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西城秀樹「ギャランドゥ」ジャケット

解説

音楽偉人伝 第2回

西城秀樹(後編)

「ジプシー」から「ギャランドゥ」「走れ正直者」「Bailamos」まで オトナになってもヒデキの余熱いまだ冷めやらず

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日本の音楽史に残るアーティストの功績を音楽的な側面からたどる本連載。初回で取り上げるのは、5月16日に死去した西城秀樹(https://natalie.mu/music/artist/14949)だ。前回は1970年代に若き情熱で日本を焼き尽くした“ヒデキ”についてお伝えしたが、今回はその後編。80年代以降の大人になった艶やかなヒデキに迫ってみよう。

文 / 久保田泰平 編集・構成 / 木下拓海 画像提供 / ソニー・ミュージックダイレクト

ヤングマンからアダルトに

当時の人気アイドルや歌手のほとんどがそうだったように、ヒデキはいつもテレビの中にいた。毎日何かしらの番組に出ていて、チャンネルを回せばいつでも会える。西城秀樹というとてつもなくスケールの大きいエンタテインナーが刻んできたシーンは、好きや嫌いの壁を越えて、お茶の間を通じて多くの人たちに相当なインパクトを与えてきたことだろう。

野性的なルックスと情熱的な歌世界にときめいていたティーンエイジガールズはもちろんのこと、チビッコたちもド派手なアクションと熱いキャラクターに正義のヒーローを見る思いで胸を躍らせ、ヒデキを通じて“ロック”というものを無意識のうちに体感していた。加えて、バラード曲にうっとりするお姉さんたちや、まったく興味がないようでいてヒット曲のワンフレーズをしっかりと口ずさめてしまうお父さんたち……その幅広い訴求力は、ライバルであった新御三家の2人だけでなく、同時期の歌手の中でも群を抜いていたと断言できる。1972年のデビューから7年あまりが過ぎた頃、自身最大のヒット「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」を送り出し、人気、実力共に日本の歌謡界を代表する存在になったヒデキのストーリーは、ここからは80年代へと突入していく。

1980年、ヒデキは6枚のシングルをリリースした。愛に破れた男の悲しい心情を乗せたドラマチック歌謡「悲しき友情」、スティーヴィー・ワンダーのカバーで、坂本龍一も編曲で参加したピースフルなラブソング「愛の園(AI NO SONO)」、モスクワオリンピックの応援ソングとして作られた汗と涙の青春讃歌「俺たちの時代」、カリビアンテイストのサマーチューン「エンドレス・サマー」、壮大なオーケストレーションによる神々しきナンバー「サンタマリアの祈り」、本家よりも甘美な印象を与えたオフコースのカバー「眠れぬ夜」。いずれもヒデキの代表曲として挙げられることは少ないかもしれないが、どの作品もそれまでのヒデキが見せてきた魅力を凝縮してアップデートさせていた、まさに“ヒデキ”な楽曲ばかりである。

25歳を迎えていたヒデキは、それらの楽曲を通じて年相応の魅力を放つ一方、新御三家の2人共々、まだまだティーンエイジャーを沸かせるトップアイドルとして君臨していた。しかしこの年の6月には田原俊彦、12月には近藤真彦と、デビュー前から注目を集めていたジャニーズ発のアイドルたちが相次いでデビュー。その後も十代の男の子たちが次々とデビューし、アイドルの世代交代が進んでいく。

翌1981年に発表した「リトルガール」「セクシーガール」「センチメンタル・ガール」は、“ガールシリーズ”と銘打つオールディーズコンセプトで固めた3枚のシングルで、印象的には少々地味だったが、ヒデキはこの年の秋に行った初の香港公演をきっかけに、アジアでの人気が過熱。それとは対照的に日本国内での人気に翳りが見えたかと思いきや、12月にリリースした「ジプシー」で半年ぶりにTBS系「ザ・ベストテン」に登場する。チャート的には決して飛び抜けたアクションを見せた曲ではなかったが、不倫らしき禁断の恋愛というテーマを女性目線で歌ったアダルトな歌詞と、歌謡ロックフィーリングの“ヒデキの真骨頂”と言えるサウンドを積んだこの曲を、80年代ヒデキのフェイバリットと挙げるファンも多い。

