改修工事で休館中の東京芸術劇場に、所用があって久々に。閉じた両目が開くのも間もなく。暑い日で、すぐ隣のグローバルリンクでは、子供たちが噴水で大はしゃぎ。

眼鏡とコンパス─徳永京子、演劇の座標のんびり旅─ 第2回 [バックナンバー]

80年代小劇場演劇からの引き算

現代口語演劇誕生前にあった、“静かな演劇”の発生と広がり

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舞台の中に社会を、社会の中に舞台を見出し、それを精緻かつ確かな言葉で伝え続ける演劇ジャーナリスト・徳永京子。この連載では、舞台を通して徳永が見たもの、聞いたもの、感じたことを、日々の目線を通してつづる。

撮影・/ 徳永京子

“静かな演劇”を再考する

美容師さんと仲が良いんですよ。
もう30年ぐらいの付き合いで、最近では、Threadsやインスタで見かけた「これは」と思う動画をLINEで送り合うというのを日に何ターンもしているくらい。ここまで長く続いている理由はいくつかあると思うんですけど、音楽の趣味が合うのも大きい気がします。で、少し前に、今は何を聴いているか質問されてあるバンドの曲名を答えた時に、何も考えず、「とにかくバチクソかっこいいの」と言っていたんです。

……バチクソかっこいい。

そんな言葉が自分のボキャブラリーにあったとは、その時まで知りませんでした。でもその形容詞は、まさにジャストフィットするものだったんですよね。

見聞きしたことが無意識に染み込んで、知らぬ間に発酵して、出てきたら妙にその時に気分にしっくり来るものだった。人生ではたまにそういうものに出会いますが、“静かな演劇”も私にとってそのひとつだった気がします。

前回も書きましたが、現代口語演劇は、ある日突然、平田オリザ氏によって発明されたわけではなくて、その誕生前夜として、“静かな演劇”の発生と広がりがありました。平田さんがそこで見出した確信や成果に、選択と強化と整理を経て体系化したのが現代口語演劇です。つくり手自身による演劇の入門書が、約20年、ほぼ空白だった時代に「日常が演劇になる」という気軽かつ創造性を刺激する概念を、「読みやすい文体とボリューム、手頃な価格をパッケージ化した新書」にして広まったそれは、圧倒的な影響力を持ちました。ただそのために“静かな演劇”の存在感が薄まってしまった気が私はするんですね。若いつくり手に現代口語演劇の影響が急速に薄れつつある今、“静かな演劇”の解像度が低いまま過去のものになっていくのは残念なので、そのあたりを少し詳しく書きたいと思います。

中心から離れた場所で営まれる宙ぶらりんな右往左往

“静かな演劇”という呼称の始まりをネットで検索すると、共同通信の文化部記者だった片岡義博氏が「静かな舞台」と書き、その後、演劇評論家の扇田昭彦氏らが「静かな劇」という言葉を使うようになった、という情報が見つかります。では現在定着している“静かな演劇”は、誰がいつ使い出したのか。随分前、扇田さんにお聞きしましたが、「いつの間にかそうなっていたんだよね」とのことで、詳しい経緯はわかりません。

そもそも名付ける行為は多くの場合、とりこぼしを生みます。実際、音響的にまったく静かでないものもあり、そのひとつがこの潮流を起こした代表格である岩松了作品だったので話はややこしくなりますが、つまり“静かな演劇”は最初から、物理的に静かなことがマストではなかった。余談ですが、いや、余談でもないですけど、ほとんどの岩松作品の核にある感情は苛立ちです。複数の苛立ちが衝突するから声量が大きくなるんですね。
ではなぜ、「静かな」だったのか。そう呼ばれた作品の特徴を改めて書き出すと、こんな感じでしょうか。
明確な主人公は存在せず、あるコミュニティの群像劇。特定の人物の内面ではなく、人と人の関係性の変化にフォーカス。目的が曖昧な、あるいは複数の目的が重なるセミパブリックな場所が舞台。描かれるのは、大事なことが起きたあとか、決定的なことが起きる前の時間帯。重要な事件は劇中に出さず、見せるのは、その影響を受けている人々の反応とその連鎖。せりふは、内容も語順も整理された日本語ではなく、日常の会話にならって言い淀みや長い間がよく使われる。ストーリーを動かすのはアクションではなくリアクション──。

