
眼鏡とコンパス─徳永京子、演劇の座標のんびり旅─ 第3回 [バックナンバー]
“静かな演劇”が生んだ分かれ道
ケラリーノ・サンドロヴィッチと松尾スズキの内なる対称性
2025年9月9日 15:00 2
舞台の中に社会を、社会の中に舞台を見出し、それを精緻かつ確かな言葉で伝え続ける演劇ジャーナリスト・
撮影・
天文学的な確率の偶然
運動能力が大変低いんですね。これまで経験した運動やスポーツで人並みに出来たものは、おそらく皆無です。
フリーになる前の最後から2番目の会社を辞める時、送別会の二次会が、当時その会社で流行っていたボーリングでした。で、何回目かのターンで、投球しようと手を振り上げたら、球が真横にフワッと飛んで隣りのレーンに入ってしまったんです。ゴト、と力なく落ちたそれはヒョロヒョロと転がって溝に落ち、振り返るとそのレーンのスタート位置に、まさにこれからとスタンバイしていた若い男性が、呆然と立っていました。ガーターはその人の点数とカウントされてしまったわけで、謝りに謝りました。
でもこの話のすごいのはその先で、翌日、新しい会社に出社したら、その男性がいたんです。ドラマやアニメなら恋が始まるしかない設定ですが、これが全く何もなかったんですね。天文学的と言ってもいい確率の偶然が起きた意味はどこにあったんでしょう?
90年代終わりに起きた“静かな演劇”の潮流を、平田オリザ氏が独自のメソッドで整理して“現代口語演劇”と名付け、演劇のつくり方と併せて平易な言葉で文章にし、新書という手頃で手軽な形態で出版したことで、当時、演劇を始める方法がわからなかった、あるいは、既存の方法はフィットしないと感じていた若い世代に一気に広まったと書きました。
では、当時すでに一定以上の人気や実績があった人たちは、“静かな演劇”の勃興と急速な拡大、浸透をどう感じていたのでしょう。それは彼らが初めて身近に遭遇した、演劇の位相の変化だったはずです。
と言っても、その心境を聞き書きしたいわけではなく、“静かな演劇”は彼らのその後を分ける役割も果たしたのではないか、という私見を書きます。
“静かな演劇”がつくったY字路
具体的な名前を挙げますね。ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏(以下、KERA)と松尾スズキ氏です。ふたりは“静かな演劇”スターターのひとりである宮沢章夫氏に計り知れない影響を受けました。しかしそれは“静かな演劇”以前の宮沢さんにです。
KERAさん主宰の劇団健康は1984年、松尾さん主宰の大人計画は1988年旗揚げで、まだ80年代小劇場ブームの只中でした。そんな中でも両劇団のチケットは飛び抜けて売れていましたが、当時の演劇界ではどちらも異端者扱いでした。
理由はいくつか考えられます。演劇に限らず当時の笑いは、起承転結やボケとツッコミ、あるいは前振りと回収のような構造から生まれるものが評価され、また、俳優や芸人のキャラクターに頼る属人性の高いものだった。若者文化の代名詞のように言われた小劇場の劇団の多くが大学のサークル発祥で、歴史と人脈という縦横のつながりがあり、さらに言えば本人たちの意識はどうであれ、一目置かれるブランド力があった。新劇の劇団の多くは社会問題を扱う知識と使命感を観客(演劇鑑賞会を通じて全国の)と共有し、養成所を持つ劇団もあって、やはり縦横の人間関係が強かった。
大人気バンド・有頂点との二足のわらじで活動し、毒気たっぷりのナンセンスな笑いが満載だった劇団健康と、地元でのサラリーマン生活を経て上京し、差別用語や下ネタと絡めた笑いを生んでいた大人計画は、前述のどれにも当てはまらない、いわば突発的に現れた外来種でした。孤立無援の2劇団のリーダーが、構成作家から身を転じ、ほとんど演劇の会場に使われたことのなかったラフォーレ原宿のホールで、オリジナルの映像と音楽を使い、それまでの日本の演劇には存在していなかった切れ味抜群の笑い(宮沢さん自身はそれを「意味はないけどかっこいいもの」と言っていました)を次々と舞台上で形にした一世代上のクリエイターを頼もしく感じ、憧れ、そのセンスとテクニックを自分たちならではのやり方に消化 / 昇華しようとしたのはよく理解できます。