たまたま生まれた言葉「ギャランドゥ」

ヒデキは通算41枚目となった1982年3月の「南十字星」で、史上5組目となるシングル総売上枚数1000万枚突破を達成。しかしこの事実は、“大台”に乗った一方でキャリアのピークを越えたという捉え方もでき、かつてこの記録を達成したピンク・レディーや森進一、沢田研二などは、達成後にセールスが落ち着いていく傾向にあった。確かにヒデキもオリコンの上位や「ザ・ベストテン」のトップ3に送り込むヒットがなくなっていったが、チャートだけでは見えてこない“みんなが知ってる”という意味でのヒット曲の発表はまだまだ続く。

その1つが、1983年2月にリリースされた「ギャランドゥ」だ。オリコンの最高位こそトップ10入りはしなかったが、トータルセールスは10万枚超え。もんたよしのりによる作詞作曲で、いわゆる歌謡ロック的なヒデキらしいナンバーだが、なんと言っても「ギャランドゥ」という意味不明なタイトルがあまりにもキャッチーである。メロディを作るときに適当な英語を歌いながら作っていたら生まれた言葉とのことだが、いつの頃からかその言葉が1人歩きをするまでになり、若い世代にとってヒデキの曲と言えばコレ、という人も多いだろう。

1984年10月、二十代最後の1年に、ヒデキは「眠れぬ夜」以来のカバー曲を発表する。その夏、全英チャートを駆け上っていたジョージ・マイケル(Wham!)の初ソロシングルを和訳した「抱きしめてジルバ -Careless Whisper-」がそれだ。この時代は日本人好みの叙情性を持つ洋楽ヒットが多かったことで、日本語による洋楽カバーも多く、例えば82年に郷ひろみがバーティ・ヒギンズ「哀愁のカサブランカ」とフリオ・イグレシアス「哀しみの黒い瞳」をカバーしていたり、大映ドラマの主題歌のほとんどがそうであったほど。その中でもヒデキが挑んだのは、85年に全米で一番売れたシングルとなる「Careless Whisper」。ジョージ・マイケルとはまったくスタイルの違うボーカリストであるヒデキだが、本家のムードに飲み込まれることなく見事に自身のカラーに染め上げ、カバーではありながらもヒデキの代表作と言われるぐらいの楽曲に仕立てている。

1980年代中盤以降、ヒデキの作風はアーティスティックな面を強調したものが目立つようになる。85年9月の「BEAT STREET」は、前作「ミスティー・ブルー」がタイアップの関係上、テレビでのパフォーマンスが制限されたこともあってアルバムからシングルカットされたものだが、作曲は当時ノリにノッていた角松敏生で、作詞とコーラスアレンジが吉田美奈子という布陣。昨今のシティポップブームで再注目されている曲でもある。86年9月の「Rain of Dream 夢の扉」は、長らくヒデキのバックを務めてきたギタリストの沢村拓二による曲で、Bon Joviあたりを彷彿とさせるヘヴィメタルサウンドに。87年5月の「NEW YORK GIRL」は、プロデューサーにジョージ・デュークを迎えたブラックテイストの楽曲で、ジョージから「ヒデキの声は世界で1人しかいない」と絶賛された。88年4月にはアルバム「33才 / 西城秀樹」を発表し、その中からフリオ・イグレシアス「33 Anos」(77年発表)のカバー「33才」がシングルカットされている。

ヒデキチルドレンからの贈り物

ハウスビートに乗った「SHAKE MY DAY」で幕を開けた1990年代のヒデキ。80年代半ば頃から、日本におけるロックボーカリストのパイオニア的な注目を集めていた彼は、さまざまな作家陣と組んでトレンドを巧みに盛り込みながらも、何よりその個性的なボーカルをJ-POPシーンで際立たせていった。デビューから20年ともなれば過去のヒット曲で十分にしのげるはずだが、攻めの姿勢は変わらない。

