舞台の中に社会を、社会の中に舞台を見出し、それを精緻かつ確かな言葉で伝え続ける演劇ジャーナリスト・
撮影・
人間はそれぞれ違うにおいを持って生きている
何年振りかでマスクを外して出かけたんですね。その日、一番驚いたのは何だと思いますか? まったく予想していなかったんですけど、においです。加齢臭や香水や、お昼に餃子食べましたねという強いものじゃなくて、人間はそれぞれ異なるにおいを持っている生き物なんだということを、たぶん生まれて初めて意識しました。電車に人が乗ってくる、移動する、と、その人が放つにおいが見えない動線になって車両に漂う。よく第一印象で、なんとなく気が合いそうとか、ちょっと苦手な感じがするとかありますけど、あの感覚の由来は見た目だけじゃなく、絶対ににおいも関係していると思いました。
人がリアルに集まって成立する演劇は、コロナ下では感染に敏感にならざるを得なかった。で、感染症対策解禁慎重派だった私が、なぜこのタイミングでマスクを外したかというと、人懐こくて賑やかな演劇が増えてきたことに触発されたからなんです。
いや、そもそも、演劇って賑やかなものなんじゃないの?と思った方、きっといますよね。
空前の盛り上がりを見せているミュージカルも、もはや演劇のいちジャンルになった2.5次元も、言うまでもなく歌とダンスが不可欠なので、たとえストーリーは悲劇的でも賑やかです。でも、いわゆるストレートプレイの界隈では、90年代の終わりから“現代口語演劇”というスタイルが主流になっていて、それはざっくり説明すると、演劇を私たちが生きている日常に限りなく近づけることでした。普通の会話と同じくらいの声量で、整理されていない語順で、せりふには「あれ」とか「あの」などぼんやりした言葉がたくさん入っていて、俳優が観客に背を向けて話したり、AさんとBさんの会話とCさんとDさんの会話が同時に進行したりするのが特徴で、演劇は日常から飛躍するドラマチックなものだという概念をひっくり返すものでした。
え、日常と同じようなものを見せられてどこがおもしろいの? しかもお金を払って、という疑問を持った方、いますよね。
ところが、おもしろい作品、状況が、次々と生まれたんですよ。日常ってなんだとか、言葉と身体って本当につながっているの、という問い直しから斬新な表現が出てきたり。俳優が大きい声で話さないから耳を澄ます、開演前から俳優が舞台にいて劇の始まりがはっきりわからないから集中する。そうこうするうちに感覚が繊細になって、スケールの大きい物語とは違う脳のポイントを刺激されて、妄想アドレナリンが湧き出たり、登場人物たちのかすかな言動から、彼や彼女が受けている影響の根源を深読みしていく楽しさが生まれていったんです。
長く強力な影響力を発揮してきた、現代口語演劇
歴史を見ると、演劇のブームは時計の振り子(って最近はあまり見かけないですけど)のように、前の時代と逆の動きが出ることが繰り返されてきました。これまたざっくりした話になりますが、ちょっとだけ歴史を振り返りますね。型を重視する歌舞伎などの古典に対して、西洋の演劇にお手本を心理描写を求めた新劇へ。啓蒙的な新劇に対して、反体制的で実験的なアングラへ。難解になっていったアングラから、ポップで発散型の80年代小劇場演劇へ。言葉も動きも過密な80年代小劇場演劇から、内省的で大きな事件の起きない現代口語演劇へ。そして現代口語演劇は、90年代後半に日本の演劇シーンの中心的なポジションを得て以来、ずっと強力な影響力を発揮してきました。
その理由として、現代口語演劇の提唱者である平田オリザ氏が、前提とする考え方や創作のコツを書籍化して、しかもそれが新書中心だったことが大きいと私は考えていす。新書は価格が手頃だし、文字量もあまり多くない。演劇を始めたいけれど具体的な方法がわからない、そしてお金もあまりない若い世代のバイブルとして、その形そのものが広まりやすかったわけです。その前の80年代小劇場演劇のつくり手で演出論や作劇論を書いた人はほとんどいなくて、演出家自身による指南書には20年くらいの空白があったし、その前のアングラ世代のつくり手たちが書いた演出論は難解かつボリューミーだったんですよね。
ただ、現代口語演劇という言葉で平田さんがその考え方やスタイルを整理する前に、岩松了氏、宮沢章夫氏がほとんど同時に、観客の前で事件らしいことは起きない演劇をつくっていて、それらは“静かな演劇”と呼ばれていました。また、観客に背中を向けて俳優が喋る、大きな物語ではなく家族間の話などミニマルな人間関係をモチーフにする作品はさまざまな若手劇団で上演されるようになっていて、演劇のダウンサイジングは同時多発的に進んでいたと言えます。少しずつ溜まっていたコップの水が、現代口語演劇という言葉であふれて広がっていったイメージでしょうか。
好奇心と柔軟性を再起動させて
これはバブルの崩壊と重なっていて、以来、この国はずっと不景気なので、日本の経済状況をストレートに反映してきた演劇は、まだしばらく現代口語演劇が中心なのかなと思っていたら、この数年、少しずつ様子が変わってきました。特に20代の劇団に、現代口語演劇の影響をまるで受けていないような、むしろ80年代小劇場演劇が遺したものを掘り返しているような賑やかさ、明るさ、ポップさを感じています。で、そういう人たちは気軽に、大勢で、とにかく集まるんですよ。自分たちの劇団が唯一無二の居場所で、よその劇団への客演も絶対NGだった80年代の劇団と大きく違うのはそこで、基本的に人懐こい。作品を通してそういう人たちに触れるうち、コロナに蓋をされてきた好奇心と柔軟性が再起動して、冒頭に書いたように私もマスクを外すに至ったわけです。そう、若い世代の集まることへの関心は、コロナがもたらした抑圧への反動が考えられます。でもきっと、それだけじゃない。
そんなわけでこの連載では、たくさんある日本の演劇の動きから、私が気になったものを、ちょっと昔のことや最近の何かと結びつけながら考えていこうと思います。せっかく嗅覚が敏感になったので、その力に頼りながら。
- 徳永京子
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演劇ジャーナリスト。東京芸術劇場企画運営委員。せんがわ劇場演劇アドバイザー。読売演劇大賞選考委員。緊急事態舞台芸術ネットワーク理事。朝日新聞に劇評執筆。著書に「『演劇の街』をつくった男─本多一夫と下北沢」「我らに光を─蜷川幸雄と高齢者俳優41人の挑戦」、「演劇最強論」(藤原ちから氏と共著)。
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ケラリーノ・サンドロヴィッチ @kerasand
興味深い書き出しで徳永の連載が始まった。「静かな演劇」と別の潮流。早く次が読みたい。
ちなみに、平田オリザさんは私と同い年で、亡くなった宮沢章夫さんは6つ上で、岩松了さんは10歳上。 https://t.co/6OS5ejpuu5