒になり、新旧のロックンロールを取り上げた「THE KING OF ROCK'N ROLL」、ソウルミュージックがテーマの「SHOUT!」、ワールドミュージックへと視野を広げた「THE JUNGLE BEAT GOES ON」と、ツアーのライブ音源を速攻リリースする形でのカバー3部作を経て新作に臨む予定だったのだが、思うように事は進まなかった。
曲作りに苦しんだどんとは喉の不調にも悩み、ツアー途中でバンド脱退を申し出る。94年12月31日の川崎クラブチッタでのカウントダウンライブを最後に、BO GUMBOSは活動休止を表明。その前日の新宿LIQUIDROOMでのすべて新曲で構成したライブ音源をDr.KYONがプロデュースしてアルバム「GO GO KING LIVE!」としてリリースするのは95年5月。ブルージーで切ないアルバムだ。彼らは5月から6月にかけて「解散TOUR"BO GUMBOS BOGAAAA~N!!"」を実施。6月11日に日比谷野外大音楽堂で迎えたツアーファイナルの模様はライブビデオ「タイム・ボガーン!~ボ・ガンボス解散」に収められた。
沖縄移住、ソロ活動開始
どんとは、いよいよソロの道を歩み始める。そこには彼に家族やその周囲の人たちといったバンドとは違った人間関係ができていたことも、関係していたのかもしれない。彼はローザ時代に親しくなったZELDAの小嶋さちほと、BO GUMBOS結成の頃には一緒に暮らすようになっていて、2作目「JUNGLE GUMBO」のトラックダウンのため滞在していたニューヨークで第1子が誕生した。そのときにニューヨークの通りで偶然出会ったボ・ディドリーが名付け親となったのは運命ともいえようか。子供はラキタと名付けられ、彼も今は音楽の道に進んでいる。1990年、一家は湘南で暮らし始め、第2子・奈良も生まれた。奈良も現在は、ナツノムジナやGateballersのメンバーとして活動中だ。
BO GUMBOS脱退を機に、どんと一家は沖縄に移住した。以前から沖縄の音楽に興味を持っていたこともあるが、どんとはマイペースで音楽をやりたいと思ったのだろう。湘南で暮らし始めた1990年に小嶋らと組んだユニット・海の幸の1stアルバム「熱帯の友情」のような、のんびりした作品を思い描いたのかもしれない。
どんとのソロ1作目「ゴマの世界」が届いたのは、1995年7月。大胆にエレキギターを弾く曲もあればアコギにハーモニカ、チープなドラムマシンなどを自分で演奏して歌う曲もあり、いかにも宅録な音だが伸び伸びとした空気感の作品は、70年代のシンガーソングライターに憧れた彼の原点を思わせる。
ソロアルバムの発売直前に行われた、THE BLUE HEARTSを解散したばかりの甲本ヒロトとの対談(「パチパチロックンロール」1995年6月号)で、どんとはこう語っている。「最初に衝撃を受けたのが日本のシンガー・ソングライターだったから、新しい歌を作って、昔好きだったフォーク・シンガーみたいに歌ってみる」。まさにその通りの作品を作ったというわけだ。なお、同年にはインドネシアのジャカルタで録音した海の幸の2作目「Indonesian Sea Food」も発表されている。クーラーもない部屋で汗だくになって作ったソロ1作目「ゴマの世界」は、そのときの自らの思いを吐露したような作品だったが、97年に完成させたソロ2作目「DEEP SOUTH」は、制作環境は変わらないものの精神的には安定したようで、風通しのいい作品になった。98年の3作目「SUMMER OF DONT 実況録音盤」は、沖縄と東京でのライブを収録した作品で、小嶋のユニットAMANAと海の幸のメンバーが共演している。
早すぎるお別れ
「SUMMER OF DONT 実況録音盤」は新曲もあり、また独演からバンドへ、どんとの気持ちが再び向かっていたのであろうことが窺える作品だ。これが最後の録音作品となってしまったが、小嶋の著書「虹を見たかい」(角川書店)によれば、99年の夏に1カ月半にわたり全国をツアーしたどんとは、秋には曲作りに取りかかっていたという。カセットテープにたくさんの曲のモチーフが録音されていたそうだ。ミレニアムと世界が浮かれていた2000年1月、名古屋でのライブを終えたどんと一家はハワイで休暇を過ごそうと旅立った。家族や友人と楽しい時間を過ごしている最中に脳内出血でどんとは倒れ、救急搬送された病院で1月28日に息を引き取った。享年37。早すぎるお別れだった。
2000年7月に発表された「一頭象 どんとスーパーベスト」は、どんとが亡くなる直前まで選曲し、曲順も決めていたというベスト盤だ。ローザ・ルクセンブルグ、BO GUMBOS、ソロ、海の幸、未発表曲も含む20曲は、どんとが思うどんとの歌なのだろうと思う。前述の甲本ヒロトとの対談で、どんとはこう語っている。
「ボ・ガンボしてる時、これだあって感じで100%自信満々で曲を持ってくと、みんな違う曲を選ぶんだよね。“その曲ちょっと違うんじゃない!?”みたいな。おいらもすぐに“うん、じゃあ、こっちにしよう!”って(笑)。みんながいいって言ってくれる曲も80%は納得してるもんだからね」
2000年8月に日比谷野音で開催された「SUMMER OF どんと」には、彼を愛するアーティストとファンが集った。その後、2003年からは命日の頃に「SOUL OF どんと」と題したイベントが開催され、2009年まで続いた。2010年には没10周年に合わせて日比谷野音で行われ、奥田民生や岸田繁(くるり)、松たか子、ハナレグミ、曽我部恵一、Leyonaなど錚々たる顔ぶれがそろった。15周年は恵比寿LIQUIDROOMで「SUMMER OF どんと」が開催され、2020年には「魂の成人式」と称して再び皆が下北沢CLUB Queに集まった。どんとが今も愛され続ける理由。それは彼が残した素敵な楽曲の数々と、音楽と真正面に向き合って生きた姿勢に、多くの人たちが惹かれるからなのでろう。
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- 今井智子
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音楽評論家。70年代後半から今日まで日本のロックを中心に取材・執筆してきた。「朝日新聞」「MUSIC MAGAZINE」「ROCKIN'ON JAPAN 」などのほかWeb媒体でも執筆中。
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