日本の音楽史に爪痕を残すアーティストの功績をたどる本連載。4人目に取り上げるのは
文
TMの原点、“小室哲哉&STAY”
小室が本格的に音楽活動を始めたのは高校卒業直前の1977年、プログレッシブロックを中心にしたバンド・イラプションを結成したときからだ。当時はバンドコンテストがプロデビューの入り口だった時代であり、イラプションはまずそこにチャレンジする戦略を採った。結局イラプションとしてのデビューは叶わなかったが、小室は音楽コンテスト「East West '77」に出場したときにプロデビューを前提にスカウトされ、音楽事務所に所属。そこでギズモというバンドを結成する。77年10月30日に新宿厚生年金会館で事務所の人気バンドBOWWOWの前座として演奏を披露したのが、小室初のプロとしてのステージとなった。
高校卒業から半年余りでデビューの入り口にまで来るという順調な滑り出しだったが、その後ギズモのデビューはうやむやになった。そこで小室はすでにメジャーデビューを果たしていた木根尚登が率いる6人体制のバンド・SPEEDWAYに80年から途中参加。しかし成果を出せず、翌年SPEEDWAYはレコード会社との契約を解除されてしまう。この頃、小室には裏方の仕事も多く回ってきたが、自らの音楽的趣向とは関係のないものが多く、鬱屈としたものを抱えていたらしい。プロの入り口は近くても、その奥はとても長い。そんなことを当時の小室は感じていたという。
SPEEDWAYは2ndアルバム「Base Area」がリリースされる直前の80年11月に新宿ルイード(現・新宿RUIDO K4)でライブを行ったが、この日小室は木根らに「今のままではもうこれ以上無理だ。大所帯のバンド形式は古いので、もっと少人数に絞るべきだ」という趣旨の発言をした。木根にはアマチュア時代から一緒に活動してきた仲間を切るという選択肢はなく、その提案は退けられてしまった。しかし必要ならばそうすべきだと考えていた小室。重要な局面における彼の冷徹な決断力は、やがて訪れる94年のTMN終了の際にも発揮され、その後のTKブーム隆盛を導くことにもなる。
小室はSPEEDWAYで退けられた提案を小室哲哉&STAYで実践に移すことにした。このSTAYにはボーカルも含めて固定的なメンバーはほとんどおらず、レコーディングやライブごとに必要なミュージシャンを集める形態が取られた。バンドというよりは、小室がセッションを行うときの名義というべきだろう。
この活動形態はTM NETWORK(以下、TM)の前提にもなった、と私は考えている。TMは83年にキーボードの小室哲哉、ボーカルの宇都宮隆、ギター(当初キーボード)の木根尚登の3人で結成されたが、これだけでレコーディングやライブができるはずがない。TM結成の話を持ち込まれたとき宇都宮は「どうやって演奏するんだ?」と言ったそうだ。いかにもバンドを前提とした発言である。これに対する小室の回答は「必要な人をその都度呼べばよい」というものだったが、これがSTAYと同様の発想であることは理解できるだろう。
そもそもTM結成のきっかけも、バンド活動とは異なる文脈だった。小室は82年、EPIC / SONYプロデューサーの小坂洋二と知り合ったが、小室のシンセのインスト曲のデモテープを聴いた小坂は、小室の才能には興味を持ちながらも、ボーカルがいないとデビューは難しいと告げる。そこで小室は固定のボーカリストを加えるべく、SPEEDWAYボーカルの宇都宮に声をかけた。このときに木根も加わったのは、当時小室が木根と共に男性歌手やバンドのプロデュースを試みていたことが関係している。つまりTMは、小室と木根が作った曲を宇都宮が歌うユニットとして構想されたものだったのだ。
コンピュータという足枷
1983年8月22日、「フレッシュサウンズコンテスト」で優勝したTMは、EPIC / SONYと正式契約する。デビュー当初からただ音楽を作るのではなく、それをどのような戦略で売り出すのかという点を重視した小室は、EPICに対してさまざまな特徴的な方針を提案した。それはギズモやSPEEDWAYでの失敗を踏まえたものでもあったのだろう。
まず音楽面では、イギリスで生まれたニューロマンティックを意識した。欧米の流行を取り入れることは、中学時代からの小室の志向に適うものだったし、エレクトロポップサウンドが主流のニューロマは、小室のシンセを前面に出したTMの方向性にもよく合っていた。84年4月21日リリースのデビューアルバム「Rainbow Rainbow」はこの路線上に作られた。ただし翌年の2ndアルバム「Childhood’s End」になると、早くもこの路線は後景に退く。