そんなヒデキは90年代になってついにアニソンに進出。例えば91年4月にリリースした「走れ正直者」は、フジテレビ系アニメ「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマとしてすっかりおなじみだろう。これまでのヒデキにはないコミカルな世界観の楽曲ではありながら、ヒデキの歌声によってほのぼのとした楽曲がより娯楽性の高いものに仕立てられている。そして99年5月には、フジテレビ系アニメ「∀ガンダム」の主題歌「ターンAターン」も発表。これらの作品により、ヒデキのようなエンタテインナーがアニソンに十分フィットすることが実証された。

1997年、デビュー25周年を迎えたヒデキ。この年にリリースされた「西城秀樹ROCKトリビュート KIDS’WANNA ROCK!」には、THE HIGH-LOWS、GACKT、SOPHIAの松岡充、LUNA SEAの真矢、ROLLY、サンプラザ中野(現サンプラザ中野くん)、ダイアモンド☆ユカイ、ZIGGYの森重樹一ら錚々たるメンツが参加。いずれも子供の頃にヒデキを体験し憧れた世代で、それぞれの“ヒデキ愛”をカバー曲に託している。当のヒデキは、ほぼ時期を同じくして、X-JAPANのYOSHIKIがプロデュースしたシングル「moment」を発表。ヒデキを通じてロックを知ったであろう世代のアーティストたちと共に、アニバーサリーイヤーを大いに盛り上げた。その後2000年代に入ってからも、m.c.A・T作「Love Torture」、河村隆一作「時のきざはし」、つんく♂作「粗大ゴミじゃねぇ」など“憧れ世代”とのコラボレーションは続き、その影響力の大きさを実感させられるシーンがたびたびあった。

話題は前後するが、1999年と言えば、エンリケ・イグレシアス(フリオ・イグレシアスの次男)のカバー「Bailamos」も忘れられない。この年は、まず7月に郷ひろみがリッキー・マーティン「Livin' La Vida Loca」のカバー「GOLDFINGER '99」で口火を切った。続いてヒデキがそれに呼応するかのように11月に「Bailamos」をリリース。そして翌2000年春には、今度は野口五郎がサンタナのカバー「愛がメラメラ~SMOOTH~」を発表し、ひさしぶりの新御三家そろい踏みとなったのだ。3人が “らしさ”を光らせたこれらのカバーで、元気っぷりを大いにアピールしたのがつい最近のことのようである。

全身からパワーを漲らせたアクション、歌声。いつもエネルギッシュだったヒデキが2003年に脳梗塞で倒れたというニュースが駆けめぐったとき、信じられなかったファンも多かっただろう。そこから15年にも及ぶ闘病生活が始まったわけだが、その間にもヒデキは幾度もステージに上がり、パフォーマンスをしていた。続けること自体が、もはや奇跡とも言える状態であったことは想像に難くない。いつか万全の状態でステージに、お茶の間に……「ブーメランストリート」の1フレーズではないが、「きっとあなたは戻ってくるだろう」と信じていたが……。

歌謡曲華々しき時代を駆け抜け、孤高でありながらもお茶の間を通じていつもその存在を身近に感じさせてくれたスーパースター西城秀樹。彼を失った喪失感は思っていた以上に大きい。しかし、1つや2つのヒット曲だけでは語り尽くせない彼の偉大なる足跡をこの先の世代にも伝えていくことで、ヒデキの歴史にまた新しいページが刻まれることになるだろう。

<おわり>

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久保田泰平

音楽ライター、編集者としてさまざまな媒体で執筆中。FMおだわらで隔週月曜日に放送される“野球と音楽をつなげる”がテーマのラジオ番組「NO BASEBALL, NO LIFE. supported by Full-Count」に出演している。

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