つまり、中心から離れた場所で営まれる宙ぶらりんな右往左往なわけで、直前に隆盛を誇った80年代小劇場演劇の濃密なフィクション性やスピード感、具体的な情報量と運動量などと比べると、明らかに引き算なのです。それを先人は直感的に「静かな」と表現したんでしょうね。

享楽の時代に対するアンチテーゼとして

百匹目の猿現象ってありますよね。80年代末から90年代初頭にかけて日本の演劇界でそれが起きました。当時、私はふたりの作・演出家から「俳優が客席に背中を向けて喋るのは自分が発明したと思っていたら、平田オリザという人が先にやっていたらしい」という話を聞きました。そして前述の岩松氏、また、宮沢章夫氏も打ち合わせなしで同じゲームを始めていたわけで、そんなにも多くの人が一方向に動くのは、外的な要因があるはずです。

よく言われるのがバブルの崩壊ですが、1989年1月7日の昭和天皇崩御の前後に日本全体を覆ったムードも、人々の心理的な明度を変えたと思います。テレビCMも放送されず、さまざまなイベント(特に歌舞音曲にまつわるもの)は自粛か規模縮小となり、「もうはしゃいでいる場合ではない」という気分がひたひたと浸透していきました。また、1988年から89年に起きた首都圏幼女連続殺人事件の犯人の自室に大量のアニメのビデオや漫画があったことから、オタクバッシングが起き、サブカル全体に冷たい目が向けられたことも、80年代的なものとの乳離れが促された一件でした。

そして内的な動機として私は、「脱・テレビ(的な笑い、消費)」がひとつの鍵としてあったと考えています。三巨人のうち、岩松さんと宮沢さんの始まりに深く関わっているからです。宮沢さんは、1985年にスタートしたラジカル・ガジベリビンバ・システムでナンセンスかつスタイリッシュな笑いを極めましたが、1988年、それと並行していたラジオ、テレビの仕事を一切やめて海外へ移住、帰国間もない1990年に遊園地再生事業団を設立して発表した「遊園地再生」は、いわゆる笑いからかなり遠いものでした。岩松さんは、当時所属していた東京乾電池がバラエティ番組「笑っていいとも」に出演して劇団の知名度を高める中、その人気に反発した主宰の柄本明さんの意向で、極めて小さなコミュニティ内のハイコンテクストな会話劇「町内劇シリーズ」「お父さんシリーズ」を書きます。そしてエチュードをまとめる作業を経てたどり着いた6作目、シリーズ最後の「蒲団と達磨」で1989年の岸田國士戯曲賞を受賞します。岸田について書くと、宮沢さんは「ヒネミ」で1993年に受賞。平田さんは「東京ノート」で1995年に受賞しています。

瞬間的な享楽を「もっと、もっと」と求められ、すぐに消費され、また次を要求される。そんなバブル的な感覚の代表がテレビだったのかもしれません。そこに違和感や抵抗感を感じていた人が他にもいたからこそ、“静かな演劇”は受け入れられたのでしょう。

ただ、実際はすんなり歓迎されたわけではなく、ずいぶん批判もありました。せりふが聞こえない。ストーリーがつかめなくてイライラする。笑えるところ、キラキラしたものがなくて楽しくない。日常の再現にわざわざお金を払う意味がわからない──。
新しいゲームが始まった時、つまらないと言う人は必ずいて、本当に楽しめないケースと、ルールを覚える前の戸惑いというケースがあり、どちらも否定することではありません。ただ、だから新しいことを始めようとしている人は、多少の批判はデフォルトだと考えていいのです。誰かがどこかでそれを「バチクソかっこいい」と言っているかもしれませんよ。

徳永京子

演劇ジャーナリスト。東京芸術劇場企画運営委員。せんがわ劇場演劇アドバイザー。読売演劇大賞選考委員。緊急事態舞台芸術ネットワーク理事。朝日新聞に劇評執筆。著書に「『演劇の街』をつくった男─本多一夫と下北沢」「我らに光を─蜷川幸雄と高齢者俳優41人の挑戦」、「演劇最強論」(藤原ちから氏と共著)。

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