もう1つTMが強調したのは、コンピュータ(パソコン)を使用することよる先進性だった。この点は94年の“終了”まで、TMを特徴付ける最大公約数的な要素と言える。ただ小室は当初コンピュータの専門的知識がなく、その導入は友人の小泉洋の協力で実現したものだった(参考:「TM NETWORKの重箱のスミ!」。小泉はその後85年まで、マニピュレーターとしてTMの楽曲制作に深く関与し続けた)。当時の技術ではコンピュータで複数のシンセを同期させて動かすのは容易ではなく、実際にこれを行うには大変な苦労があり、スタジオでの最初の3日間はシンセがまったく反応しないままに過ぎ去ったという。
そのような状態でもあえてコンピュータの導入に踏み切ったのは、小室自身の“新しいモノ好き”の性格もあったのだろうし、またそれ自体がアピールになるという判断もあったのだろう。この志向は以後も続き、ライブでムービングトラスやスターライトといった最先端の照明システムや、多機能シンセSynclavierを使用するなど、TMは“先進性”を担保する舞台機材や音楽機材を導入し続けていく。
さらに小室は近未来的なイメージを強調するために、自分が好きなSF設定も導入した。そもそもTMとは、メンバー3人の出身地である東京西部の“多摩”を意味していたのだが、それは“Time Machine”に読み替えられ、彼らは未来から来た電気仕掛けの予言者“Electric Prophet”とされた。ライブ会場はElectric Prophetが未来から会いに来る場であり、そこで聴かされるのは未来の音やメッセージというわけだ。さらにブレイク後の87年には宇宙人の設定も加わり、その音楽は地球を俯瞰する宇宙人からの警告とされた。
ただ、こうした“近未来性”の代償もあった。コンピュータの利用はレコーディングでも容易ではなかったが、ライブでの実践はさらなる困難を伴った。そのためTMはライブではなくミュージックビデオを中心とした活動を行なう方針を打ち出す。当初はアルバム全曲のMVを制作する計画まであったという。これは「MTV」や「ベストヒットUSA」など、洋楽のMVを流すメディアの隆盛を意識したものでもあった。ただしこの戦略はあまり成果を挙げられなかったようだ。
制約を逆手に取ったTMサウンド
その後コンピュータの性能向上もあり、TMはライブにも重心を置くようになる。85年秋には初の全国ツアー「Dragon The Festival Tour」を開催し、その翌年に発表された3rdアルバム「GORILLA」では、ライブを念頭に置いた音作りが行われている。先行シングル「Come on Let’s Dance」のタイトルからわかるように、本作ではダンスミュージックが強く打ち出された。モデルとなったのは、アメリカのモータウンサウンドだ。TMは新キャッチフレーズとして、Funk、Punk、Fansの要素を併せ持つ音楽“FANKS”を提唱し、踊れる音楽を志向する。「GORILLA」リリース直後の全国ツアー「FANKS DYNA☆MIX」ではライブ会場がディスコに擬され、ステージ上のメンバーも観客も曲に合わせて踊り続けた。
もっとも当時のライブは、意外と生演奏で処理されている部分も多い。機材の不安定さと性能の限界から、コンピュータに全面的に依存することはできず、スタジオと同じアレンジで演奏することは困難だった。だが小室はこの制約を逆に利用した。すなわちスタジオ音源の再現を追求するのではなく、ライブで再現可能な形に曲をアレンジし直したのだ。その中には、スタジオ音源にないフレーズを加えたり曲の構成を変えたりするなど、非常に手が込んだものも多い。特に「FANKS DYNA☆MIX」ではFANKS以前の楽曲も新曲と言っていいほど大幅なアレンジが加えられ、ダンサブルなFANKSサウンドに生まれ変わっている。
また事前にプログラムされたデータを用いるTMのライブでは、アドリブ要素を入れることが難しかったが、これを克服すべく取り入れられたのが、小室によるサンプラーを用いたサンプリングボイスの連打プレイだ。特に「Get Wild」の“Get”の連打は有名で、TMのライブの代名詞にもなったほど。このように小室はライブに関わるさまざまな制約を乗り越え、次々にアピールポイントを生み出していった。
86年に入って、以上のような方針転換を図ったのは、TMの尻に火が付いていたところも大きい。TMはEPIC / SONYから、3rdアルバム「GORILLA」までに売れなかったら終わり、とプレッシャーをかけられていたが、依然ブレイクの徴候は見えていなかった。実はモータウンサウンドの導入も小室自身はそれほど積極的ではなく、宇都宮と木根も戸惑っていたが、小坂プロデューサーの指示で行われたものだったという。だがこの方針はうまくはまり、これを契機にTMは注目を集める存在になっていく。加えて、同年初めに小室が渡辺美里に楽曲提供した「My Revolution」が大ヒット(オリコン年間5位)したことも大きな後押しとなった。小室は本作で「第28回日本レコード大賞」の優秀作曲者賞を受賞するなど、作曲家として注目される存在になっていた。