やがて宮沢さんは大きくハンドルを切り、その道を追ったのがKERAさんで、元の道を走り続けているのが松尾さんというのが私の考えですが、言いたいのはフォロワーかそうでないか、ましてやどちらがいいかという話ではありません。同じ時期、同じ人を師と仰ぎ、競って笑いの切先を研いだ者同士が、潜在的には正反対の資質を持っていたことを“静かな演劇”がつくったY字路がゆっくりと証明したのがこの30年だったと思うのです。
チェーホフ、岸田國士、別役実
第2回目に“静かな演劇”は、101匹目の猿的な発生の仕方をしたと書きましたが、それは日本の演劇界には常に“静かな演劇”的なものが存在していたことの証左と言えます。“静かな演劇”の真髄は、決定的(劇的)な瞬間を観客に見せない、事件そのものではなくその余波で起きる運動の連鎖を表現することですが、その先駆者といえば世界ではチェーホフ、日本では岸田國士、さらに別役実です。彼らの影響はそれこそ静かに、日本の現代演劇に流れ続けていました。岩松了氏が岸田國士戯曲賞を受賞した際、選考委員だった別役氏が「日本のチェーホフ」と称賛したことは、まさに象徴的な出来事でした。
そしてKERAさんは、1997年に青山円形劇場(国立劇場もですが、こちらも強く復活を望む!!)が主催した青山演劇フェスティバル「別役実の世界1997」で別役戯曲を、2003年に岩松戯曲「西へゆく女」を演出、2007年には自身の劇団で「犬は鎖につなぐべからず~岸田國士一幕劇コレクション」、2014年に「パン屋文六の思案~続・岸田國士一幕劇コレクション」を上演、2013年から24年にかけてシス・カンパニープロデュースのもとチェーホフの四大戯曲の演出を敢行しました。ナンセンスな笑いをしっかりと継承し、不条理やダークファンタジーなどさまざまな作品を発表する一方で、“静かな演劇”の強度を、文学性、エンタメ性、集客力などの点で証明しています。
かたや松尾さんは、教授に就任した京都芸術大学舞台芸術研究センター主催の初の公演に、つかこうへい氏の「蒲田行進曲」をチョイスして朗読劇として上演。その際のコメントに「九州の美大生だったわたしは、学生演劇で上演された『熱海殺人事件』を見て、演劇の自由さに衝撃を受け、芝居を始めた。それ以来、お会いする機会もなかったけど、いつもどこかにつかさんがいた。」とあり、松尾作品の熱量とスピード、虐げられた弱者の爆発はつか由来だった可能性を示しました。自作以外の戯曲をあまり演出しない松尾さんが2010年に引き受けた東京芸術劇場の企画は野田秀樹氏の「農業少女」の演出で、野田作品の飛躍力あるフィクション性はまさに“静かな演劇”と対極にあるもの。さらに近年は、邦楽を取り入れたミュージカルの創作に打ち込むなど、新たなケレンの創出に情熱を注ぎ、宮沢さんの初期よりさらに遡った演劇史を取り込んでいます。
演劇界の外れにいたふたりが“静かな演劇”から発生した分かれ道をそれぞれたどり、正反対の資質を持って日本の演劇を牽引しているとしたら、なかなか素敵なことではないでしょうか。
最後に、宮沢さんが亡くなった2022年9月、宮沢さんの訃報に触れてKERAさんがXに投稿した文章の一部をご紹介します。「80年代末~90年代初頭、まだ20代だった、同年齢の松尾スズキ氏と俺は、乱暴に言うと『どちらが先に宮沢さんの真似が上手く出来るか』を競っていた。」。そう、おふたりは同学年(松尾さんが1962年12月生まれ、KERAさんは1963年1月生まれ)なのです。ちなみに平田氏、松田正隆氏も、また、“静かな演劇”の文脈からは外れますが坂手洋二氏も同じ1962年生まれ。この偶然には、何か意味があるのでしょうか?
- 徳永京子
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演劇ジャーナリスト。東京芸術劇場企画運営委員。せんがわ劇場演劇アドバイザー。読売演劇大賞選考委員。緊急事態舞台芸術ネットワーク理事。朝日新聞に劇評執筆。著書に「『演劇の街』をつくった男─本多一夫と下北沢」「我らに光を─蜷川幸雄と高齢者俳優41人の挑戦」、「演劇最強論」(藤原ちから氏と共著)。
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