87年には4thアルバム「Self Control」と10thシングル「Get Wild」が相次いでヒット。TMはついにブレイクを果たす。6月には初の武道館ライブ「FANKS CRY-MAX」を開催し、ベスト盤「Gift for Fanks」および5thアルバム「humansystem」はオリコン週間1位を獲得。この頃には、洋楽のダンスミュージックを小室流に咀嚼してポップスに落とし込むことに成功した。いわゆる“TMサウンド”の完成であり、「Be Together」「Beyond The Time」「SEVEN DAYS WAR」「COME ON EVERYBODY」など知名度の高いTM楽曲の多くは、この年から翌年までに集中して発表されている。またライブにも多額の予算がつぎ込まれ、技術の進化もあって「Kiss Japan TM NETWORK Tour '87~'88」の頃にはコンピュータによるライブ機材の制御がほぼ達成されることとなった。
そして彼はリセットボタンを押した
ところが小室はTMのブレイクと共に、新たな飛躍を求め始める。まず88年3月のアリーナツアー「KISS JAPAN DANCING DYNA-MIX」で新キーワード“T-MUE-NEEDS”を提示。MueはMutation(変異)から来ており、このキーワードは“TMの変化を求める人々”を意味している。すなわちこれは“FANKS”の次の段階に入るという宣言であったのだ。そしてその直後に小室はイギリス・ロンドンに移住し、そこを拠点にTMの世界戦略を目論んだ。
しかし結局、T-MUE-NEEDSも世界戦略も具体的な形になる前に企画倒れに終わってしまい、ほどなく小室も帰国するのだが、この間にロンドンで制作されたのが88年12月にリリースされた彼らの代表作、6thアルバム「CAROL ~A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991~」である。91年のロンドンを舞台とした、“少女キャロルのファンタジーストーリー”を盛り込んだコンセプトアルバムだった。リリース直後の全国ツアー「TM NETWORK TOUR '88~'89 CAROL ~A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991~」では、女性ダンサー、パニーラ・ダルストランドをキャロル役に起用し、「CAROL」のストーリーに基づくミュージカル風の演出を試みた。
小室の前進欲求はまだ止まらない。全国ツアー後1年間はメンバーのソロ活動期間に充てられ(この間の小室については後編で触れる)、TMは90年夏、活動を再開すると共にリニューアルを宣言。TM NETWORK から“TMN”へと改称し、同年にハードロックを試みた7thアルバム「Rhythm Red」、翌年にさまざまな楽曲を集めた“音の博覧会”として8thアルバム「EXPO」をリリースした。特にそれまでの音楽性と大きく異なる「Rhythm Red」はファンの反発も大きかったし、経営戦略としてもすでにファンの支持を得ていた形をあえて崩す必要はなかったはずだが、小室は強引にこれをリセットする。
私が思うに、このリニューアルの目的はひと言で言えば“制約からの解放”だった。TMNはこのときから未来人や宇宙人の設定に言及しなくなり、非日常的存在のエイリアンからカリスマ地球人に変貌する。ライブでも徹底的にリニューアル以後の新曲を中心としたセットリストを組み、NETWORK時代にはなかったアンコールも行った。特に「RHYTHM RED TOUR」は、それまでの努力の中で実現したライブシステムもあえて用いず、ほぼ自動演奏なしの生演奏ライブとなった。要するに小室は、TMを縛っていた特殊な要素を取り除き、可能性を広げようとしたのだ。それは新たなファンを呼び込む条件作りでもあり、B'zやXなど勢いのある後進が現れる中でさらなる飛躍のための荒療治と考えたのだろう。
しかしこうした努力にもかかわらず、ファンの数が大きく変わることはなかった。セールス的にも「CAROL」の水準は以後もほぼ維持していたが、小室はそれでは満足できず、92年のアリーナツアー「Crazy 4 You」を終えるとTMNから離れて活動するようになる。そしてデビュー10周年の記念日である94年4月21日、TMNは28thシングル「Nights of the Knife」をリリースすると共に、プロジェクトの“終了”を発表。翌月18日、19日の東京ドーム公演「TMN 4001 Days Groove」を以って、その歴史に一旦幕を下ろした。だが小室はむしろこれ以後、プロデューサー・小室哲哉として史上類を見ない業績を上げることになる。
<つづく>
※記事初出時、本文に誤りがありました。お詫びして訂正します。
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